シンボリック・アナリストたちは、彼ら自身の所得を拠出して、公共の投資を増額させることには反対していません。
しかし、その結果生まれる公共財は、シンボリック・アナリスト同士だけで利用する例が増えています。
彼らの創り出すコミュニティは自分たちとあまり所得の変わらない市民だけで構成されます。
シンボリック・アナリストは、アメリカの大多数の民衆から密かに離脱して、同種の人間だけが住む飛び地を形成し、自分たちの所得を恵まれない人々に再分配する必要を感じていません。
公園や広場が減る一方で、会員専用のヘルス・クラブやゴルフ・クラブ、テニス・クラブ、スケート・クラブなど、費用を会員が負担するレクリエーション施設が急増しています。
コンドミニアムや共同住宅、どこにでもある住宅地区では、住民は財政的に行き詰まっている地方自治体の手に負えなくなった仕事を、自分たちで引き受けざるを得なくなっています。
2つの地域に分裂する大都市
1990年代になるまでに、大都市のほとんどは事実上、2つの地域に分裂してしまいました。
一つは、世界経済と結びついた知的サービスを提供するシンボリック・アナリストで構成される地区です。
もう一つは、対人サービス業者(保管、警備、タクシー、秘書、駐車場、小売、レストラン)の住む地区で、彼らの仕事はシンボリック・アナリストに依存しています。
大都市にはルーティン生産従事者はほとんどいません。
1990年代になる前から、ほとんどの大都市には2つの学校制度がありました。シンボリック・アナリストの児童が行く私立学校と、対人サービス従事者や、僅かに残るルーティン生産従事者や失業者のための公立学校です。
シンボリック・アナリストは、その都市の、美しいとまでいかなくてもせめて汚くはなく、合理的に見て安全な地域に住みます。この最低限の魅力と安全性の条件に満たない地域は、彼らほどには恵まれない人々向けに残されます。
シンボリック・アナリストは、全く自分たちだけのために金を出資します。集められた資金は、そのままダウンタウンの再開発プロジェクトに当てられます。
プロジェクト自体が自己完結的であれば理想的です。すなわち、空調付きの歩道橋で居住地区と商業地区、レクリエーション地区をつないでしまうのです。恵まれたシンボリック・アナリストは、外部の世界と直接接触する危険を冒すことなく、買い物、仕事、劇場に行けるのです。
いくつかの都市では、一部の高所得者地区で土地所有者に相互課税の特権を与えています。その住民だけしか利用できない公共サービス(ゴミ収集、街路清掃、治安維持など)の費用として、特別税の徴収が許されています。
公共サービスの不公平
シンボリック・アナリストは、都市内のそうした飛び地に住まない場合、郊外の住宅地域に集まり、都市周辺の田舎でいわゆる準郊外を形成することが多くなっています。
立地条件として最も望ましいのは、大学、研究所、企業の本社など、シンボル分析的志向の地域に隣接していることです。
金持ちのコミュニティにおける固定資産税は、シンボリック・アナリストの中だけで資金をプールする機能を果たします。
家の清掃、デイ・ケア、小売商、レストラン、自動車セールスなど、シンボリック・アナリストにサービスを提供する対人サービス業者は、近くの貧しい町に住むので、公共施設やサービスの恩恵を直接は受けません。
こうした傾向に連邦政府も協力し、多くの公共サービスの責任を、州や地方自治体に移転させてきました。予算削減の打撃を一番受けたのが、住民への直接援助プログラムです。
厄介なことに、州も新たな費用の多くを急速に市や町に負担させるようになっています。上下水道、道路、駐車場、福祉、学校などの費用の半分以上を、市や町が負担しています。
アメリカ人が所得に応じた棲み分けを続ける限り、公共サービスの資金源が連邦政府から州、州政府から市や町に移ることによって、裕福なアメリカ人は、恵まれないアメリカ人支援という重荷から解放されることになるのです。
要するに、所得におけるアメリカ国民の分断現象は、連邦政府から地方自治体への公的費用負担の移行と相まって、公的サービスの不公平拡大を生み出しています。
どこに住むかによって、受けられるサービスの質が決まることが多くなっているのです。
所得格差が生む教育格差
公共サービスの不平等は、公立の学校で最もはっきりと現れます。全国の初等・中等教育における連邦政府の負担割合は大きく減少し、大半を州と地方の学区がほぼ均等に負担しています。
シンボリック・アナリストが集中している州は、彼らが少ない州に比べて多くの費用を学校にかける余裕があります。
同じ州の隣り合った2つの町でも、違いが極めて大きい場合があります。
シンボリック・アナリストの離脱の後に残るアメリカ人の中には貧しい黒人たちが多くいますが、この離脱の主たる動機は人種排他主義ではなく、離脱の結果として人種排他主義が生まれたとも言えません。
離脱は人種的というより経済的です。なぜなら、シンボリック・アナリストのコミュニティでは、黒人でも高所得のシンボリック・アナリストは歓迎され、低所得の白人は排除されているからです。
もちろん、アメリカでは、経済的動機による離脱が、事実上の人種隔離を生んでいる事実は否定できません。
裁判所が学区による教育費支出の格差をなくすよう州に命じても、州による不動産価値の大幅な差、したがって州ごとの税収の格差のせいで、実質的不平等は依然としてなくなりません。
新しいコミュニティーの正当化
コミュニティという考え方は、アメリカ人にとって常に特別の魅力を持っていました。
現実の生活では、ほとんどのアメリカ人はもはや伝統的なコミュニティに住んでいません。ハイウェイで区切られ、商店街が中心になった郊外の分譲地や、小さなコンドミニアム、住宅地区、あるいは今にも壊れそうなビルやアパート(公共事業による)に、大多数の人々が住んでいます。
ほとんどの人が通勤しており、寝る場所に近いところとは別に社交の場所を持っています。しかも、ほとんどが5年に一度くらい、他の地域に引っ越します。
アメリカ人が隣人との間に持つ共通点はますます減り、今は一つしかありません。その共通点が新しいアメリカのコミュニティの核になっています。それが所得水準です。
今やコミュニティの定義として最適なのは、郵便番号です。「その人の郵便番号を教えてもらえれば、何を食べ、何を飲み、どこへドライブに行き、何を考えているかまで分かる」と、あるダイレクト・メール業者は力説します。
自分の家を持つアメリカ人は、確かに隣人と共通の政治的主張を持ちます。彼らは不動産価格の維持あるいは上昇に、妄想に近いほどの関心を抱いています。そして、この共通の利害こそ、近年、隣人を結びつけた主な要因となりました。
アメリカ人の生活におけるコミュニティの再重視は、こうした経済的飛び地を正当化し、合法化することを意味します。
寛容や団結が不動産価格の等価線という境目で決まるなら、シンボリック・アナリストは何の犠牲も払わずに徳の高い市民になれます。自分たちのコミュニティに住むほとんどの人間は、明らかに良い暮らし向きなのだから、萎えた良心の出る幕はありません。
別のコミュニティの住民が自分たちより貧しいとしても、それは彼らが互いに面倒を見ればいいと考えます。彼らの学校のためにお金を払う必要があるなどとは考えません。
貧困層の役に立たない慈善
シンボリック・アナリストたちは、実際に、社会の他の人々を助けるためにかなりの金やエネルギーを捧げていると言うかもしれません。
しかし、彼らのそうした行為はあくまでもボランティアであって、納税を通して行っているわけではありません。
アメリカほど、慈善行為を熱狂的に喜ぶ国はありません。しかし、詳しく見ると、こうした慈善が実際に貧しい人々の役に立つことは稀だと分かります。
アメリカの富裕層の寄付金のほとんどは、恵まれない人々の社会サービス(貧困世帯のための学校教育の改善、地域医療センター、レクリエーション施設など)には、あまり使われていません。
裕福な人々が楽しみ、感銘を受け、治療されたり教育されたりする場所(美術館、オペラ・ハウス、劇場、交響楽団、バレエ・シアター、個人病院(ほとんどの患者が健康保険に入っている)、エリート大学など)に向けられています。
つまり、シンボリック・アナリストが自発的に富を分け与える時は、他の場合の出資と同じ原則、すなわち自分自身や同じシンボリック・アナリストの生活の質の向上のためなのです。
同じことは企業の慈善活動にも当てはまります。近年、アメリカのチャンピオン企業は、我が国の初等・中等教育の急速な衰退に警告を発しています。
とはいえ、企業の教育寄付は減りました。その僅かな額も、ほとんどが大学、特に自分の子供や孫も行きそうな、いわばシンボリック・アナリストの母校を対象にしています。
この金額は、州や地方自治体が、企業をその地域にとどめておくために与えた補助金や免税措置の金額に比べても、遥かに少ない額です。その結果、学校など地域のニーズに対して使われることになる、企業から州や自治体への納税額が少なくなってしまいました。
いい学校の必要を誰よりも声高に唱えていたGMの経営者たちは、ニューヨーク州タリータウンで、納税額の削減に成功したため、この町の収入が激減し、多くの教師がレイ・オフされました。