欲求阻止(フラストレーション)とは何か? − 「人間関係論」とは何か?㉗

人がある目標に向かって動機づけられているにもかかわらず、何かによってその目標に至るのを妨げられているとき、「欲求阻止されている」と言われます。

欲求阻止されると、問題解決の行動という創造的な新しい反応を起こそうとします。

しかし、何らかの理由で問題が解決されず、また目標が達成されないとき、欲求阻止はいろいろな現象となって表れます。

目標達成の動機が比較的弱いものであれば、人はただその状況を受け入れ、そのまま押し通していきます。代用物で満足するかもしれません。

しかし、目標が重大で、動機が強いときは、感情が乱され、精力が増大し、方向を変えて放出されることがあります。これがどのような形を取るかが問題です。

欲求阻止の原因および条件

欲求阻止の度合いは、その人の忍耐心、欲求阻止に関するこれまでの経験、その状況の解釈、その人の受けている圧力など、多くの因子によります。

幼児期の経験は、どんな種類の状況が欲求阻止として経験されるかを決定するだけでなく、後年において感じられる安定感の度合いを左右するうえにも、大きな役割を果たすといいます。

最近の経験もまた、ある状況に対する反応を左右します。例えば、職場で深刻に欲求阻止されてきた人は、家庭で、比較的に些細な欲求阻止の原因に直面すると、自制心を失いがちです。

とりわけ、人は、その状況を主観的に経験する仕方、態度、期待によって左右されます。物による妨害よりも、他人による妨害のほうが、欲求阻止をより感じやすいといいます。意志をもって故意に妨害していると受け止めてしまいがちだからです。

欲求阻止は人や環境との間の葛藤に基づくとはいえ、自分自身で欲求阻止している場合が少なくありません。例えば、自意識と野望、憎悪と愛、家庭での平穏な生活と職場での成功など、心の中で相対立する欲望が葛藤し、一方または両方が欲求阻止されるわけです。

欲求阻止による行動

欲求阻止に陥ったときの行動には、4つの特徴があるとされます。

攻撃

「攻撃」は、苦痛または不快な状況を回避または支配しようとするための行動です。サディズムや残忍さの傾向と同一視されるものではありません。

回避の意味での攻撃は、生きていたいという欲求の一面です。怒りや憎しみは、状況の支配の意味での「攻撃」です。発現を阻まれた精力の集積を表します。

人は望ましいとみなすものに近づき、不快や有害とみなすものを回避する欲求に駆られます。この欲求が満たされると、その人は満足または安堵という主観的感情を体験し、この目的のために増大していた精力は散らされ、正常の水準に戻ります。

しかし、満足または回避への妨げが打ち勝ち難いほどであるときは、精力は妨害に打ち勝とうとして蓄積され続け、怒りや不快という主観的感情を体験します。

その状況が、その人の安全や安心にとって真に脅威と感じられるときの感情は、恐怖と不安とが混合した怒りです。

激怒は、欲求阻止のもっとも明白な徴の一つです。まずは、欲求阻止の源であると思うものに向けられます。

しかし、その源が没個人的なものである、簡単に誰かのせいにすることができない、真の源は分かっているもののそれが恐れられているなどの場合、他のもっと危険のない対象に憤懣が向けられます。「転移」または「身代わり」と呼ばれるものです。

欲求阻止が多くの人々の避けがたい運命となっている社会では、その社会内での攻撃量と、その社会の外部に向けられる攻撃量とは、逆比例の関係にあることが分かっています。これを利用して、国内の憤懣を逸らすために外敵をつくることがよく行われます。

欲求阻止は、その集団の成員たちが、お世辞を軽蔑と解し、絶えず防衛的になり、異常なまでに疑い深くなりがちになるほどに、成員の態度に影響を及ぼします。

欲求阻止の程度が僅かである場合または数人の集団成員にのみ関わっている場合、それによる憤懣は建設的となり、苦情の源に対して合理的に向けられる可能性があります。

欲求阻止の程度が強く、多数の集団成員と関わっている場合、欲求阻止は一般化され、非合理的になり、罪のない人に向けられるようになります。

会社に欲求阻止的雰囲気があるかどうかは、次の徴候があるかどうかによって簡単に診断されます。

  • 経営者に対する必要以上の批判
  • 悪意のある噂話
  • 皮相的な苦情
  • 工場設備の損傷
  • 政治上の挑戦的な態度
  • 欠勤
  • 神経症
  • 低生産性

このような徴候があるときは、どこかに大きな問題があり、それを矯正するための建設的な手段が直ちにとられなければならないと判断すべきです。

ところが、このような場合の経営者の普通の反応は、規律をもっと厳しくし、もっと厳しい罰を課し、労働者と労働組合との両方に意趣返しをしようとすることです。これは、欲求阻止を増大させ、憤懣や破壊性を導き、状況を悪化させるに過ぎません。

ところで、「攻撃」は外部にだけ向けられるとは限りません。いろいろな理由で、憎しみが外部へのはけ口を見出すことができず、その人自身に向けられ、自己嫌悪や憂鬱になることがあります。

これを「投入」と呼びます。投入は、3つの一般的状況から生じるといいます。

第一は、すべてのはけ口が閉ざされ、その人の憤懣を除くことができない場合です。いわゆる「身をかむ」思いです。

第二は、欲求阻止の源がまた愛されてもいるので、それを攻撃することができない場合です。愛と憎との二重感情を同一の対象に感じています。

第三は、どんな形の攻撃でも悪いものだと信じるように育てられてきた人々の場合です。自分の行う攻撃を恐れることによって深刻な憂鬱を伴うようになります。

第二と第三の状況は、病的な憂鬱状態に導き、最悪の場合、自殺に至ることもあります。

権威主義的な会社の忠実な召使いと常にみなされてきた人々は、威嚇されつづける人生を送ってきたため、自分の権利を主張することを恐れます。その人が重宝がられる理由もそこにあります。

しかし、長年蓄積された欲求阻止は、精神病的抑鬱症、自殺企図、または高血圧症のような精神身体病などの形をとって完全に崩壊するときがやってきます。良心的で、はげしく働き、自制し過ぎる人に、ほとんど例外なく起こるといいます。

退行

欲求阻止された人々は、問題を解決する建設的な試みを放棄し、もっと原始的で子供じみた行動に「退行」することがあります。

精神内部または外的因子によっての長い間の欲求阻止、あるいは何の解決も見出され得ない状況に直面するときに起こります。

欲求阻止された人々は、暗示にかかりやすく、批判力を失う点で退行を示します。話を聞いたことが、信じたいと思うものに都合よければすぐに信じ、理性を捨ててしまいます。

労働者の退行の主要な徴候は、感情的統御の欠如、デマに感じやすいこと、社会との不適当なつながり、特定の人々や組織に対する盲目的な忠誠などです。馬鹿げた破壊性もまた退行の徴候です。

経営者側では、過度の感受性、権限委譲の拒否、筋の通った要求と通らない要求との区別ができないことなどです。

固執

「固執」とは、価値のない行動を自らに強制し続けることです。経験によって何にもならないことが分かっているのに、同じ行動が何回も繰り返されます。

古い習慣は、通常、満足をもたらすことができなくなるとき、または処罰されるようになるときは、捨て去られると考えられます。

ところが、欲求阻止が起こると、もっと効果的であるはずの新しいことを拒絶し、古い習慣的な反応への「固執」がより強くなることが分かっています。

子供は、何らかの行為を厳しく罰せられると、その行為を盲目的に行い続けるよう強制観を抱かされる状況がしばしば見られます。このように、過度の処罰は、通常の習慣を固執に変形させることがあります。

処罰は、報賞とは反対の効果を与え、通常、行為の繰り返しを阻むことを期待して行われます。ところが、欲求阻止の原因として働くことによって、固執と同時に他の欲求阻止の徴候も招くことがあります。

つまり、処罰は、期待される効果とは正反対の効果をしばしば与えるので、危険な手段であるとみなされています。

産業における固執の徴候は、変化を受け入れることができないこと、経験によって古い事実を支持できないと示されているのに新しい事実を受け入れることを強情に拒むこと、罰は事情をさらに悪くすると分かっているのに処罰の強化を止めない経営者の行動などです。

産業における欲求阻止に陥った者の行動は、攻撃、退行、および固執の結合を示します。

固執と関連している現象として、スニッグとコウムズが「トンネル視覚」と名付けたものがあります。脅かされると、人間の注意領域は縮小し、自己防衛を準備する結果、自己の見解を変えないほうが多くなるというものです。信念の固執化ということもできます。

諦念

「諦念」は、長期間の欲求阻止が、無感動、または諦めとなることです。

部分的には攻撃の投入に基づくこともありますが、「諦念」という場合、純然たる無感動、すなわち投入が起こることなく順応への試みをすべて放棄するものです。

これは、はけ口も逃げ道ももたず、新たな外力に対する唯一の防御は、できるだけ刺戟を受けないでおくことだというほどに痛めつけられた人に認めることができます。

例えば、失業の最終段階においては、人生の展望ばかりでなく、活動も、欲望や欲求でさえ狭まってきます。この狭まりは、それ以上進行できない限度があり、限度を超えると諦念に至ります。