ルソーからヒトラーにいたる道 - 産業人の未来⑦

歴史や政治の本によれば、自由のルーツは啓蒙思想(理性による文明の進歩を目指す)とフランス革命にあるとされています。

しかし、ドラッカーによれば、これらが自由に与えたのは悪影響です。理性主義リベラルこそ全体主義者であり、過去200年の西洋の歴史において、あらゆるファシズム全体主義がそれぞれの時代のリベラリズムから発していると指摘します。

啓蒙思想は、人間の理性が絶対であるとします。ここから、その後のあらゆるリベラルな信条が生まれ、さらにはルソーに始まるあらゆる種類のファシズム全体主義の信条が生まれたと指摘します。神ではなく、不完全極まりない人間の理性に絶対を帰しています。

理性主義のシンボルやスローガンは、その時代に応じて変化しました。最高の地位に置かれたのは、科学者、経済学者、社会学者、生物学者、心理学者などと変化しました。アメリカの理性主義においても、ファシズム全体主義の要素は、ヨーロッパの影響、特に清教徒の伝統として存在しているといいます。人間の理性を絶対とするならば、ファシズム全体主義につながります。

しかし、19世紀のイギリスとアメリカには、絶対主義ではない理性主義、つまり自由の理に反することなく、人工の絶対理性に基づくことのない真の理性主義があったといいます。このような自由で建設的なリベラリズムは、宗教、特に西欧においてはキリスト教を基盤としていました。

ところが、啓蒙思想や破壊的絶対主義のリベラリズムは、理性万能主義です。真のリベラリズムは、そもそも理性万能主義の否定から生まれています。

人間の理性は元々不完全です。だからこそ、絶対的な真理を求める存在であり、そこに自由があります。絶対の真理を求めて努力する過程において、人間の理性も高められていきます。そして、人間の集まりである社会においても自由を守り、自治による政治を行うことで、不完全な人間の専制を防ぎながら、よりよいものを目指していきます。これが真のリベラルです。

真のリベラリズムは、政治的な影響力が限られており、革命に抵抗することはできませんでしたが、権力から一人ひとりの人間を守る役割を果たしてきました。キリスト教の愛、信仰、謙虚が根底にありました。したがって、真のリベラリズムは、機能する社会が実践された後においてのみ本来の役割を果たすことができました。

しかし、今日のリベラリズムは、理性万能主義そのものです。それは基本的にファシズム全体主義であるだけでなく、本質的に著しく非建設的であるため、政治の場において失敗せざるを得ません。その結果、革命的全体主義に機会を与え、自由を危うくします。

理性主義リベラルは、ヒトラーを批判することはできません。ヒトラーは理性主義リベラルの完成だからです。

権力を握れば戸惑うリベラル

理性主義者や現代のリベラルには善意や良心があります。彼ら一人ひとりは、自分こそ自由の側に立ち、暴政と闘っていると心底思っているようです。

しかし、そのような心情だけでは、政治的に無意味です。積極的な政治行動とは無縁であり、反対することにおいてのみ意味があります。

彼らは現体制に反対するだけですので、自由に反する制度だけでなく、自由のための制度にさえ反対します。手当たり次第に既存の制度に反対し、破壊するだけです。

しかも、破壊のあとに据えるべき新しい制度を生み出す力を完全に欠いているどころか、建設的な行動の必要さえ認めません。彼らにとっては悪のないことだけがよいことであり、抑圧的な悪しき制度を攻撃して葬り去りさえすれば、仕事は終わったと考えます。

よりよいものをつくり上げるためでなければ、破壊に意味はありません。破壊したものに代わって機能する制度を置かないなら、破壊したものよりもさらに質の悪いものが生まれます。

現に、理性主義のリベラルは、現実に権力を手にするたびに失敗したといいます。ですから、失敗の原因は、その内部にあると言わざるを得ません。ドラッカーは、互いに矛盾する2つの原理に立っていることを原因とします。

理性主義は、一方において、絶対理性を信奉します。かつての絶対理性は、必然としての発展、あるいは私益と公益の調和を意味しました。しかし、現在の絶対理性は、衝動や不満や分泌腺による対立を心情としているといいます。

他方において、絶対なるものは理性的な演繹の結果であり、説明可能であるとします。しかしながら、絶対理性は理性を超越したものであり、本来理性的な存在ではありません。つまり、絶対理性に基づいて論理を構築することはできても、論理によってその絶対理性そのものを説明することはできません。

実際に、理性主義の基本教義は、ドラッカーによれば、むしろ非理性的であり、反理性的であったといいます。唯物論を基本とする現代の理性主義は、人間の自由意思を認めないので、結局、人間の理性の働きを認めないのと同じであり、やがて絶対支配者の手によって暴力的な政治行動が正当化され、それに転化されていきました。

それでありながら、彼らは、絶対理性による絶対真理に到達していると考えているため、反対論を絶対に認めることができません。反対論と戦うこともできません。反対論は単なる情報不足の結果であり、間違いでしかないと考えています。したがって、妥協もあり得ません。

だから、反対論を封殺し、弾圧しようとします。反対者は最低の人間であり、反対はヘイトであるとし、反対論に反論しようとするのではなく、反対すること自体を非難します。

したがって、彼らは、政治的には常に麻痺状態にあります。議論がないなら、弾圧のみがあります。

ルソーの一般意思

理性主義のリベラルにとって、政治的に意味ある行動は、結局、ファシズム全体主義への道しかありません。

自らを絶対真理とし、反対論と議論することができず、反対者を最低の者とするほかなく、一切の妥協もできないのであれば、全体主義によって思想を統制するしかなくなるからです。

その先駆に当たるものが、ドラッカー曰く、ルソーの「一般意思」です。一般意思は、理性によって到達され、実現されるようなものとして説明されたものではありませんでした。むしろ、理性による分析を拒否するものであり、理性を超えた存在、すなわち非理性的な絶対的存在であるとしか言いようがありませんでした。

だからこそ一般意思は絶対的であり、誰もがそれに従わなければなりません。一般意思の実現によってのみ、人は自由であることができるとされます。

ルソーが想定していたのは、直接民主制による小規模の都市国家でした。不同意の者は社会を去る権利をもっており、これによって個人の自由が保障されていると考えました。しかし、実際のところ、国家を去ることは簡単ではありませんから、多数派支配から全体主義につながるものでした。

ルソーは、自らと他の哲学者との違いが理性主義の否定にあると宣言しました。啓蒙思想は、人間を物的存在として定義しようとしましたが、ルソーは、人間を衝動と感情によって行動する政治的存在と見ました。理性主義を放棄しつつ、人間の完全性を維持したために、人間の自由を否定し、ファシズム全体主義に火をつけることとなったといいます。

マルクス社会主義

1848年から1849年にかけて起こった革命(ヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命)によって、フランス、オーストリア、ドイツ、スペインにおいて反動君主政体が崩壊し、理性主義のリベラリズムが権力を掌握しましたが、結局、何もすることができないことを示しました。

同じ頃に仕事を始めたマルクスは、当時のリベラリズムから理性主義を削ぎ落とし、非合理の絶対主義を取り入れることによって強力な政治勢力に仕立て直しました。

人間を「経済人」として据える経済至上主義は残しましたが、個人の自由な理性による行動が完全な経済社会をもたらすとする理性主義を捨てました。

唯物論哲学によって一人ひとりの人間による理性的な思考と行動を否定し、所属階級が人間の思考と行動を規定するという非理性的な原理を据えました。

さらに、唯物論哲学に基づき功利主義の物質主義的な側面は残しました。しかし、物質主義がもたらすはずの調和ではなく、階級闘争を必然としました。

ところが、理性主義は否定したものの、その根底にあった人間そのものに完全性を求める信条は残しました。しかも、その完全性は搾取階級であるブルジョアにはなく、被搾取階級であるプロレタリアにはあるとし、プロレタリアート独裁を主張しました。

ブルジョアとプロレタリアは、役割や立場の違いではなく、まるで違う生物でした。所属階級が人間の思考と行動を規定することからすれば、被搾取階級にあることが、独裁者につくべき完全な人間をつくるということになります。

ルソーは、革命の必要性について説きましたが、必然とは言わず、若干の疑いを残しました。しかし、マルクスは、階級社会の歴史は階級なき社会にならなければならないと考え、革命を必然としました。革命が必然であれば、革命を起こし、それを事後に理屈づけることは容易でした。そして、革命の指導者は、独裁的地位につくはずのプロレタリアートをも隷属させる絶対君主でした。

マルクス社会主義革命は、資本主義の行き着く先にあったはずですが、実際は、ヨーロッパで最も産業化していなかったロシアで起こりました。なぜなら、産業化前から初期の社会においてのみ、階級の深刻な分裂が生じたからです。

産業化が進めば、ブルジョアとプロレタリアという単純な階級の二分化ではなく、技術者、セールスマン、化学者、会計士など、被用者であっても専門家である中間階級が現れます。機能的には重要な階級を占めながら、プロレタリアとはまったっく異なる信条をもっているため、マルクス社会主義思想の側に立って革命に加担することはありません。

さらに、西欧には、マルクス社会主義革命に反対する大きな勢力が存在しました。一つは、ヨーロッパにおける社会的、政治的リーダーであったイギリスの反全体主義勢力です。啓蒙思想とフランス革命に抗しきった保守反革命の伝統が健在であり、マルクス社会主義がファシズム全体主義と同じであることを理解していました。

もう一つは、アメリカの自由社会でした。1848年のヨーロッパにおける革命に対して、アメリカの南北戦争(1861年~1865年)が、ヨーロッパにおいて自由の信条を立ち直らせたと、ドラッカーは指摘します。

マルクス社会主義は、産業化した国々で革命を起こすことはできませんでしたが、政治信条としては深く浸透しました。マルクスが、結果的にファシズム全体主義のための事前教育を大衆に施したので、ドラッカーは、マルクス社会主義をファシズム全体主義の父と位置づけました。

本書の執筆当時は、ファシズム全体主義との戦争であった第二次世界大戦の最中でしたが、この記事を執筆している2022年現在において、ファシズム全体主義と戦っていたはずの西欧において、正にマルクス社会主義が花開きつつあるように見えます。

生物学、経済学、心理学による決定論

コロンビア大学のジャック・バーザンは、『ダーウィン、マルクス、ワーグナー』(1941年)において、19世紀初めの経済学的決定論の絶対主義が、いかにして19世紀終わりの生物学的決定論をもたらしたかを明らかにしました。

ドラッカーによると、その生物学的決定論がもたらしたものが心理学的決定論であったといいます。

経済学的決定論とは、おそらく、経済人モデルに基づいて人間の意思決定を説明する理論であろうと思います。「経済人モデル」とは、物的・経済的欲求を満たすために、常に論理的かつ合理的な行動をとるという人間観ですから、人間の意思決定は、自らの物的・経済的欲求を最大限に満たすための合理的な選択によって説明されます。

生物学的決定論とは、遺伝子その他の生物的な要因が、身体的、行動的形質を決定するという理論です。人間の能力や性格も遺伝子などの生物的な要因で決定されると考えます。ダーウィンの進化論は、生物学的決定論に含まれます。

心理学的決定論とは、経験論的決定論とも言われ、経験的法則が人間の意思決定や行動を決めているとする理論を指していると思われます。行動科学において中心的に扱われている理論であろうと思います。経験的法則には、環境や文化などの影響も含まれます。

心理学においては、脳の機能、分泌腺、幼児期の欲求不満に原因を求めるものもありますので、心理学的決定論では、生物学的決定論もベースにしていると思われます。

ドラッカーによると、ナチズムのルーツは、ダーウィンに始まる生物学的決定論にあります。『種の起源』(1859年)に始まって、人間を生物学的、心理学的存在とする見方が、徐々にヨーロッパの理性主義的リベラリズムの基盤となっていきました。

そして、優性論と行動科学を両極として、人間は生物学的ないし心理学的に完全な存在たらしめることができるとの考えが力を得ていきました。こうして、1900年頃には、心理学的決定論が人気を集めるようになりました。

当時の世界では、黄禍論(黄色人種脅威論)や反ユダヤ主義などの人種差別が横行し、広告と広報の流行や扇情的な新聞のブームが起こっていました。そこで、理性主義者は、人種や民族を利用し、プロパガンダなどの心理学的手法を多用しました。

彼らは、遺伝子、染色体、分泌腺が人間をつくり出すという絶対の理念をもっていました。また、定量的な心理的経験によっても影響を受けると考えました。そして、人間を完全なものにできると考え、人間の育成と心理を分析し、理解し、習得した者の絶対性を宣言しました。

ヒトラーによる絶対主義の完成

新しい理性主義は、政治的な勢力になる暇もなく、第一次世界大戦によって粉砕されました。大戦という現実に対して、新しい理性主義も、他の理性主義も説明をつけることができなかったからです。

このような理性主義の危機に乗じて、ナチズムが絶対の地位につきました。

ナチズムは、生物学的決定論と心理学的人間観を戴き、人種とプロパガンダを理解する者こそ完全であり、絶対の政治的リーダーシップと支配権をもつべきことを宣言しました。

ヒトラーは、新たに秩序立てた社会の上に自らを唯一の首領として置いたことによって、理性主義を全体主義に転換し、ルソーやマルクスの全体主義と一線を画しました。

ルソーやマルクスの理論においても、一人の人間による専制に至ることが不可避でしたが、それを公然と認め、完全な指導者の存在を必然としたのは、ナチスが初めてでした。

ドラッカー曰く、ルソーは革命を説き、マルクスは革命を予言し、ヒトラーは革命を実現させました。ヒトラーのファシズム全体主義は、人間が完全であり完全たり得るとの絶対主義の前提から導かれ得る形而上的、政治的結論のうち最も徹底したものであると、ドラッカーは指摘します。リベラルによる絶対主義の完成形がヒトラーでした。

ヒトラーは倫理的価値を無視するどころか、蔑視しましたが、心理学的決定論によれば人間には倫理的な価値など存在しないと教えていたも同然であり、それが人気さえ得るものになっていたといいます。

ファシズム全体主義とは戦えないリベラル

理性主義のリベラルは、ファシズム全体主義とは戦いきれないというのがドラッカーの意見です。理性主義リベラルの完成形がヒトラーだからです。

このような立場は、ソクラテスと同じ立場であると指摘します。ドラッカーは、ソクラテスを、人類最初の偉大な理性主義のリベラルと位置づけます。

ドラッカーの理解によれば、ソクラテスは、人間は必ず善を知ることができ、理性をもって善を教えることができ、善を知ることは善を行うことであるとしました。これは、現代の理性主義のリベラルと同じ立場です。彼らは、絶対的な善を知り、示すことができるとします。それは絶対的ですから、反対の立場などあり得ません。

人間は、情報の不足から間違いを犯すことはあっても、罪を犯すことはあり得ないとして、悪の可能性さえ否定します。したがって、意味ある選択肢が与えられていない人間には責任はないとします。また、絶対の善を知ることができるのですから、自由も必要ありません。

あるいは、悪は社会の病理の結果であり、あるいは、脳や神経の障害であるがゆえに、個人の自由意思による悪など存在しないという説明もあります。

そこから、刑務所廃止論まで行く人もいます。刑務所は、社会の病理や障害によって”罪を犯さざるを得なかった人”に対して、非人道的であるというのです。

しかし、理性主義のリベラルは、ソクラテスと同じように、自らの信条を政治行動に移すことはできません。理性による絶対主義においては、善はその存在だけで意味をなし、行動に転化しますから、権力や制度による方向づけや強制は必要ないからです。

したがって、彼らができる唯一のことは、過去を批判することだけです。過去の政治制度が間違ったことをすべての原因とし、それを批判し、否定すれば万事うまく行くとでも言わんばかりです。

こうしてリベラリズムが失敗したとき、ファシズム全体主義がやってきます。彼らはファシズム全体主義を攻撃することはできません。なぜなら、ファシズム全体主義者は、理性主義者たちが自らの形而上的な信条に従って行うべきであったことを、代わりに行ってくれているに過ぎないからです。

過去に代わるべきものをもたずに否定のみ突き詰めてでき上がった完全な政治制度は、ヒトラーという超人的絶対者に全権を委ねることと、その権力による統制を実現させる軍国主義でした。これが理性主義リベラルの行き着く先でした。

ですから、理性主義のリベラリズムは、ファシズム全体主義に代わるべき新しい秩序をもたらすことはできません。理性による絶対性を捨てない限り、それは同根であり、戦争によって勝利しても、理念としてのファシズム全体主義がなくなることはありません。彼らは、根本的に、自由を信条とする産業社会のための解決策を示すことはできません。

ヒトラーは、プロパガンダが人間の心情を決定すると考えました。このような悪性のプロパガンダに対抗するために、理性主義のリベラルは、自分たちが行う良性のプロパガンダに置き換えることが必要であると考えます。

しかし、プロパガンダが人間の思想や忠誠や信条を生み出し、決定するという考えそのものが、自由の否定であることを理解していません。

プロパガンダが人間を規定し得るとする考え方は、心理学的決定論の一種であり、ヒトラーと同じ考え方です。しかも、ヒトラーは悪性で、自分たちは良性であるとする考え方が、理性による絶対的善を自分たちは分かっているという主張ですから、その点でも、ヒトラーと同じです。

現代に当てはめれば、左翼リベラルが、彼ら曰く「ファシスト」であるトランプ大統領を初めとする保守派による悪性プロパガンダを阻止するために、トランプ大統領らのツイッターやフェイスブックのアカウントを凍結しました。ところが、左翼リベルの主張は無制限に流し続けるということをしました。

自分たちは絶対的に正しいという理念のもと、マスコミは印象操作を行い、画像を加工してまで平気で嘘を流したり、切り取り報道によって本来の意図を曲げたりして、彼らにとっての「良性」プロパガンダを行い続けています。

さらに、二酸化炭素による気候変動は絶対的に正しい科学であるとし、それに科学的疑問を呈する意見は、マスコミやビッグテックによる検閲によって排除しています。コロナ対策についても、ロックダウン政策やワクチンの効果に対して数々の医学的疑問が出されているにもかかわらず、それらの意見も検閲により排除しています。

リベラルは、人間は不完全であり、科学でさえ進歩によって次々と新しい知見に置き換えられてきた歴史的事実を無視し、自分たちの主張は絶対的に正しいと考えます。絶対的に正しいのであれば、反論に対して言論で戦えばよいはずですが、反論自体を許さず、排除しようとします。正にヒトラーがやったことであり、ヒトラーこそリベラルの理想型なのです。