ドイツとイタリアでファシズム全体主義政権が生まれた理由 - 「経済人」の終わり⑤ 

ファシズム全体主義は、社会の古い殻を維持しつつ、その中身として新しい社会の実体を見つけるという奇跡を行おうとしました。

これは、当時、ドイツとイタリアに限られていたため、民主主義が崩壊し、ファシズム全体主義が台頭した原因は、ドイツとイタリアに固有の問題であると信じられていました。

ドラッカーは、もっと普遍的な原因を問題にしているため、それぞれの国の国民性によるものではないと指摘します。

第一に、ファシズム全体主義は世界中で見られるようになったことです。つまり、原因は世界中に存在します。

第二に、ドイツとイタリアは、国民性、歴史、外交においてかなり異なっているといいます。共通すると指摘されているものは革命における共通性であって、ファシズム全体主義に特有のものではありません。つまり、ファシズム全体主義の結果であって、原因ではないということです。

ファシズム全体主義政権を生み出したドイツとイタリアに特徴的だったことは、民主主義の信条、制度、スローガンに大衆の心情と知性のいずれにも訴えるだけの力がなかったことです。

ですから、その他の国でも、その力が失われれば、同じ問題に直面することを意味します。

与えられた民主主義と獲得した民主主義

ドラッカーは、ドイツとイタリアに共通していながら、他のヨーロッパ諸国には見られなかった社会的、政治的要因に着目します。それは、「国家統一への熱意」です。

19世紀のドイツとイタリアにおいて、大衆の精神的連帯をもたらしたものは、ブルジョア秩序ではありませんでした。民主運動というよりも国家統一運動であったといいます。ブルジョア秩序は、国家統一のための手段として受け入れられたに過ぎませんでした。

ブルジョア秩序は、「経済人」の概念に基づき、経済的な自由の追究を至上とする秩序です。そのための政治制度が民主主義でした。したがって、民主主義そのものも、ドイツとイタリアの大衆の心には、いかなる情緒的愛着も伴っていませんでした。

ドイツとイタリアにおいても、経済的な発展にブルジョア階級が必要とされましたが、ブルジョア階級の社会的地位は低いものでした。

ところが、イギリス、フランス、オランダ、スカンジナビア諸国など、他のヨーロッパの国々では、国家としての統合はすでに実現しており、民主主義獲得のための戦いが大衆の心の中に生きる経験と伝統になっていました。

西ヨーロッパにおいて、ベルギーだけは、19世紀に入って、国家統一と独立の達成が国民の伝統と愛着の中心に位置していたといいます。そのため、同時期に「レックス党」と呼ばれる危険なファシズム政党が結成されました。この点で、ドイツとイタリアとの共通性を見ることができます。

ムッソリーニとヒトラー

ムッソリーニは、当初、社会革命を起こすことなど毛頭考えていなかったといいます。イタリア社会が制度的、信条的には確立された社会であり、単に強力な政治が存在していないために表面的な問題が生じているに過ぎないと考えていました。

彼の目的は、権力を奪い、保つことだけでしたから、既存の制度と秩序を維持し、目的のために利用しようとしました。

ところが、イタリアでは、民主主義の信条が大衆の心に定着していなかったため、民主主義の信条に基盤を置くあらゆる制度が倒壊しました。このため、意に反して、まったく新しい種類の社会、自らの意図とは異なる社会を描き、生み出すための革命家にならざるを得なくなりました。

ドイツにおいても、民主主義の信条は、国家目的の手段として使われていたに過ぎませんでした。ブルジョア思想の華であったドイツ観念論も、社会主義も、ドイツでは教条的で非現実的なものと理解されていたといいます。

それどころか、第一次世界大戦において国際的な平等を求めて戦ったドイツにとって、厳し過ぎる賠償要求を突きつけられたベルサイユ条約を含め、この大戦から得られた教訓は、「民主主義は嘘である」ということでした。

ヒトラー自身は、著書『わが闘争』によると、自由競争、民間主導、規制排除の推進者でした。階級間の経済的利害の調和も信じていました。経済的、社会的全体主義にも反対していました。

しかし、大衆が旧秩序の信条を捨てたとき、新しい社会を生み出さなければならなくなりました。大衆の絶望が、ヒトラーを社会改革に向かわせたといいます。

ドイツのナチズムとイタリアのファシズム

要するに、ファシズム全体主義政権を生み出したドイツとイタリアに特徴的だったことは、民主主義の信条、制度、スローガンに大衆の心情と知性のいずれにも訴えるだけの力がなかったことです。

他の西ヨーロッパ諸国においては、大衆が民主主義に対して抱いている心理的、知的な愛着があり、それがファシズム全体主義に対する抵抗になりました。

ですから、民主主義の崩壊を招いた原因そのものは、ドイツとイタリアにのみ存在していたわけではありません。民主主義の実体が失われた後において、それに抵抗できるだけの愛着あるいは愛着を伴う伝統の力があったかどうかが違っていたわけです。

ドラッカーによると、イタリアは都市国家に、ドイツは神聖ローマ帝国に、大衆の心理的、知的愛着があったため、両国では国家統一が300年遅れたといいます。その間、国家統一が西ヨーロッパの他国にもたらした利益を享受することができないまま、政治的、経済的、思想的に完全に無能化し、他の西ヨーロッパ諸国の意のままにされたといいます。30年戦争からナポレオン戦争に到る間、ドイツとイタリアは、ヨーロッパの主戦場として利用されました。

ということは、ドイツやイタリア以外の国であっても、抵抗力を失えば、同じ問題に直面することを意味します。

全体主義を点検するには、イタリアよりもドイツのほうが重要です。最初に現れたのはイタリアのムッソリーニですが、ドイツにナチズムが現れるまでは、むしろファシズム内部の革命的要因を抑え込んでいたのであり、大恐慌まではほぼ初期資本主義の段階にとどまっていました。

主導権を取ったのはヒトラーのほうであり、ムッソリーニはそれを真似たに過ぎません。