集団には文化が生まれます。
産業集団の文化は、出身階級、職業的・技術的源泉、集団の背景となっている職場の雰囲気、小規模なインフォーマル集団自身の特殊な経験から生まれるといいます。
その最も重要な表徴は、①職業語、②儀式と儀礼、③神話と信条の3つに分類されます。
職業語
いろいろな職業は、その仕事をしていく上で、いろいろと変化に富んだ専門語を使用しなければならないことが知られています。
職業語の標準語からの偏差は、その職業に特殊化された専門語の使用からだけでなく、隠語や、階級の相違に基づく一定の慣用語の使用からも起こってきます。
技術的用語は、技術的必要性から生まれますが、隠語は、主として集団的連帯を強めるための機能を果たし、個々の成員を集団に帰属させる手段として役立ちます。
儀式と儀礼
よく結束した集団は、入会儀礼、通過儀礼、強化儀礼として分類されるような一定の儀礼を持っています。
入会儀礼は、いじめ、からかい、頼みごと、使いなどの形式があります。この機能は、集団に対する新参者の態度をテストし、能力の有無を明らかすることです。新参者に自らの劣等と無能を自覚させ、集団成員の優越性を示す機能もあります。
自らの劣等と無能を自覚した新参者が、その集団に入りたいと欲すれば、集団成員のモラールを高めることにもつながります。一人前の集団成員となることがあまりに容易であれば、集団成員になることに大して価値がないということを意味します。
通過儀礼は、ある集団成員が昇進、左遷、離脱の際に行われる儀式です。握手、送別会の開催、演説、冗談、些細な忠告等といった形をとって行われます。
この機能は、集団への帰属性や忠誠を表明すること、集団からの離脱過程を容易にすること、社会的断絶の完了を強調すること、あらゆる過去の怨恨が寛恕ないし忘却されることなどです。
入会と通過の儀礼の間に、強化の儀礼があります。この機能は、集団の連帯性や統一性を表示することです。
具体的な形式は、帽子のかぶり方、相互の挨拶の仕方、休憩中のインフォーマルな会合、外部の人には理解できない独特の冗談、食堂で共にする昼食、社内のレクリエーションでの同席、クリスマスや新年や休日などに行われるパーティーなどです。
これらの儀礼は、どんなに弱められた形態をとろうとも、集団らしい集団は必ずそれによって、一人前の集団員となることがそれほど簡単ではないという事実を示すものです。
結束の固い社会集団ならば、入会または通過に際しては必ず何らかの儀式を行い、自集団と他集団との区別を実際に表示しようとします。
すべての人が、何らかの集団に所属し、その中で誇りを得たいという強い欲求を持っています。個人の身分や地位の誇りが、かなりの程度、所属集団に依存しているならば、その集団の社会的意義が重要であればあるほど、個人的威光は高まるはずです。
それゆえ、会社がその地域社会において、あるいは世界において名声を博しているならば、その経営者は、労働者に価値ある誇りを与え、士気を高めているという意味で、偉大な財産を持っていることになります。
逆に、経営者がある仕事に対して低級で不潔であるなどといった決めつけを行っていることがありますが、これはきわめて危険な考え方です。そのような仕事に従事する労働者を貶めることになるからです。
実際問題として、仕事に危険で不潔な状態が存在し、それを経営者が放置しながら、そのようなレッテルを貼り続けているとすれば、労働者がそれを許しておかないでしょう。
仕事に対する労働者の態度に影響を与えるものは、作業集団がもつ社会的威光と、その中におけるその人の地位です。集団の威光が強く、その一員であることに十分満足を感じられるなら、なすべき仕事の種類はそれほど大きな問題でないことが、過去の調査でも明らかです。
神話と信条
神話と信条は、集団の行為を正当化し、集団を取り巻く世界で起こっている事柄を理解するための必要性から存在しています。過去の伝統を呼び戻すことによって集団の連帯を維持しようとするものでもあります。
神話は階級全体のものであることもあれば、個々の工場や作業集団が、それ自身の経験を基にして生み出したものであることもあります。
神話は、個々の会社に特有のものだけではありません。経営者に共通した、あるいは、労働者に共通した一般的な神話もあります。ただし、その神話を個々人が受け入れているかどうかは別問題です。
経営者の共通した一般的な神話には、次のようなものがあります。
- 自分が今の地位まで出世したのは、まったく自分自身の個人的能力によるものである。
- 労働者はズルい、あるいは怠惰で無精で馬鹿げている。
- アメとムチが労働者を働かせる唯一の誘引である。
- ちょっとした解雇手段で現下のすべての産業労働問題が解決できる。
- 親分・子分の関係は、人間にとって最も自然な関係である。
労働者の共通した一般的な神話には、次のようなものがあります。
- 経営者たちが現在の地位についたのは労働者の働きのお陰である。
- 労働者は常に搾取されつつある。
- 経営者の営利心によってあらゆる事柄が動かされている。
- 経営というものは楽な仕事である。
これらは、歴史上の特定の状況や時期において、一定の真実性を含んでいたかもしれませんが、元来、本質的に感情的な態度であり、イデオロギーです。
危険なのは、それらの神話を受け入れている人々が、あらゆる出来事をそれらに則って説明しようとすることです。新しい経験は、信じている思想をさらに強化するために役立つことになります。
このようなイデオロギーは、次のような特徴を備えています。
- 機能的には謬論に等しい。
- 正しい知識を持つことによって変えられることがない。
- 広範な直接的経験ですら変えられない可能性が高い。
- 個々人の行為に影響を与える。
- 相互に連関した全体を構成し、個々に変えることは期待できない。
- 労働者と経営者の相互感情は、個々の経営者や労働者の知識によってよりは、むしろ彼らを取り巻く社会的雰囲気の中に広がっている感情によって規定される。
特に最後の点において意味されていることは、経営層の人々は、その個人的本性によって労働者から眺められるのではなく、組織に奉仕する役員の一人として眺められるということです。職場に漲っている雰囲気に従って、一律に眺められるということです。
経営層の人々が個人として眺められるようになるには多くの時間がかかり、場合によっては、永久にそのようなことはないかもしれません。
職場の雰囲気は、経営層に対する見方だけでなく、そこで行われるあらゆる行為に対する労働者の解釈の仕方を規定します。