かつてアメリカの多国籍企業は、アメリカにある本社が司令部でした。外国にあるのは、その完全な子会社に過ぎませんでした。所有と支配はアメリカのものでした。
子会社は、アメリカの親会社の利益のために奉仕しました。最終製品を海外で生産しても、高度な部品の設計や組み立て、戦略計画、資金調達、マーケティングなどの高度な業務は、アメリカ国内でアメリカ人が受け持っていました。
現代の高付加価値型企業に特有の組織網では、所有権の集中化は不可能です。権力と富は、問題の解決、発見、その戦略的媒介という3つの卓越した技能を発揮する人が集まる集団に流れ込みます。
電気通信の発達と輸送効率の向上で世界が狭くなるに従って、互いに異なる国に属する集団の技能を結合し、ほとんど世界中の顧客に最高の価値を提供できるようになっています。
多くの国は依然として、知識とマネーが国境を超えて流れ込むのを阻止しようとするものの、その努力は徒労に終わることが多くなっています。
今日では、異なる国の人々がお互いに交換したい知識とマネー、製品とサービスの多くは、空中を高速で駆ける電気的な情報に容易に変換されます。
どれがアメリカ製品なのか
従来の大量生産経済においては、ほとんどの製品には、それを生産した企業と同じく、明瞭な国籍がありました。製品の生産には、規模の経済が集中できる場所を必要としたためです。
大量生産に依存しない、高付加価値生産を目指す経済が出現すると、明確な国籍を持つ製品はほとんどなくなりました。
多くの離れた地域で効率的に大量生産し、多くの地域の顧客のニーズに応えるためにあらゆる方法を組み合わせることができます。知的資本と金融資本はどこからでも引き出せるので、必要な時にいつでも手に入ります。
貿易収支の現実
グローバル・ウェブにおいて国家間で取引されるものは、最終製品であるより、しばしば個別の問題解決(調査、製品設計、組み立て)、問題発見(マーケティング、広告、顧客コンサルティング)、そして戦略的媒介(金融、検索、契約)サービスのほうが多くなっています。
今日では、このような国境を越える経済的つながりが、先進国間の国際貿易の大半を占めるようになっています。
アメリカにおける輸入では、消費者が求める最終製品よりも、その部品および製品に関わるエンジニアリング、デザイン、コンサルティング、広告、金融および管理サービスなどの支払いのほうが多いほどです。
しかも、企業間ではではく、グローバル企業内で、製品とそのサービスが移動しています。一つのグローバル企業の事業部間で、あるいは複雑な雇用契約、利益配分協定、長期供給協定の中で決められた価格で交易されているので、一つの国家が他の国家に支払った代価がいくらになるかを確定する方法は、概算を行う以外にありません。
一国の国際貿易収支が均衡を失っているかどうか、その貿易不均衡の金額がどの程度であるのか、このような不均衡が意味するものが何なのかについて、誰も正確には答えられません。
同様に、与えられた製品がどこで、どれだけ付加価値がつけられたのかを論じることも不可能になっていますから、グローバル・ウェブの一部から所得税を徴収しようとする国家政府の試みは、幾度となく失敗に終わっています。
古びた概念で新しい現象を見る誤り
グローバル・ウェブは、国家的に装うことが都合がよいとなれば、そのように見せかけます。市場が外国の競争者から保護されている国の中で活動する時には、忠実な企業市民として自らを特徴づけ、保護を強化するよう求めることさえあります。
アメリカで、他国の企業がダンピングを行っているかに見えるのは、あるグローバル・ウェブが世界各地の資源を活用して製造した製品に対する米国での請求価格が、別のグローバル・ウェブより安いということに過ぎません。
それぞれのグローバル・ウェブの中で、アメリカ人がどのような役割を担い、どれだけの報酬を受け取っているかは、最終製品の国籍表示を見るだけでは何も分かりません。
国家的な衣裳だけを替えることは容易です。外国製と見られたほうが有利な場合には、国産であることが明白な製品やサービスであっても、外国製品に替えられます。
製品が国家的な起源を有するという考え方は、政府にも、政府が代表している民衆にも非常に深く染み込んでおり、実態が明らかになったとしてもなかなか修正することができません。
このような古びた概念で新しい現象を見ているため、今日ではもっと重要になっている問題に関心が向けられないでいます。すなわち、製品が何であれ、その国籍表示がどこであれ、どの国の労働者がどんな職業を自分のものにし、将来何をする素養を身につけたのか、という問題です。