企業の社会的責任は、企業倫理の問題と切り離すことができません。
かつての企業倫理は人間の道徳観の延長としてとらえられていました。後に、地域社会における貢献活動となっていきました。
ドラッカーのいう企業倫理は、マネジメントとしての責任と権限に由来します。それは、リーダー的地位にあるものの責任であり、「知りながら害をなすな」(『ヒポクラテスの誓い』3)です。
かつての企業倫理
かつては、企業あるいは企業人に特有の倫理というよりも、人間の道徳観の延長として捉えられていたようです。企業倫理以前の問題です。
単純な日常の正直さ
ごまかしたり、盗んだり、嘘をついたり、贈賄したり、収賄してはならないなどといった、人間行動の一般的ルールです。ビジネスの倫理というものが別にあるわけではなかったようです。
人間としての美意識
ドラッカーは、例として「顧客をもてなすためにコールガールを雇うこと」をあげています。人間としての美意識の問題であって、企業倫理ではありません。
しかも、この潔癖さは、歴史上、指導者やインテリの間に一般的な資質として広まったことは一度もなかったと、皮肉を付け加えることも忘れません。
地域社会において積極的かつ建設的な役割を果たす倫理的な責任
以前の社会的責任に近づいてきます。
ただし、ドラッカーが言う社会的責任、すなわち、マネジメントが持つべき責任とそれに対応した権限から見て正当なものであるかどうかは、別問題です。
ドラッカーは、地域社会の活動に参加することは望ましいが、倫理や責任とは関係ないと言います。あくまで一市民としての個人の貢献の問題であって、仕事の外にあるものです。
ですから、強制されるべきでないし、企業内で報酬を受けたり昇進するなどの褒賞を受けるべきものでもありません。そのような行為は組織の力の濫用であり、正当な権力の行使ではないと、厳しく指摘しています。
わが国でも、働き方改革の流れの中で、行政が、有給のボランティア休暇の導入などを推奨しているようです。
法定の有給休暇自体は、理由を問わず取得できるものですが、わざわざ「ボランティア休暇」と称して、使途を特定して利用を推奨する行為は、果たしてどのように評価されるべきでしょうか。
行き過ぎた企業倫理
マスコミや学者の間で度々議論にのぼる「企業倫理」には行き過ぎたものがあります。
「企業倫理」という特別な倫理の存在を認めることは、企業および企業経営者の責任が社会に対する影響力をもつという理由によって、その倫理を決定しなければならないという考え方です。
ドラッカーは、この考え方を非常に危険であると言います。企業には普通の人とは違うルールが適用されるということですから、見方を変えると、都合のよい解釈や弁解がまかり通る可能性が出てくるからです。
倫理の内容に議論はあっても、常に適用されるべき倫理は一つでなければならないというのが、歴史的な倫理学の一致したところです。企業だけに特別に適用されるものはありません。詳しく知りたい方は、次の記事を参照してください。
リーダー的地位にあるものの責任 - 知りながら害をなすな
企業倫理、企業人としての倫理は、あくまでマネジメントとしての倫理でなければなりません。個々の人間の問題ではありません。権限を持つ地位にあることに伴う責任であり、義務です。
リーダー的地位にあるグループの一員としての責任であり、「プロフェッショナルとしての責任」であるべきです。
ドラッカー曰く、プロフェッショナルの責任とは、2500年前の「ヒポクラテスの誓い」
知りながら害をなすな
- 私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
(出典:日本医師会ホームページ)
プロフェッショナルは、必ず良い結果をもたらすと約束することはできません。最善を尽くすことしかできません。
しかし、「知りながら害をなすことは絶対にしてはいけない」ということです。
そうあるために、プロフェッショナルには「自立性」が必要です。私的な側面と公的な側面のバランスが必要です。
私的側面:顧客によって支配、監督、指揮されない
自らの知識と判断が自らの決定となって表れるという意味で、私的な存在です。
政治やイデオロギーの支配に従わないという意味でも、私的な存在です。
公的側面:私的な利害ではなく、公的な利害で動く
言動が依頼人の利害によって制限されているという意味で、公的な存在です。