企業倫理の問題

「企業倫理」なるものが議論されることがあります。「企業倫理」という特別な倫理の存在を認めることは、企業および企業経営者の責任が社会に対する影響力をもつという理由によって、その倫理を決定しなければならないという考え方です。

これは非常に危険な考え方につながります。企業には普通の人とは違うルールが適用されるということですから、見方を変えると、都合のよい解釈や弁解がまかり通る可能性が出てくるからです。

ドラッカーは、企業倫理を論じる場合、孔子が説いた相互依存の倫理を適用することができると指摘します。

組織は、企業に限らず、さまざまな立場の相互依存関係が存在します。相互依存の倫理における「正しさ」は、両者にとっての恩恵が最大となることをもって判断されます。

相互依存の倫理では、両者の義務が平等であることが要求されます。一方に義務のみがあり、他方に権利のみがあるような関係は、倫理ではなく搾取であり抑圧です。

また、組織の社会では、特別な身分にある人ではなく、無名であるような人が、人の注目を受けるべき人間であり、実際の重要人物となります。したがって、分別の倫理と自己開発もまた必要になります。

人間にとっての一つの倫理

「倫理」とは、社会生活で人の守るべき道理、人が行動する際の規範となるものを意味します。

「倫理」に似た言葉として、「道徳」があります。「道」とは世の中で人が従うべき道のことであり、「徳」とはそれを体得した状態のことを意味します。

どちらかというと、「道徳」が個人、場合によっては家族などの小集団に用いられることが多いのに対し、「倫理」は個々人の関係から社会に至るまでより広範に用いられることが多いという意見もあります。

いずれにしても、守るべき道理や規範が具体的に何を意味しているのかについては、それらの言葉自体が自明に包含しているものではありません。

ですから、倫理の問題は、古代ギリシャをはじめ、何世紀にもわたって、哲学者の議論の対象となってきました。いくつかの異なった考え方がり、異なった結論が導かれてきました。

まず、守るべき道理や規範の基礎になるものとして、神、人間の本性、社会的必要性などの相違があります。これらの違いによって、個々の行動のルールについても意見が分かれます。

ただし、ドラッカーによると、すべての哲学者が、ある点については完全に一致しているといいます。それは、一つの倫理、一組の道徳規範、一つの法体系のみが存在するということです。

その「一つ」が何かについては意見が分かれても、「一つ」しかないことについては意見が一致しているといいます。「一つ」がすべての人に等しく適用され、その人の立場や地位や身分によって違うものが適用されることはないということです。

ただし、西洋的な伝統のなかでは、状況によって罪を重く評価したり軽く評価したりすることは認められているといいます。

例えば、自分のためにパンを盗んだ場合と、貧しい寡婦が空腹の子供のためにパンを盗んだ場合とでは、後者の罪が軽く評価されることはあり得ます。ただし、罪そのものの存在は同じであり、人によって変わりません。

あるいは、特に軽い罪について、社会的あるいは文化的習慣による違いによって、許容される場合と許容されない場合があるということも、一般的には認められているといいます。

例えば、縁故採用について、ある文化では不公正であり、倫理にもとると理解されます。しかし、別の文化では、家族に対する責任を果たすことであり、さらに、会社に対してその者の後見人として責任を果たすことでもあります。縁故によって採用された者は、自分を推してくれた人への責任を自覚することになります。

決疑論

ドラッカーは、一つの倫理ということを重視し、企業倫理の議論に対して疑問を提示します。なぜなら、「企業倫理」なる特別なものが存在し、個人であれば許されることが企業には許されないかのような議論が自明のごとく行われるからです。

これは非常に危険な考え方であるといいます。一般的には、「企業」に対してはより厳しい倫理が適用されるという言い方になることが多いですが、違うルールが適用されるということですから、見方を変えると、都合のよい解釈がまかり通る可能性が出てくるのです。

例えば、個人が暴力団に脅されてお金を取られた場合、その個人が倫理に反すると非難されることはまずありません。ところが、企業が同じ目に遭うと、暴力団との癒着ということで企業が責められることがあります。癒着とは言わないまでも、暴力団の脅しに屈したということで非難されることはあります。

このような企業倫理の考え方の背景には、普通の倫理が企業にはあてはまらないという前提があります。

それは、西洋哲学史において「決疑論」と呼ばれます。支配者は大きな責任をもつため、支配者個人のために要求される倫理と、臣民や国家あるいは企業のために支配者が果たすべき倫理(社会的責任)との間にバランスをとることが必要であると考えます。

決疑論がはじめて唱えられたのは、カルバンの『キリスト教綱要』であるといいます。支配者は社会的責任をもつため、支配者の個人的行動や個人的良心を、社会的責任の要求に服従させる義務があると考えました。

ドラッカーによると、決疑論は正しくなく、倫理の方法論としては失敗せざるを得ないといいます。なぜなら、社会的責任を倫理的絶対として考えるため、最後は政治上の価値と目的が優先され、政治の道具にされるからです。

「企業倫理」という特別な倫理の存在を認めることは、企業および企業経営者の責任が社会に対する影響力をもつという理由によって、その倫理を決定しなければならないという考え方です。これがまさに政治的な要請です。

これが通用するということは、逆に言うと、普通の人間に適用されるルールが社会的影響力をもつ者には適用されないことを意味しますから、個人の良心と社会的責任に関する一種の費用対効果の計算が働き、その計算が倫理の代わりになりかねません。それは、ある種の弁解にさえなり得ます。

ドラッカーは、ロッキード事件を例にあげます。同社は、将来性のない型式の航空機について生産を中止し、その工場を閉鎖することが、経営者と株主の利益になると分かっていました。しかし、それを選択すると、ただでさえ失業率が高い地域において大工場が閉鎖され、大量の失業者を発生させることになりました。

結局、同社は雇用を守る選択をし、受注を獲得するために、航空会社から要求された賄賂を支払いました。それが社会的責任であると考えたからです。社会的責任を、経営者や株主の利益よりも優先したのです。しかし、これは贈賄の罪になりました。

さらに、電気機械談合事件も例としてあげます。3社の電機メーカーが、もっとも弱いメーカーの雇用を守るため、受注を分配していました。他のメーカーにとっては、受注の分配は利益の減少を意味していました。現に、談合が摘発された後、そのもっとも弱いメーカーは撤退を余儀なくされ、大量のレイオフが行われました。

決疑論は、当初、高度の道徳としてスタートしたものの、すでに葬り去られたといいます。決疑論がまかり通るならば、「大使は、外国では自国の利益のために嘘を言うが、正直な人間である」という話が成り立ちます(実際には、今でもこれが成り立っているかもしれませんが)。

分別の倫理

西洋の倫理には、もう一つの大きな伝統的流れである「分別の倫理」があります。指導的立場にある者は、人びとの手本として、正しい行動の実例を示し、悪い行動の実例を示さないようにする道徳的義務をもっているとするものです。

行動するときには、容易には理解されないもの、説明がつかないもの、正当化されないものは避けなければならないと考えます。

ただし、何が正しい行動であり、何が悪い行動であるかは示されません。それは十分に明らかであるという前提が存在します。疑わしきは「問題になり得る」という意味で、避けるべき行動とされます。

分別に従うことによって、地位にかかわらず誰もがリーダーとなり、他の人より卓越した者として「自己充足」を達成することができます。

自分がなりたくないような人間、尊敬できない人間、優れた人として認めたくない人間となるような行為を避けることによって、他よりも優れた人間になることができると考えます。

キルケゴールが言うところの「美意識が真の倫理である」という考え方に通じます。

しかし、人から認められる、正当化され得るという基準は、外見にとらわれることと紙一重です。ですから、分別の倫理は容易に堕落し得るとドラッカーは指摘します。

中身より見かけの方が重要になり、ただのPRになりかねません。ドラッカーは、容易に形式主義的独善に陥り、他の人間と違っていることのみに喜びを見出すようになります。自己規律ではなく自己に寛大、自尊でなく自堕落、知識より好き嫌いに傾くことになると指摘します。

しかし、このような傾向がありながらも、分別の倫理は組織の社会に適合しているといいます。ただし、企業だけではなく、あらゆる組織の管理者に当てはまります。

組織の管理者は、生まれや富によってその地位にいるのではありません。特別な名士だからではなく、特定の機能を果たすために存在しています。それは責任であるがゆえに、正しい行動をとらなければなりません。これが分別の倫理のすべてです。

組織の管理者の行動が、組織の精神をつくり、規範や価値観を決定します。つまり、彼らが組織の模範です。それは権威の問題です。権威の倫理こそが、分別の倫理です。権威のないところには責任もありません。

相互依存の倫理

ドラッカーによると、西洋以外にも、別の状況依存型の倫理が存在しました。孔子が説いた相互依存の倫理です。すべての人間の行動に適用される一般的規則です。

孔子は、5種類の基本的な相互依存関係の存在を示しました。上司と部下(主人と召使い)、父と子、夫と妻、長男と他の兄弟、友人と友人です。

これらの相互依存関係それぞれにおいて、「正しい行い」とされる真に適正な個人の行動があるといいます。その行動は、両者にとっての恩恵が最大となるがゆえに適正です。その他の行動は不誠実であり、間違った行動であり、不道徳です。

5種類の相互依存関係は、それぞれに異なる関係であり、異なる機能をもっているため、関係の違いによって、同じ行いが正しいこともあれば、間違っていることもあり得ます。

例えば、上司が部下に対してセクハラをする場合、それは上司と部下の相互依存関係に働く機能とは無関係の行為です。その行為を、上司と部下の関係を利用した力によって行おうとするため、間違った行為です。

また、上司が部下に対して、部下のプライベートな悩みを解決するために精神療法の施術をしようとすることも、間違った行為です。善意かどうかは関係ありません。上司と部下の力関係を利用して、上司と部下の関係に関わりない行為を行おうとすることは、間違っています。

企業倫理を論じる場合、この相互依存関係を適用することができると考えられます。関係は、組織と従業員、生産者と消費者、大学と学生など、それぞれの組織に特有の関係を考えることができます。

相互依存関係においては、両者の義務が平等であることが要求されます。両者にとっての恩恵が最大となることが適正であるからです。

ところが、現代における企業倫理の議論では、一方が義務を負い、他方が権利をもつという関係になっているといいます。そこにあるのは相互依存ではなく、搾取と抑圧です。もはや倫理ではありません。

一つの例として、ドラッカーは内部告発の問題をあげています。

内部告発を義務とし、それによって組織や上司から報復を受けることがないようにすることが定められています。組織に違法な行いがあるときには、従業員にそのような権利があることは重要です。

しかし、一般的な権利として内部告発を奨励すれば、上司と部下の信頼関係は弱まります。部下が上司の言動を気に入らないとか、不快であるなど、違法とは言い難いことも内部告発をする権利が容認され、しかも常に保護されるなら、上司にとって部下は潜在的な敵となり、上司が部下に果たすべき義務を感じなくなります。

内部告発の奨励は、歴史上、ナチズムやファシズム、共産主義などの独裁的な全体主義社会において存在したものです。そこに自由はなく、信頼も相互依存も倫理もありませんでした。平和はなく、恐怖だけがありました。

内部告発に限らず、一方にすべての義務があり、他方にすべての権利があるというなら、そこに倫理はありません。法律万能主義的な全体主義です。それは強者の道具でしかありません。平等の義務がない関係は、一方的な支配関係です。

なお、相互依存の倫理では、集団の倫理というものはありません。あくまで個人としての人間の倫理です。

倫理的スタイル

ドラッカーは、どのような倫理学においても、ある大きな活動分野がそれ自体の倫理的問題をもつとか、もつべきだという正当な理由はないといいます。倫理は、あくまで個人の正しい行動に関するものです。

したがって、特別なものとしての企業倫理が問われる場合、多分に、企業と経済活動全体に対する敵対心が含まれているといいます。あるいは、下卑たインテリたちの権力と名声への欲望であり、人間の弱さによるものであるといいます。

その意味で、企業倫理は、倫理学ではく倫理的スタイルであり、哲学や道徳ではなくマスコミのつくったイベントであるといいます。

人が相互依存する組織

組織は人間によって構成され、人間の相互依存によって成り立っています。よって、相互依存関係の倫理は適用できるはずです。

ただし、儒教が前提とした関係は、組織の社会には不十分であり、場合によっては不適合であると言えるかもしれません。ドラッカーは、相互依存の倫理を適用するに当たって、次のことが必要であると指摘します。

  • 基本的な人間関係の明確な定義
  • 普遍的で一般的な行動の規則、つまり、すべての個人や組織がその機能や他との関係において等しく拘束を受けるような規則であること
  • 誤った行いを排除するよりは正しいことを指し示すもの、動機や意図よりは行動に焦点を合わせたものであること
  • 有効な組織の倫理であること、すなわち、関係当事者個々の利益を最大にし、よってその関係を調和的、建設的かつ互恵的なものとするようなものであること

さらに、組織の社会では、特別な人ではなく、無名であるような人が、人の注目を受けるべき人間であり、実際の重要人物となります。したがって、分別の倫理と自己開発を強調するような社会でなければならないといいます。