ジョセフ・N・スキャンロンは、スキャンロン・プランの生みの親ですが、そのきっかけは、一鉄鋼労働者として働いていたときに、危機的状況にあった工場を再建させようとしたことでした。
同じ会社で労働組合支部長として同プランを推進した後、鉄鋼労組の調査技術部長に招かれて、鉄鋼産業における労使協力プランの発達に開拓者的役割を果たしました。
その後は、X理論・Y理論で有名なマサチューセッツ工科大学(MIT)のダグラス・マグレガーに、同大学の産業関係部スタッフとして招かれました。
MITでは、労働運動における豊富な経験をもって学生の指導に当たりながら、企業に対して同プランの導入を支援しました。
スキャンロン・プラン誕生前夜
彼は、1930年代の不況期に、多くの人々と同じく大変な苦労を経験しました。職を失い、家族が生きていくための食料や燃料にも事欠くほどでした。
その中にあって、周りの人たちが何とか必要最小限の食料や燃料を獲得できるよう、先頭に立って奔走し、未耕地を手に入れ、トラクターや農具を借り出し、種子や肥料を恵んでもらうなどしました。
後に、彼は鉄鋼会社に勤務します。同社では1936年に鉄鋼労働者組織委員会(SWOC)が結成され、組織活動が開始されましたが、それ以前に、同社の従業員は既に組合を組織していました。
市場が限られ、販売競争は激甚でしたので、賃金は低く、雇用は不安定でした。会社は破産の危機を脱していたものの、設備は老朽化し、高コストでした。
そこに組合の賃上げと雇用条件改善の要求が加わったため、経営の困難さは一層複雑なものになりました。
彼は先頭に立って社長を説得し、組合側委員と共にピッツバーグの組合本部を訪ね、窮状を打開するための助言、できれば援助を与えてくれるよう頼みました。
その時に対応したクリントン・S・ゴールデンは、工場に戻ったら全従業員によく事情を話し、彼らに助力を要請するよう提案しました。
作業工程について従業員の知識を提供してもらい、無駄の排除、能率の増進、費用の節約を行って、会社の存続を確保するよう示唆しました。
スキャンロン・プランの土台
スキャンロンは、経営側の全面的な協力を得て、ゴールデンの助言を徹底的かつ組織的に実行しました。
組合は賃上げその他の労働条件改善を直ちに実施するよう強要することをやめ、労使が数カ月間協力して事態の改善に努めました。
その結果、コストは著しく削減され、製品の質も改善しました。加えて、同業種の業績のよい競争会社並みの賃上げと労働条件の改善を行うことができました。
このようにして、後に「スキャンロン・プラン」として知られるようになった労使協力プランを築き上げる土台が準備されました。
スキャンロン・プランの普及促進
この成果が論文に発表され、世間に知れ渡るににつれて、スキャンロンの助力を求めてくる組合や経営者が多くなってきました。
そのため、全米統一鉄鋼労組の本部に、後に生産技術部と命名された新しい部門が設けられ、スキャンロン自身がその部長として迎えられることになりました。
その後、健康を害したこともあり、スキャンロンは、ダグラス・マグレガーによってMITの産業関係部スタッフに迎えられ、参加と労使協力の原理の実際への適用を指導しました。
スキャンロンは、民主主義と民主的な過程を心底から信じ、それらを政治的な領域に限定るのではなく、産業界にも、そして、人々がそれぞれの能力に応じて参加できるあらゆる活動分野にまで及ぼすべきだと信じていました。
あらゆる労働者が企業の成功や仲間の幸福と安寧に貢献でき、それぞれの貢献に応じて、自尊心・自信・個人の認識と尊厳を獲得するようになると考えていました。