国際通貨基金(IMF)と世界銀行は、第二次世界大戦中の1944年7月、ニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた連合国通貨金融会議において誕生しました。
目的は、荒廃したヨーロッパの債権に資金を提供し、将来の経済不況から世界を救うための協調した努力を行うことでした。
世界銀行は、中所得国に融資を行う国際復興開発銀行(IBRD)と、最貧国に融資を行う国際開発協会(IDA)からなります。
IMFには、世界経済の安定を図るという難しい仕事が割り当てられました。ブレトンウッズに集まった人々には1930年代の世界不況の記憶が強く残っており、経済の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立されました。
IMFの設立当初、その方針を牽引したのはケインズの考え方でした。経済不振に対して政府が介入し、総需要を刺激する金融・財政政策をとるために、融資などの支援策を行うものでした。
ところが、IMFの方針が、ワシントン・コンセンサスの台頭とも相まって、緊縮財政、民営化、市場の自由化をイデオロギーとして押し付ける政策に変容していきました。
IMFの基本方針
イギリスの経済学者で、後にブレトンウッズ会議の主要なメンバーとなるケインズは、十分な総需要の欠如が経済不振の原因であり、政府は総需要を刺激する金融政策をとり、それが有効に機能しない場合に財政政策として公共支出を増やすか減税をすればよいと言いました。
このモデルは後に批判を受け、修正されましたが、その基本的な教えは今も有効であるとされています。
IMFは、再度の世界的な不況を阻止するため、自国の経済が悪化するにまかせて世界の総需要の維持に協力しない国に、国際的な圧力をかけることを考えました。経済の下降に直面していながら自前の資源で総需要を刺激できない国々には、貸付によって流動性を与えることも考えました。
発足当初のIMFは、市場はしばしば有効に機能しないため、大量の失業者が出るし、国の経済復興に必要な資金を生み出すことにも失敗するという認識に立っていました。
IMFは世界中の納税者が提供した資金によって運営される公的機関ですが、資金を出している市民にも、支援を受ける途上国の人々にも、直接的な報告義務を負っていません。IMFの報告先は各国の財務省と中央銀行です。IMFを取り仕切るのは主要先進国であり、有効な拒否権をもつのはアメリカだけです。IMFを変質させた大きな原因が、このようなマネジメントのあり方です。
IMFと世界銀行の変容
1968年に世界銀行の総裁に任命されたマクナマラは、第三世界で見た貧困に衝撃を受け、貧困の撲滅を行動指針として掲げました。
マクナマラの親友であり助言者でもあった高名な開発経済学者、ハーバード大学教授のチャネリーは、マクナマラの補佐として、第一級の経済学者を世界中から集めました。彼らは、なぜ市場が途上国で有効に機能しないか、市場を育て、貧困を撲滅するために政府に何ができるかといった問題を重視しました。
1980年代になると、レーガンとサッチャーが、それぞれアメリカとイギリスで自由市場イデオロギーを布教しました。世界銀行とIMFが劇的に変化したのはこの頃です。
1981年に世界銀行の新しい総裁としてクローセンが着任すると、人事が一新されました。新たにチーフ・エコノミストとなったクルーガーは国際貿易の専門家で、「レント(超過利潤)追求」(特定の利害関係者がどのように関税その他の保護貿易主義的な手段を使って自分の利潤を増やしていくか)に関する研究で知られていました。
クルーガーは、自由市場こそ発展途上国の問題を解決すると考えていたので、政府の介入を問題視しました。この時点で、チャネリーが集めてきた一流の経済学者の多くが辞めていきました。
世界銀行とIMFの使命は、元々別のものでしたが、この頃から両者の活動は密接に絡み合うようになりました。1980年代、世界銀行はプロジェクト(道路やダムの建設)への融資にとどまらず、「構造調整融資」という幅広い援助に乗り出しました。その際に必要なIMFの承認において、IMFは決まって相手国に条件を課しました。
市場はしばしば有効に機能しないとする信念のもとに設立されたIMFでしたが、市場至上主義のイデオロギーを熱烈に信奉するようになりました。赤字の削減、増税、金利の引き上げなど、経済の縮小につながる政策をとっている国にしか融資しなくなりました。
IMFと世界銀行の思想に気乗りしない貧しい国々でも、その財務省は、融資や補助金を得るために必要とあれば喜んで転向しました。しかし、政府の役人や国民の大多数は懐疑的でした。
ベルリンの壁が崩壊すると、IMFには、旧ソ連およびヨーロッパ旧共産圏諸国を市場経済に移行させるという新たな活動の分野が生まれました。
IMFは援助国のマクロ経済の問題、たとえば政府予算の赤字、金融政策、インフレ、貿易赤字、外国からの借入といった問題のみを担当するとされました。世界銀行は構造的な問題、例えば政府予算の使途、その国の金融機関、労働市場、貿易政策といった問題に責任を負うとされました。しかし、構造的な問題は経済全体のパフォーマンスに影響を及ぼすため、ほとんどすべてがIMFの領域に入ると考えられるようになりました。
2つの機関はG7の総意によって動かされていました。特に影響を及ぼしていたのが財務相や財務長官で、彼らは自分たちが出す戦略以外の戦略に関する活発な民主的議論を望みませんでした。
結局、IMFは当初の使命を達成することができませんでした。それどころか、未成熟な資本市場の自由化を中心とするIMFの推進した多くの政策が、世界的な不安定性の原因となりました。どこかの国が危機に陥る度に、IMFの融資や計画は状況を安定させるのに失敗しただけでなく、事態を一層深刻にし、特に貧困層の生活を悪化させました。
旧共産主義国の市場経済への移行を導くといった新しい使命にも成功しませんでした。
世界貿易機関(WTO)の創設
ブレトンウッズ体制は、1995年に第三の国際経済組織である世界貿易機関(WTO)をつくりました。WTOには国際貿易を取り仕切らせるつもりでした。
WTOの目的は、関税を引き上げて自国の経済を維持しようとする自己中心的な政策を止めさせ、モノとサービスの自由な流れを推進することでした。自らルールを定めるのではなく、フォーラムを主催して貿易交渉を勧め、協約がきちんと履行されるように監督する役割でした。
ワシントン・コンセンサスの台頭
「市場は万能ではなく、政府の適切な介入が必要である」としていたIMFのケインズ主義的な方向は、1980年代に闇雲に叫ばれた自由市場主義に取って代わられました。
その背後にあったのが、経済の開発と安定にそれまでとは根本的に異なるアプローチを取ろうとする「ワシントン・コンセンサス」(IMF、世界銀行、米国財務省の間で確認された、発展途上国に対する”正しい”政策に関する合意。緊縮財政、民営化、市場の自由化を三本柱とする。)でした。
このコンセンサスに組み込まれた考え方の多くは、ラテンアメリカの諸問題を考えるうちに発展したものでした。第二次世界大戦直後の数十年にラテンアメリカの一部の国で見られた爆発的な成長は持続せず、その原因として、政府が経済に介入し過ぎたことがあげられたからでした。
1980年代、ラテンアメリカ諸国の政府の多くは巨額の赤字に苦しんでいましたが、その一因となったのは非効率的な国営企業の欠損でした。保護貿易措置によって競争と無縁だった非効率的な民間企業は、消費者に高い価格を押し付けていました。さらに、緩い金融政策のせいでインフレが手のつけられない状態になっていました。
ある程度まで財政上の節度は必要です。また、政府が直接行うのは基本的な公共サービスに限るべきで、事業経営は民間部門に任せたほうが効率的です。
貿易の自由化(関税の引き下げ、その他の保護貿易措置の撤廃)が適切なやり方とペースで行われ、非効率的な仕事がなくなって新たな職が生まれれば、効率のよい社会が出来上がります。
緊縮財政、民営化、市場の自由化を三本柱とするワシントン・コンセンサスは、ラテンアメリカで実際にかなりの効果をあげたため、世界中の国に適用できるはずだと考えられ、IMFは発展途上国にもこれらを強要しました。
発展途上国に市場開放を迫り、競争力のない国内産業の製品を、強力な外国の輸入品と競争させた結果、社会的にも経済的にも悲惨な結果を招きました。雇用体系は破壊され、工業部門と農業部門を成長させて新しい雇用を創出することなどできませんでした。
IMFが発展途上国に対して強く求めた金融引き締め政策の維持は、金利の上昇につながり、新たな雇用の創出もままならない結果をもたらしました。しかも、セーフティ・ネットが整備される前に貿易の自由化が進められたため、失業者は貧困に追い込まれました。
資本管理に関しては、ヨーロッパ諸国が70年代まで資本の自由な流れを規制してきたにもかかわらず、銀行システムがほとんど機能していない発展途上国にリスクの大きい資本市場の開放を求めました。その結果、激しいホット・マネーの流出入起こり、その過程で大混乱を引き起こしました。
過度の緊縮経済は途上国の成長を押さえました。強力な金融機関が設立されないうちに急いで市場を開放して競争を促した結果、新たな雇用が創造される前に職がなくなり、失業率の増加と貧困の増大につながりました。
多少の成長を経験した国でさえ、その恩恵はほとんど最高レベルの富裕層を潤すだけで、最下層の収入がさらに下がることさえ少なくありませんでした。
緊縮財政、民営化、市場の自由化といった政策がイデオロギーと化し、目的そのものになってしまったため、極端かつ急激に押し進められ、必要な他の政策が実行できないほどになりました。
世界政府のない世界統治
国際経済機関の問題は、マネジメントにあります。これらの機関を支配するのは、世界有数の富裕な工業国の商業的かつ金融的利害です。
IMFには財務相と中央銀行総裁が代表で参加しますが、彼らは金融界とつながりを持っています。WTOには貿易相が代表で参加し、彼らは実業界とつながりを持っています。
IMFと世界銀行は発展途上国に向けて活動するにもかかわらず、その機関を統括するのは先進工業国の代表です。スタッフの選任は閉ざされた扉の背後でなされ、発展途上国での経験の有無が選任の必要条件とされたことは一度もありません。
IMFと世界銀行の乖離
世界銀行とIMFは、その文化、行動指針、使命は明らかに違います。世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とします。
どちらもエコノミストの一団を海外に派遣して3週間ほど視察させていますが、世界銀行のほうは援助しようとする国に必ず少数のスタッフを長期的に駐在させるように取り計らっています。
IMFには居住者の代表が一人いるだけで、その権限は限られています。IMFはクライアント国を訪問する前の標準的な手続きとして、報告書の草稿を作成します。実際の訪問では、その報告書や提言の明らかな誤りを見つけ、修正を加えるためでしかありません。草稿は実質的に定型文書で、ある国の報告書から借りてきた文章が別の国の報告書に使い回されています。
そのようにして形式的につくられた報告書に基づく提言が、その国の事情をろくに考慮されないまま、押し付けられているのです。