この記事では、ピーター・M・センゲの著書『学習する組織』(英治出版)に基づいて、学習する組織の構築を阻害する「組織の学習障害」について紹介します。
組織がうまく学習できないのは、組織の中に根本的な学習障害があるからです。組織の設計や管理の仕方、仕事の定め方、これまで教えてこられた考え方や相互作用のあり様などです。
優秀で熱心な人々が最善の努力をしても、こうした障害が起こります。往々にして、問題を解決しようと懸命に努力すればするほど、結果はますます悪くなります。
何かがおかしいと感じるものの、本能が命じるのは、今までのやり方を疑うことではなく、そのやり方を変える能力を育むことでもなく、そのやり方を今まで以上に強く守ることなのです。
7つの学習障害
治癒への第一歩は、7つの学習障害を認識することです。
「私の仕事は◯◯だから」
私達は自分の職務に忠実であるように教育されます。職務そのものが自分自身であるかのように錯覚するほど、その教育は徹底しています。
職業は何かと聞かれると、大抵の人は、自分が毎日どういう職務を行っているかを話すばかりで、自分の属する事業全体の目的については語りません。
属しているシステムに自分が影響を及ぼすことなど考えておらず、自分の責任の範囲は自分の職務の境界までに限定されていると考えがちです。
組織のメンバーが自分の職務だけに焦点を当てていると、すべての職務が相互に作用して生み出される結果に対して責任感を持てません。結果が期待外れだった場合、その理由を理解するのが困難です。
「悪いのはあちら」
私達は、物事がうまくいかないとき、自分以外の誰か(何か)のせいにする傾向があります。これは、「私の仕事は◯◯だから」障害とそこから醸成される非システム的な世界観の副産物です。
自分の職務だけに焦点を当てていると、自分の行為が、その職務の境界を超えてどのように影響するかが見えません。自分の行為が跳ね返ってきて害を及ぼすような結果をもたらしても、外的要因による新たな問題だと誤解するのです。
通常、「あちら」と「こちら」は共に一つのシステムの一部ですから、本来、「こちら」と「あちら」との境界を跨いだ問題を解決できる「てこ」を、「こちら」で見つけ出すことができるのです。
先制攻撃の幻想
マネジャー達は、しきりに「難しい問題に直面したときは先制攻撃の必要がある」と明言します。
ビジネスであれ、政治であれ、「あちらにいる敵」と戦おうとして攻撃的になるとき、大抵の場合、積極的に見えても、実は受け身なのです。
真の積極策は、私達自身がどのように自身の問題を引き起こしているかを理解することから生まれます。それは感情の問題ではなく、考え方の問題なのです。
出来事への執着
私達は、人生を出来事の連続と考えることに慣れていて、一つ出来事には一つの明らかな原因があると考えています。
そのような考え方が、出来事の背後にある長期的な変化のパターンに目を向け、そのパターンの原因を理解することを妨げます。
今日、組織にしても社会にしても、私達が生き残る上での最大の脅威は、突然の出来事によるのではなく、ゆっくりとした穏やかなプロセスによるものです。
人々の思考が短期的な出来事に支配されていると、組織内で根源から未来を創造するための「生成的学習」を持続させることができません。
ゆでガエルの寓話
企業の失敗に関するシステム研究において、徐々に進行する脅威への不適応が非常に多いことから、「ゆでガエル」の寓話が生まれました。
問題は、私達の頭が一つの回転数に強く固定されていることです。ゆっくりと徐々に進行するプロセスを見ることを学ぶには、顕著な変化だけでなく、僅かな変化にも注意を向ける必要があります。
「経験から学ぶ」という妄想
最も力強い学習は、直接的な経験から得られます。
私達には「学習の視野」があり、時間的にも空間的にも、ある一定の幅の視界の中で自身の有効性を評価しています。
行動の結果が自身の学習の視野を超えたところに生じる時、直接的な経験から学ぶことが不可能になります。特に、重要な意思決定がもたらす結果は、学習の視野を超えることが多いのです。
組織は、細かく要素に分けることによって、意思決定が及ぼす影響の幅広さに対応しようとしてきました。人々が理解しやすい職務の階層を設けるのです。
ところが、職務別の部門はやがて領地になります。かつては機能していた分業も、職務間の交流を断ち切る縦割りに変質し、職務の境界を跨ぐ複雑な課題の分析は危険な作業となるか、全く行われないものとなります。
経営陣の神話
こうした障害と闘おうと足を踏み出すのが、組織の様々な職務や専門分野を代表し、見識も経験も豊富なマネジャーたちの集まりである経営陣です。
ところが、大抵の場合、企業内のチームは、縄張り争いに時間を費やし、自分たちが個人的に格好悪く見えることは避け、あたかも全員がチームの全体戦略に従っているようなふりをします。
「まとまったチーム」という体裁を保ち続けるために、意見の不一致をもみ消そうとします。大きな疑問を抱えていても公言を避けるので、共同決定は、全員が容認できるように骨抜きにされた妥協案か、一人の意見がグループに押し付けられた案に過ぎません。
意見の不一致をもみ消せなければ、意見を二極化させる形で表明されます。その根底にある前提や経験の違いを、そこから学習できるような方法で明らかにすることができません。
クリス・アージリスによると、経営陣は、日常的な問題に対しては十分に機能するものの、きまりが悪かったり脅威を感じるような複雑な問題に直面すると、「チーム精神」は荒れ果てるようです。大半の経営者は集団での探求を本質的に脅威と感じており、「不確かだ」とか「知らない」という気持ちを他人に察せられることを痛みとみなし、その痛みから自分を守ろうとします。
そのプロセスは新たな理解を遮断するので、自らを学習から遠ざけることに堪能な経営陣(「熟練した無能」)ばかりが作り出されます。
学習障害のシミュレーション − ビール・ゲーム
学習障害の根源は、組織の構造や施策の特性以上に、基本的な考え方や人の交流の仕方にあります。これを端的に明らかにできるのが、1960年代にMITスローン経営学大学院で最初に開発された「ビール・ゲーム」というシミュレーション・ゲームです。
このゲームには、ある単一ブランドのビールを取り扱うビール工場の営業部長、卸売業者、小売業者の3人のプレーヤーが登場します。彼らは自分の利益を最大化するために、それぞれに賢明だと思われる意思決定を全く自由に行えます。
卸売業者から小売業者への配達、ビール工場から卸売業者への配達は、週に一度です。注文できるのはその配達の時だけです。注文したものが配達されるのは、平均4週間後です。
このブランドのビールは一定の需要でコンスタントに売れていましたが、あるとき何の前触れもなく販売量が倍増します。倍増した後は、その状態をキープします。需要の変動はその一度きりです。
そのときに、小売業者がどのような行動をとり、それが卸売業者やビール工場にどのように波及的に影響するかがシミュレーションで明らかになります。誰がやっても同じ危機が起こります。
まず、通常の小売業者の在庫では満たせないほどに需要が増加するので、小売業者は注文を増加させ、それが波及してシステム全体で注文が増えていきます。卸売業者でも工場でも在庫が底をつくので、受注残が溜まり始めます。工場は、受注残の増加から、先を見越して大幅な増産体制に入ります。
しばらくすると大量のビールが一斉に届き始めますが、大量の受注残の中で注文が増え続けていたため、小売業者では急激に在庫過多になり、注文数を突然ゼロにします。
この実験が終わる頃には、ほとんどすべてのプレーヤーが、さばくことのできない大量の在庫を抱えています。
挙動の原因は、このゲームの構造そのものにあります。同じような現象が、現実の生産・流通システムにおいても起こっています。
構造が挙動に影響を与える
外部の力や個人の過ちというよりも、システムそのものが危機を引き起こしていますので、同じシステムの中に置かれると、別の人であっても同じような結果を生み出す傾向があります。
個々の行動や出来事に注意を奪われるのではなく、それらの根底にあって、それらを起こりやすくしている構造に目を向けなければなりません。
ここで使っている「(システムの)構造」とは、時間の経過とともに生じる挙動に影響を与える重要な相互関係です。その構造は私達の外側にあるのではなく、私達もまたその構造の一部です。
しかし、人間が構造の一部である以上、人々の「意思決定」の方法、認識や目標やルールや規範を行動に移す際の拠り所にする「行動方針」も、その構造に含まれています。つまり、私達もまた役割の一部であり、その構造を変える力をもつということなのです。
しかし、私達は、構造が大きな役割を果たしていることを全く理解していないので、その力に気づきません。気がつくと、ある方法で行動せざるを得ないと感じているのです。
ビール・ゲームで発注量と在庫量の激しい上下動をもたらした構造には、サプライ・チェーンが複数の段階を持つこと、その各段階で入手できる情報が限られていること、各段階の間の注文と配送の時間差、各段階の発注量に影響を与えた目標、コスト、認知、恐れなどの変数が含まれます。
ビール・ゲームから浮き彫りになるのは、私達が心の奥底に抱いている「問題があるならば、それは自分以外の誰か(何か)のせいである」という考え方です。
影響の範囲を定義し直す
大部分のプレーヤーは、「何もしない」ことによって不均衡が生じることを恐れ、それを是正しようとして、逆に事態を悪化させます。
自分の役割がシステムの他の要素(変数)とどのように相互作用しているかを理解することが必要であるにもかかわらず、自分の役割をシステムから切り離して考え、「自分の役をうまくやること」だけを考えてしまうのです。
ビール・ゲームの場合、大半の小売業者が、自分の発注量が他の人の発注量と相互に作用する結果、自分の外にあると考えている仕入先(卸売業者)の在庫量と発注量に大きな影響を与えています。
小売業者が各々大量の発注をすれば、仕入先の在庫がなくなってしまい、それによって仕入先の配送の更なる遅れを引き起します。その遅れに直面した小売業者が更に発注を増やすと、システム全体で問題を大きくする「悪循環」を生み出します。
一つの悪循環が他の悪循環を引き起こし、その結果起きるパニックが、サプライ・チェーン全体に広がります。一度パニックの勢いが増すと、プレーヤーが実際の在庫の不均衡を是正するために、必要な注文の20〜50倍もの注文を出すことさえあります。
どの役割であっても、自分自身の役割の境界よりも広い範囲に影響を与えます。その結果、システム(あるいはシステム内の全員)からの大きな影響が自分自身に返ってくるのです。
業績を改善するためには、プレーヤーは、自分が影響を与える範囲を定義し直さなければなりません。自分が成功するためには、他の人も成功しなければならないというシステム的な視点を共有しなければなりません。
ビール・ゲームの場合、まず、注文したものの、遅れのためにまだ届いていないビールを常に念頭に入れておくことです。次に、パニックに陥らないことです。
仕入先があなたのほしいだけのビールをすぐに届けられないとき、あなたがとり得る最悪の打ち手は、発注量を増やすことです。発注量を増やせば、届くはずのビールはますます届かなくなり、あらゆるプレーヤーが同じ行動をし始め、さらにビールは届かなくなります。
学習障害と私達の考え方
一般に、人々の行動の最も重要な結果は、システム内の他の場所で起こるため、経験から学べずに、同じ問題を再発させることになります。その間、ひたすら問題を他のせいにし続けます。
大部分の参加者にとって、ビール・ゲームの経験は、全く受け身としての対応に終始するため、非常に不満足なものです。しかし、その原因は、週毎の出来事にのみ焦点を合わせていたところにあると気づきます。
「出来事」の説明、つまり「誰が誰に何をしたか」は、そのような説明を行う人たちを受け身的な姿勢へと運命づけます。
長期的な傾向を見て、それが示す意味合いを評価することに焦点を当てることができるようになると、受け身の行動の支配を断ち切り始めます。それは「挙動パターン」を理解しようとすることです。
更に「何がこの挙動パターンを引き起こしたのか」という問いに焦点が当たり始めると、その原因である「構造」の説明に至り、挙動パターンを変えられるレベルで原因に対処できるようになります。
構造が挙動を生み出すので、根底にある構造を変えることができれば、異なる挙動パターンを生み出すことができます。この意味で、構造の説明は本質的に「生成的(根源から創造する)」です。
人間のシステム構造には、システム内の意思決定者の「行動指針」も含まれるので、私達自身の意思決定を設計し直すことが、システムの構造を設計し直すことになります。
私達の問題も改善への望みも、私達の考え方と表裏一体です。生成的学習には「システム思考」(挙動の構造的な要因を見つける能力)が必要です。