同じ国に住む人々が経済的運命を共にするという概念は、19世紀後半の数十年間に広く受け入れられるようになりました。
物の製造手段と輸送手段の革命によって、それまで緩やかな地方単位のネットワークに過ぎなかった経済は、国民経済へと発展していきました。
こうした中で世界的な競争の場が創り出され、国家対国家の戦いが行われるようになりました。
1870年から1900年にかけて発明が続々と生み出され、19世紀の終わりには、19世紀前半に比べて生産性が6倍近くに上昇したといいます。
鉄道と電信のネットワークによって物の流れが円滑化され、工業化が促進されました。
アメリカでは製造業への設備投資が急増しましたが、工場と機械の高い固定費を回収するため、工場に出入りする絶え間のない生産物の流れを必要とするようになりました。そのためには、原料と製品が計画されたとおり流通することが重要でした。
しかし、新製品の生産が増加しても、それを買う用意のある消費者がほとんどいなかったため、物価は下落し、1873年に厳しい不況が襲いました。
その結果、社会主義者が増加し、資本主義の崩壊は差し迫っていると公言しました。
かつて英国は保護主義に敗れた
米欧の製造業者は、新たな市場の積極的開拓によって、過剰商品を解消しようとしました。マーケット・シェアを上げるために、進んで価格の切り下げを行いました。
ドイツ、イタリア、フランス、ロシアの各国は、略奪的な外国企業から自国の製造業を保護するため、関税を高めました。アメリカの関税率も、これまで以上に押し上げられました。
イギリスは、他国に比べて製造業が最も進んでおり、自由貿易の最大の受益者でしたから、保護主義を段階的に高めるゲームに参加することを拒みました。
他の工業国、特にアメリカとドイツは、輸入品に高関税を課すことによって、製品の国内市場向け価格を、費用を回収してなお健全な利益を保つに十分な高い水準に設定できましたから、国内市場は外国の競争相手から保護されました。自国企業は、国内で英国をはじめとする外国の製品のマーケット・シェアを奪い、規模の効果性を確保しました。そのうえで、余った製品を低価格で英国に販売し、儲けを膨らませることができました。
「帝国主義」の警告は的中した
国内市場だけでは新商品を十分に吸収できず、他の工業国の市場は保護貿易で閉ざされていましたので、貧しい国々を製品の販路にしようとしました。
それは「帝国主義」の復活であり、「一国の経済的な成功は他国の犠牲なしにはありえない」という一般大衆の感情を高めることになりました。
国家の拡大と勢力と経済成長率は、同じ意味となりました。アメリカは「領土拡張は商業の拡大に伴う副産物に過ぎない」と言いました。「列強」は「経済大国」と同義語になりました。
工業諸国間で経済国家主義が拡がり、教育、産業育成、国家安全保障は三位一体の関係をなすものに思われました。
イギリス人の経済学者J・A・ホブソンは、市場をめぐる競争の論理的な帰結は戦争であると予言しました。国内市場が疲弊し、製品をどこへも売ることができなくなったら、企業家たちは戦争を選択するだろうと警告しました。
国家主義は拡張と競争を意味した
大量生産を行う製造業は、多数の人々を農村から都市へ引き付け、家族を離れ離れにしました。
当時の都市は、政治的な運動、外国の手による陰謀と策略のニュース、国家的な行事、そして国家のアイデンティティにとってより敏感な移民の波などによって影響を受けやすい場所でした。
工業都市が世界に出現するに至って、国家という概念が具体的な姿を持ちはじめました。かつてファシズムを連想させた「国家主義」は、19世紀後半には「経済国家主義」として、祖国に対する忠誠が国家の野心と結びついた、拡張と闘争を意味するようになりました。
20世紀の初めまでに、世界中の多くの場所で経済国家主義が根づきました。市民は、自分の個人的な幸福が国家の経済的な競争能力と密接な関係にあることを理解しました。愛国心と経済国家主義がつながった、国家間の競争でした。