マネジメントの正統性

現代社会の課題のほとんどは、組織によって遂行されています。社会を構成するほとんどの人が、組織で働いています。

そのような位置づけにある組織の中核機関がマネジメントです。ですから、マネジメントは社会のリーダーでもあります。社会において権限を行使し得る存在になったのです。

社会に対して権限を持つマネジメントですが、その権限は一体何に由来するのでしょうか。正しいものとして、社会から是認される根拠、つまり正統性です。

正統性のない権限は、専制です。社会から拒絶され、排除されるべき権力です。マネジメントとして相応で、かつ分限を超えない適正な範囲の権限を規定する正統性の根拠が必要です。

その力の外にあってその力を超越するもの、つまり力に服する人びとが真の価値と認めるもの、あるいは力に服する人びとの何らかの承諾、権威と認めるものなどに正統性の根拠をもたなければなりません。

2つの発展

われわれの社会は組織社会になりました。現代社会の主な課題はすべて組織によって遂行されています。ほとんどの人が組織で働いています。

一方、われわれの社会は知識社会になりました。多くの人が長期の学校教育で必要な能力を得て、自らの知識を仕事に適用することで生計を立てるようになりました。その結果、多くの人が成果に責任を負う専門家になりました。

これら2つの発展には相関関係があります。

知識で生計を立てられるようになったのは、組織社会になったからです。組織を通じて、多くの人の専門化された知識を総合して、社会に価値を生み出すことができます。

組織が存在し、機能し得るようになったのは、高度の学校教育を受けた多くの人がいるからです。仕事に高度な知識を適用できて、組織というシステムが機能できます。

マネジメントは、この2つの発展の原因であり結果です。マネジメントは、組織が機能し、それぞれの使命を遂行することを可能とする機関です。マネジメント自体が、独自の領域をもつ、スキルや知識の体系です。

組織が、現代社会の主な課題を遂行し、ほとんどの人を雇用している状況にあるならば、組織の中核機関であるマネジメントは、社会においてもリーダー的階層を形成していると言わざるを得ません。なぜなら、マネジメントの意思決定が製品やサービスを通して社会に影響を及ぼし、かつ、社会のメンバーの多くを雇用することによって、その人たちの人生そのものに影響を与える立場にあるからです。

技術官僚の限界

かつてのマネジメント・ブームは、マネジメントのスキルと能力に焦点を当てました。マネジメントの仕事を組織の内部に関わるものとしたからです。

組織構造、動機づけ、管理手段、経営科学、マネジメント開発を課題としてきましたが、これは「技術官僚」の発想であるといいます。社会に対する目的や役割に基づく発想ではなく、仕事上のテクニックに関する発想だからです。

しかし、マネジメントが社会のリーダー的階層になったとすれば、技術官僚の発想ではなく、組織を超えた発想がなければなりません。

マネジメントの役割

ドラッカーによると、マネジメントには3つの役割があります。

  1. 組織が自らの使命を果たすようマネジメントすること
  2. 生産的な仕事を通じて人に成果をあげさせること
  3. よりよい社会をつくること

これらはすべて社会に対する責任に関わる役割です。ドラッカーは、ここに一つの危険性を指摘します。社会正義を果たそうとする誘惑です。これが、マネジメントの能力や価値観を超えた権限の行使につながりかねません。

ドラッカーは「良き意図は無能の言い訳にはならない」、「よいことを行うための基礎は、よく行うことである」と警告します。つまり、いくら「よいこと」だと思っても、マネジメントの本分や能力を超えた不当な権限を行使することは、むしろ害悪になり得るということです。

正統性の要求

他人に影響力を行使するとすれば、当然、その根拠が求められます。マックス・ウェーバーの言う「正統性の信仰」です。つまり、影響力を行使される側が受け入れなければ、その根拠に正統性が成り立ちません。

マネジメントも、社会でリーダー的な階層にあり、社会に対して実質的な権限を行使できるのであれば、その権限に社会的な正統性が要求されます。

全体主義の防波堤

ところで、ドラッカーはなぜ、マネジメントの権限に正統性を求めるのでしょうか。

ドラッカーの処女作は『経済人の終わり』です。ヒトラーの全体主義的専制を論じました。ドラッカーの慧眼は、ヒトラーの危険性を誰よりも早く見抜きました。

そして、全体主義の防波堤としての組織の重要性を説きました。自立したマネジメントを中核機関とする組織が、全体主義を防ぐ力になると考えました。

ドラッカーは『マネジメント』のまえがきで、次のように断言しています。

組織が成果をあげられないならば、個人もありえず、自己実現を可能とする社会もありえない。自立を許さない全体主義が押しつけられる。自由どころか民主主義も不可能となり、スターリン主義だけとなる。自立した組織に変わるものは、全体主義による独裁である。

政府は公権力を持ちますが、その中核もマネジメントです。しかし、政府のマネジメントは生産性が低く、むしろ企業のマネジメントが模範となるべき立場です。

全体主義の防波堤となるべき組織のマネジメントが、今では主要な社会のリーダー的階層です。社会に対する権限を持ちながら、そこに正統性がないならば、全体主義と同じく専制の危険を持つことになります。

企業のマネジメントの専横

これは決して大げさな話ではありません。例として、マスコミのことを考えてみてください。

日本のマスコミは、世界的にみて非常に偏向しているという意見も多いです。世界で報道されることがほとんど報道されず、芸能ゴシップに現を抜かしていることも多いです。

2009年の政権交代の際、大手新聞のほとんどは、こぞって民主党政権に世論を誘導したと指摘されていました。投票前日の社説などでは、明らかに政権交代を誘導するような論調をしていたと言われています。現に、当時の民主党候補者には、マスコミ関係者が非常に多かったことが分かっています。

何を報道し、何を報道しないか、どういう論調で報道するかを決めているのは一体誰でしょうか。当然、国民世論ではありませんし、国家権力でもありません。それを決めているのは、マスコミのマネジメントです。しかし、彼らにそれができるどんな正統性の根拠があるのでしょうか。

GAFAを中心とするビッグテックも同様です。事実上の市場支配を利用して、言論統制を行っています。彼らが全体主義社会を牽引しているのです。ドラッカーが警告した、組織のマネジメントによる専制が今、行われています。

選挙で選ばれたわけでもない、単なる私企業のサラリーマンに、世論を誘導するという絶大な権限を許しているという現実があるのです。

ですから、マネジメントの権限にも、明確な正統性が要求されなければなりません。

組織の目的に由来する正統性の根拠

自らの組織に奉仕することを通して社会に奉仕するというのがマネジメントの権限ですから、マネジメントの権限の正統性は、組織の本質に基盤を置くものでなければなりません。

ドラッカーの言う「正統性の根拠」は、「人の強みを生産的なものにすること」、「私的な強みを公益にすること」です。

ここで言う「生産的」あるいは「公益」の意味は、マネジメントの第1の役割に関わります。つまり、組織に特有の使命を果たす方向が「生産的」であり「公益」であるという意味です。

もちろん、マネジメントの第2の役割である「仕事を通じて働く人たちを生かすこと」にも関わります。

人は、個としての人間でありながら、社会という協調した集団をつくる存在、すなわち「社会的存在」です。個人が社会的存在であるためには、社会に貢献できる存在でなければなりません。

ただし、その貢献は強制されたものであってはなりません。個人として自由な存在であることが尊重されたうえでの貢献でなければなりません。つまり、貢献することが個人にとっての自己実現でなければならないのです。

自己実現とは、強みを生かすことです。ですから、「個人でもあり社会的存在でもある人間が、強みを生かして社会に貢献できる」ような手段を提供することこそ、「マネジメントの権限の正統性」の根拠になります。

組織は個人の専門知識が必要であり、個人も自己実現のために組織が必要です。互いに自由が保証された状態で、このような関係を築けるようにすることが、マネジメントがリーダー的階層として権限を行使し得る根拠です。

逆に、これを超えた権限を行使し得る正統性の根拠はないということでもあります。

マネジメントが自立していることの重要性

マネジメントは自立していなければなりません。社会に対して権限を持っているからこそ、自立していることが重要です。社会を全体主義から守り、社会が「自由な個人が協調する集団」として機能するためにこそ、マネジメントは私的な存在であることを捨てることはできません。

しかし、同時に、マネジメントは公的な存在でもあります。なぜなら、社会の公的なニーズに対応しようとする存在だからです。

つまり、マネジメントは、公的なニーズを自立した組織にとっての私的な機会に転換すべく働く存在です。誰からも強制されることなく、自由な意志と自由な活動によってそれを行うがゆえに私的であるのです。

かくして、マネジメントが社会に対して持つ権限は、正統性が与えられることになります。それは、マネジメントが社会に対して果たすべき貢献とその制限の根拠でもあります。

模範としてのマネジメント

マネジメントは、個々にはほとんど表向きの顔は見せませんが、全体としては一つの統治集団を構成します。つまり、彼らの行為は代表者としての行為ですから、模範であることが責務です。

マネジメントが正統であるためには、プロとして認められなければなりません。プロたる者は、常によい報酬を受け、また受けるに値する者です。

しかし、課された責任や水準よりも報酬を優先させることはプロならざる態度です。ということは、マネジメントの収入にも限度がなければならないということです。かつてアメリカで見られたような、従業員のレイオフや給与カットを行いながら、トップマネジメントの報酬を増額するといった対応は、現に慎むべきです。