知識 ー ポスト資本主義社会③

ポスト資本主義社会においても、経済は市場によって動いています。

市場が優れている理由は、経済活動が情報を中心に動いているからです。あらゆる産業の本質は、財やサービスの中核が情報や知識になっているということです。

経済発展の本質も、知識によって富の創出能力を増大させることです。改善、開発、イノベーションを同時かつ継続的に実施する必要があります。

知識の生産性を高めるためには、マネジメントによって、さまざまな専門知識を統合し、新たな知識を生み出し、成果につなげていかなければなりません。

ポスト資本主義社会において必要な知識は、主に学校教育によって体系的に学ばなければなりません。学校は、これまで以上に、成果に対して責任を負うことが求められます。

学校教育は、ますます高度の能力を提供するだけでなく、継続学習のために、いつでも何度でも学校に戻ってこられるよう開かれたものとすることが求められます。

教育は、学校だけのものではありません。あらゆる組織が教育に関わるようになります。学校は、それらの組織と連携することが必要です。

ポスト資本主義社会における中核資源は、教育によって学ぶ知識ですが、知識の所有者は人間です。ですから、「教育ある人間」について新しい定義が必要です。

優れた専門知識を有し、多様な分野の専門知識を理解し、組織の目的のための手段として知識を統合できる人間です。

知識の経済学と生産性

ポスト資本主義社会においても、経済は市場によって動いています。世界的規模の市場経済です。

市場経済は、少なくない欠陥を指摘されるものの、経済活動を組織する手段としては、これ以上に優れているものは今のところ見られません。

ドラッカーによると、市場が優れている理由は、情報を中心に経済活動を組織しているからです。

世界経済は依然として資本主義的ですが、市場を支配しているのは「情報資本主義」です。産業の中心は、知識や情報をつくったり運んだりする産業です。

製造業は物を生産していますが、その価値の中心は知識です。ビルなどの建物も、知識の集積です。材料は知識によって加工され、組み立てられ、目的の機能を発揮します。

小売業においても、ウォルマートなどの優れた企業と、そうでない商店とを分けるのは、情報を中心に事業を組み立てている点です。

非営利組織においても、知識を生産し応用する仕事がほとんどです。例えば、教育や医療が遙かに早いスピードで成長しています。

知識の経済学

知識が中核の経済資源となっていることは明白ですが、それがどのように行動するかは、まだ完全には分かっていません。

知識を富の創造過程の中心に据える経済理論が必要です。そのような経済理論のみが、今日の経済を説明し、経済成長やイノベーションを説明することができます。

少なくとも、既存の経済学とはまったく違ったものになると予想されます。

既存の経済学は、資源の配分や経済的な報酬の分配について完全競争をモデルとしていますが、現実は不完全競争です。原因は、独占、特許保護、政府規制などの外部干渉です。

しかし、知識経済における不完全競争は、外部干渉ではなく、経済自体に内在する本質です。学習曲線によって得られる優位性は永続し、原則として逆転できません。

自由貿易と保護主義は、それだけでは経済政策として機能しません。両者の均衡が必要になると考えられます。

さらに、既存の経済学では、経済は消費または投資によって規定されるとしています。ケインズ経済学系統は、経済を「消費」の関数と見ています。古典派や新古典派は、経済を「投資」の関数と見ています。

しかし、知識経済では、消費や投資で知識が増加するという根拠はありません。相関関係があるかもしれませんが、ドラッカーによると、その間のタイムラグが大きすぎます。

知識における問題は、異なった種類の知識を比較するために必要な共通の尺度が存在しないことです。

知識を経済活動に適用する方法は、ドラッカーによると3種類あります。改善、開発、イノベーションです。

これらはすべて必要であり、しかも同時に行わなければなりません。しかし、そのコストと効果は質的に異なります。コストは定量的に評価可能かもしれませんが、効果(「知識収益」)は明らかにできません。

また、知識の量と質(生産性)はあまり関係ありません。後者が重要であることは言うまでもありません。知識の古さと新しさも、その適用の効果に関係があるとは言えません。

知識の生産性

ドラッカーの試算によると、あらゆる先進国が、知識の生産と普及にGNPの5分の1相当を投入しています。そのなかには、学校教育、従業員の継続教育、研究開発などが含まれます。

ところが、伝統的な資本(貨幣資本)の形成のために、それだけのGNPを向けている国は希であるといいます。つまり、知識の形成が最大の投資先になっているということです。

しかも、知識から得られる収益こそが、競争力の決定的な要因であるということです。ですから、知識の生産性が、社会的な成功と経済的な成果にとって、ますます決定的な要因となっています。

知識の生産性は、国、産業、個々の組織によって大きく異なります。

ポスト資本主義社会の経済学においては、資源の生産性が中心的な課題であり、それが経済成長と環境問題との関係の基礎になります。

貨幣資本の生産性

第二次世界大戦まで、経済学者は貨幣資本の生産性など問題にしなかったといいます。問題にしたのは量でした。

その後、「投資貨幣の一単位がどれだけの追加生産を生み出すか(貨幣資本の生産性)」が問われ始めたといいます。

その頃は、中央で計画を立てる形の経済が流行していました。総生産においてであれ、生産性においてであれ、市場に任せるよりも計画経済のほうがはるかに優れていると考えられていました。

問題とされていたのは、ソ連流のトップダウン型詳細計画と、フランスの誘導的計画(コンセンサス型の計画)のどちらが優れているかということでした。

ところが、現実に貨幣資本の生産性を評価し始めると、いずれの計画経済も生産性が低く、資本を投下するに従って生産性は低下してくことが分かりました。

フランスは直ちに計画経済を棚上げしましたが、ソ連は継続し、貨幣資本の生産性はマイナスにまで低下しました。

貨幣資本の生産性は、集中化もまた障害になるといいます。イノベーションには、体系的な努力と高度の組織化が必要ですが、分散化と多様化も必要です。

マネジメント上の問題

知識の生産性をあげる方法はあります。それがマネジメントです。

マネジメントの真髄は、知識に対して知識を体系的に応用することです。知識もまた、知識の適用によって生産的になります。

まず、知識の焦点、すなわち目的をはっきりと絞り、集中することです。目的に基づき、目標を高く掲げることです。一歩一歩は小さなものでも、目標は野心的で、意味ある変化や違いを生み出すものでなければなりません。

一人の天才のひらめきに頼るものではありません。変化の機会というものがありますから、それをとらえて体系的に利用するために、組織的な対応が必要です。知識労働者とそのチームの能力と強みに応じて利用されなければなりません。

時間的な要素も管理しなければなりません。知識の生産性は、長い懐妊期間を経て達成されるからです。だからといって、短期的な成果をもたらさなくてよいわけではありません。

マネジメントは、長期的な成果と短期的な成果との均衡を図るという難しい仕事に取り組まなければなりません。

なお、短期的な成果とは経済的成果(純利益)ということではなく、着実に目標に向かって進んでいることを確認できるようなものという意味でよいと考えます。

その意味で、あらかじめ目標に向かう過程でのマイルストーンと期限を設定しておくことが重要です。

知識を応用する分野は、経済と技術の分野だけに限りません。社会問題、政治、知識そのものの分野においても、知識の生産性をあげなければなりません。

知識の結合

知識の生産性をあげるには、すでに知られている知識からの生産を増やさなければなりません。大部分の人や組織は、知っていることの一部しか活用していないからです。

ドラッカーは、「この仕事に応用できるようなことを何か知っているか、何を学んでいるか」について自問しなければならないといいます。

ところが、多くの人は専門的な分野で仕事をしているために、利用する知識もその分野に限定してしいます。学んだり教えたりするための便宜上の区分を仕事にも適用し、利用できる知識を限定しているのです。

知識の区分は、知識の使い道とはまったく関係ありません。

知識は道具です。道具について学ぶ際は、道具に焦点を当てますが、道具を使ううえでは、成果、任務、仕事に焦点を当てる必要があります。

知識の生産性をあげるには、成果に向けて必要な知識を区分を問わず結合しなければなりません。

知識を結合するうえで、ドラッカーは、「問題定義」のための方法論が必要であるといいます。必要とされる知識や情報の体系的な分析と、問題に取り組む手順を編成する方法論が必要です。

ドラッカーは、その方法論を「知らざることの組織化」と呼んでいます。

知識そのものは、国や産業、企業にかかわらず、特有の優位性はありません。優位に立てるかどうかは、誰もが手に入れられる知識から、どれだけ多くの物を引き出せるかによります。それがマネジメントの成果です。

責任ある学校

コンピュータや衛星放送の利用などの技術革命によって、学び方や教え方が変わりつつあります。学校は、労働集約的な存在から、高度に資本集約的な存在になります。

学校の社会的な地位と役割も劇的に変わります。これまで学校が対象としてきたのは、市民権をもたず、責任能力もなく、労働力にもなっていない子どもたちでした。

しかし、知識社会では、学校は、成人、とくに高等教育をすでに受けている成人の機関ともなります。

さらに、知識社会においては、学校は、その仕事ぶりと成果に責任を負うべき存在となります。

学ぶことや教えることにおいて新しい技術を導入することは、国家としての成功や、文化的な発展、経済的な競争力の確保にとって不可欠です。

教育において、数百年前に起こった新しい技術の導入は、「印刷本」(教科書)です。これによって、1500年から1650年の間に、西洋が世界のリーダーシップを握ったといいます。

逆に、印刷本を導入しなかった中国やイスラム圏は、衰退して西洋に後れを取ることになりました。イスラム圏では、暗記と復唱に固執し、中国では筆写を重視しました。

教育において影響を与えるのは、技術革新そのものよりも、技術革新が教育や学校のあり方、内容、焦点に引き起こす変化のほうが大きいといいます。

日本の教育

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、日本は、西洋とは違った方法で、近代的な学校(私塾)をつくりました。

その学校では、書道が重視されましたが、印刷本も効果的に利用しました。重要な点は、万人の読み書き能力の向上を目的としたことです。教育内容には、長崎在住のオランダ商人を通じて、西洋から多くを取り入れました。

この学校が、西洋以外で唯一日本だけが国民国家をつくり、経済、技術、政治、軍事などの面で西洋化し、しかも完全に日本的であり続けられるようにした原動力でした。明治維新の功労者たちは皆、この学校の生徒でした。

教育にとって重要な意味をもつのは、技術革新よりも、むしろ教育や学校の役割と機能の見直しであるということが分かります。

技術革新が重要なのは、教育が何か新しいことをせざるを得なくしてくれるという意味においてです。技術そのものが重要なのではなく、技術を何のために使うのかが重要です。

ドラッカーは、知識社会における教育と学校に関する新しい要件を次のように列挙します。

  • 高度の能力を提供すること
  • すべての生徒に対し、学習の意欲と継続学習の規律を植えつけること
  • すでに高等教育を受けている人だけでなく、高等教育を受けられなかった人にも門戸を開くこと
  • 内容に関わる知識とともに、方法に関わる知識(ノウハウ)も与えること
  • 企業、政府機関、非営利組織など、あらゆる種類の雇用機関が、教え学ぶための機関となること
  • 学校は、それらの機関と連携すること

学校の成果

知識社会における教育の最優先は、万人のための行動の基礎教育です。成果をあげ、貢献し、雇用され得るような道具を身につけさせることです。

教育において重要なことの一つは、「教えること」と「学ぶこと」とは違うということです。教えなければ分からないことと、自ら学び習得しなければならないこととは違います。

しかし、これまでの学校教育では、本来、自ら学ぶことによって身につけるべきものを、ひたすら教えようとしてきました。すなわち、練習、反復、フィードバックなど、行動によって習得するような内容です。

これらは自ら学ぶことによって習得すべきものです。具体的には、読み書き、計算などが代表的です。

読み書き、算数、歴史、生物、さらには神経外科、医療診断などの高等な学科、さらに工学系学科のほとんどは、教師が教えるよりも、コンピュータを使うことによって、もっと効率的に学ぶことができるといいます。

この場合の教師の役割は、動機づけ、指示、激励です。教師はリーダーとなり、相談相手となります。

知識社会における学校では、生徒自身が自らの教師となり、コンピュータ・プログラムが道具となるといいます。その意味で、学校は、優れて資本集約的になります。

基礎教育の内容は、読み書きや計算も当然ですが、数学的な素養、科学や技術の基礎的な理解、外国語のほか、組織の一員として成果をあげる方法も含まれます。

特に、基礎的な技能の習得は、小学校において最優先させるべきです。

学習方法の学習

知識社会では、教科内容に関する知識だけでなく、方法論に関わる知識が必要です。特に重要なことは、学習方法に関する知識です。知識社会では生涯学習が不可欠であり、学習継続の能力や意欲が重要だからです。

もちろん、生涯学習のためには、学習が魅力的であることが前提です。少なくとも、満足できなければなりません。

継続学習への動機づけとそのための規律は、「達成」によって得られます。「達成」は、絶えざる作業と訓練の積み重ねによってもたらされます。

「達成」とは、すでにうまく行えることを、はるかにうまく行えるようになることです。それが動機づけの基本です。

できないことを下手に行えるようになったり、うまく行えないことを前よりましに行えるようになったりすることは、「達成」ではありません。そんなことで動機づけられることはありません。

したがって、「達成」のためには、生徒の強みに基づかなければなりません。

そもそも、教育の定義は、生徒の強みを見出し、その強みに焦点を合わせて進歩させることであり、それを行う人が教師です。これは、アウグスティヌス(354年~430年)の定義であるといいます。

ところが、現在の学校は、ほとんどの場合、弱みに焦点を合わせています。弱みを直すことに多くの時間を費やしています。

もちろん、核となる技術については最低限の能力を身につけなければなりません。そのレベルの能力に不足しているところは、補う作業が必要です。

これまでの学校では、これにほとんどの時間を費やしてきました。それだけの時間しかなかったと言えます。

しかし、新しい技術の導入によって、それを変えることができます。これまで大半の時間を使ってきたフォローアップや反復の作業を、コンピュータに行わせることができます。

教師は、その分の時間を、生徒の強みを把握し、焦点を当て、達成させるよう指導するために使うことができるようになります。

さらに、学校で学ぶべき重要なこととして、方法論的な知識があります。ドラッカーが言うところの知識の「生産物」を手にするための方法論です。

これまでも、工学、医学、法学、経営学などの専門大学院では、そのような知識を教えています。実務が重視される学問だからです。

しかし、これからは、誰もが方法論的な知識を身につけることが必要です。知識の生産物を手にするための過程、概念、分析、技能について学ばなければなりません。

社会のなかの学校

学校は昔から社会の中心的な期間でしたが、社会に付属する機関であって、社会を構成する機関ではありませんでした。なぜなら、学校は、成人のためのものではなかったからです。

社会人が必要に応じて利用する機関ではなく、一定の年齢の子どもが決められた期間だけ所属し、一旦卒業したら戻ることはありませんでした。その意味で、完結した機関でした。

しかし、知識社会では生涯学習が基本となるため、学校は、成人が何度も学びに戻ってくる機関になります。その意味で、社会を構成する機関になっていきます。開かれたシステムとなります。

「学校教育を受ければ受けるほど、ますます学校教育が必要になる」ということが当然とされなければなりません。

そうであれば、年齢にかかわらず、いかなる教育課程にでも入れるようにすることが必要になります。

学力が不足していなくても、大学に進学しない人たちはいます。経済的な理由の場合もあれば、学ぶことより働くことに意義を見出す人もいます。

そういう人たちのなかに、社会に出た後、改めて学びたくなる人たちがいます。そういう人たちこそ、強い動機をもち、意欲的な学生になります。そのような人たちに、常に門戸を開いておくことが大事です。

特に、サービス労働者に対しては、知識労働への移動の機会を与えなければなりません。より進んだ仕事に就く意欲をもっているにもかかわらず、学歴が不足するためにそれができないという状況はなくさなければなりません。

パートナーとしての学校

生涯学習が不可欠になれば、学校だけが教育を行うだけでは対応できません。教育は、学校がパートナーとなる共同の事業になっていきます。

あるいは、多くの分野で、学校は、互いに競争する多くの教育提供機関の一つに過ぎなくなります。

職場も、成人が学習を続ける場となっていきます。高度な知識を有する成人は、教育訓練の対象となるだけでなく、教育訓練を行う者ともなります。

ですから、学校と雇用機関との連携協力が重要であり、効果的です。お互いに刺激を受け合うことも必要です。

成果に対する責任

学校が与える学位は、その後のキャリアや生計に大きな影響を与えますが、学校の成果が実のところ何であるのかは、ほとんど明らかにされていません。

しかし、学校がこれほどの力をもち、高額の費用がかかるようになっているからには、成果に責任をもたないことは許されません。

同じ学費を払っていながら、生徒の成績の悪さを生徒の責任にすることは、いつまでも許されることではありません。

勉強しない生徒やできの悪い生徒がいるのではなく、仕事のできる学校とできない学校があるというのが、本当のところです。

生涯学習が主流になっていけば、学校は学校とだけ競争していれば済むわけではありません。学校法人ではない教育機関や教育サービスを提供する企業とも激しい競争をせざるを得なくなります。

そのような状況のなかで、成果をあげられないどころか、成果を明確にできない学校は、淘汰されざるを得ません。

教育ある人間

知識社会の中心は人間です。知識は人間のなかにあるからです。人間が教え、学び、使うものが知識です。しかも、学校教育によって学ぶ知識です。

ですから、知識社会への移行は、その代表者である「教育ある人間」というものについて、新しい定義が求められます。

求められる多様な能力

「教育ある人間」は、知識社会が専門知識の社会であり、その貨幣、経済、職業、技術、諸々の課題、情報がグローバルであるがゆえに、普遍性をもつ存在でなければなりません。

ポスト資本主義社会では、統合の力が必要です。諸々の独立した伝統を、共通かつ共有の価値あるものへの献身や、卓越性という共通の概念や、相互の尊重へとまとめあげる指導的な階層が必要です。

また、「教育ある人間」は、自らの知識を社会に役立たせることができる能力をもたなければなりません。そのような能力がなければ、偉大な伝統も役に立たせることができません。

分析的な能力や、経験的な知覚ももたなければなりません。

グローバリズムのなかにあっては、偉大な文化や伝統を幅広く理解できなければなりません。同時に、部族化しつつある世界において、地域社会から栄養を吸収するとともに、その地域文化に栄養を与えなければなりません。

「知識人」と「管理者」

ポスト資本主義社会は、知識社会であると同時に、組織社会でもあります。

「教育ある人間」は、言葉や思想に焦点を合わせた「知識人」の文化と、人間と仕事に焦点を合わせた「管理者」の文化のなかを生き、働くことができなければなりません。

「知識人」には、道具としての組織が必要です。組織のおかげで、その専門化された知識を適用することができ、組織全体としての成果につなげることができます。

「管理者」は、組織の目的を実現するための手段として知識を利用します。バラバラの専門知識を一つにまとめます。

知識人と管理者は、互いが互いを必要とします。互いを理解するために、両方の文化で働く経験をもつことが大事です。

「博学」の新たな意味

19世紀の「教育ある人間」にとって、技能は知識ではありませんでした。しかし、今日では、技能は専門知識となりましたから、一般的知識のなかに組み込み、「教育ある人間」の条件の一つとならなければなりません。

「教育ある人間」に必要とされる知識は、ますます専門化していきます。したがって、多様な知識に精通する意味での「博学」になることはできません。

「教育ある人間」に必要なのは、多様な専門知識を理解する能力です。それが「博学」に代わるものです。

専門知識を理解していると言えるには、それが何についてのものか、何をしようとするものか、中心的な関心事は何か、中心的な理論は何か、どのような新しい洞察を与えてくれるか、それについて知られていないことは何か、問題や課題は何か、などを知っておくことが必要です。

さまざまな専門知識について、それだけのことを知っておかないと、自らの専門知識そのものが生産的な存在ではなくなります。なぜなら、専門知識は、組織において他の専門知識と統合されてこそ成果につながるからです。

さらに、専門知識に関する新しい洞察は、まったく別の専門分野のなかから生まれるようになっているため、他の専門知識が理解できないと、自らの専門知識も直ちに陳腐化してしまいます。

多様な専門知識を理解できるようになるためには、各人の努力もさることながら、各分野の専門家が、その知識領域を理解しやすくする責任を果たすことも必要です。

あらゆる専門知識が、一定のレベルにおいて一般的知識として学べるようになることが必要です。

各専門家は、その分野の知識を預かっているという自覚が必要です。