生産活動の目的 - 企業とは何か⑪

当時、「財やサービスのための生産か」、「利益のための生産か」との問題提起があったといいます。

この問題提起に含まれる含意としてドラッカーが指摘したのは、第一に、利益を経済活動の条件や尺度とすることを拒絶する態度があること、第二に、経済活動の動因としての利益を否定する姿勢が見られること、第三に、消費者ではなく政府が消費を決定する経済体制を是とする考えが見られることです。

この背景には、利益を求めることを悪いことのように考え、社会と個人に反する経済体制を招くという考え方があります。

しかし、ドラッカーは、利益のための生産こそ、企業が準拠すべき合理と効率の基本であるとします。財やサービスのための生産という考えでは、逆に、社会の要求と企業の要求は対立せざるを得ないとします。

「利益のための生産」とは、利益を企業の最終目的とするものではありません。経済活動の決定要因と評価尺度に利益を用いるということです。

利益をどう位置づけるか

経済活動は未来に対する賭けですから、リスクが伴います。経済が複雑化し、拡大すれば、リスクはさらに増大します。事業によって成果をあげるのに要する時間の長さが異なり、それに伴う不確実性もあります。そのような中で企業は存続していく必要があるため、リスクに対する保険料に相当するものが必要です。それが利益です。

また、利益は経済活動の基盤そのものです。生産の拡大に必要な資本設備のための原資です。経済発展とは生産性が向上することですが、そのためには、働く者一人当たりの投資を増大させることが必要です。利益が多ければ多いほど、多くの投資が可能になり、経済は発展します。動揺にも耐え、景気後退からも回復できます。

経済の成長と安定は、雇用の安定のためにも必要であり、社会の健全性と強靱さを保つことにもつながります。そのためには、より大きな利益が必要です。

かつて、土地が資本であるという意見がありました。土地から算出される天然資源が資本の源泉だったからです。しかし、近代技術による産業生産の発展には、天然資源の販売による収入で資本を賄うには不十分です。自然環境を健全に維持するためには、天然資源を思うままに使うこともできません。

したがって、資本の形成は利益によらなければなりません。

さらに、利益は、経済活動の成否を図る尺度です。利益とは経済合理性を意味します。経済活動の評価において、経済合理性に勝る尺度はありません。

社会には、利益をあげようのない社会的活動も数多くありますが、それらの活動に要するコストは、他の経済活動があげる利益によって賄われる必要があります。そうでなければ、社会全体が衰退してしまいます。

以上のように、経済活動において利益は不可欠のものですが、それが理解されていない原因は、ドラッカーによると、社会的な行動に関わる客観的事実としての利益と、人間の主観的欲求としての利潤動機の混同があることです。この混同は、利益の淵源を人間の心理的欲求に求めた古典派経済学から始まったといいます。

この間違いは、静的な均衡の観念の上に理論を築いたことに起因します。均衡において利益はないため、利益を求めることは均衡を崩す外的要因とみなされます。

しかし、利益は発展する経済における本質的要因です。にもかかわらず、静的均衡の理論によって、利益を前提にした経済政策が不可能になっています。利益を心理的欲求に帰するため、経済活動に必要なものとしての利益を確保することを難しくしています。

利潤動機の有効性

利益は、本来、経済活動の客観的な基準です。これを「利潤動機」と言うと、人間の行動と反応に関わるものであり、人間の醜い欲得のようにみなされます。

自由企業体制のもとで、企業は、この利潤動機を満足させるためにマネジメントされているとみなされています。このことで、安定した機能する社会に矛盾するものではないかとの疑念をもたれ、反自然的、反社会的と非難され、利益そのものに対する攻撃につながっています。

もはや、古典派経済学で前提としている利潤動機は無効です。すでに、近代人類学と近代心理学が明らかにしているとおり、人間行動における動機は複合的であり、損得の算術に基づいて行動しているわけではありません。

さらに、経済学では仕事を苦痛ととらえますが、これも間違っていることが明らかです。失業がもたらした心理的、社会的荒廃によって、失業による無為こそが人間にとって苦痛であり、仕事は人間にとって誇りであることが示されました。

このように、利潤動機が人間本来のものではありません。しかし、経済活動の手段としては有効な面があることも事実です。なぜなら、利潤動機が、個々の人間の欲求と自己実現を社会的な目的に結びつけるための手段となり得るからです。

個々の人間の欲求や自己実現の動機は様々です。それを調整して、社会が求める成果に結びつけるためには、組織の原理が必要です。

企業組織では、様々な専門機能をもつ部門に分かれて仕事がなされています。それぞれの部門では、それぞれの論理によって専門性を追求しますが、それを調整しながら、最終的には社会のニーズに合う製品に仕上げていきます。その調整の手段として、利潤動機の有効性が認められます。

経済発展に価値を置く社会であるからこそ、利潤動機は手段として有効です。ですから、経済合理性に意味がない領域では、利潤動機は手段となり得ません。たとえば、芸術活動などです。

利潤動機は支配欲の一つか

利潤動機は支配欲の原因であり、平和と平等への障害であるという説があります。

この説に対し、ドラッカーは、人間の本性には支配欲があるものの、利潤動機はその支配欲の一つの現れであるとします。したがって、利潤動機をなくしたとしても、人間の支配欲がそれ以外の形をとるだけであり、平和で平等な社会が実現されるわけではないとします。

近代人類学によれば、ルソーやマルクスが美化した原始平等の存在は完全に否定されているといいます。個人財産の観念をもたない原始民族は多いものの、そのような原始民族に共産主義体制のようなものはありません。むしろ、原始民族であるかどうかにかかわらず、あらゆる社会に、社会の基盤として、社会的に認められた支配欲の段階があるといいます。

誇り(自尊)こそ人間本来の性であり、社会存立の普遍の原因であると、ドラッカーは言います。したがって、政治の課題は、支配欲を抑制することでも克服することでもなく、社会的に最も建設的に発揮させることです。ですから、支配欲の原因である利潤動機を悪とするのではなく、利潤動機が支配欲の発現として社会的に優れ、社会の役に立たせることができるかどうかが問題です。

ドラッカーは、あらゆる支配欲のなかで、利潤動機が社会的に優れたものであるとみなします。利潤動機は、物に対する支配力によって満足を与えますが、それ以外の支配欲では、直接に人を支配する力と満足を与えるからです。それはむしろ危険です。

利潤動機による物に対する支配力は、経済活動を通じて社会的に建設的な方向に向けさせることができます。

物に対する支配力を介して、間接的に人に対する影響力を行使し、いつしか人に対する直接的な支配力に転化することはあります。例えば、雇用契約は賃金と労働力の交換契約ですが、この契約の想定範囲を超えて、経営者が労働者そのものを支配しようとすることはあります。しかし、法制度等によってそれを抑制することは可能です。

歴史上の独裁者は利潤動機で動いていなかったからこそ、むしろ残忍であったということもできます。例えば、ヒトラーやロベスピエールは、金で買収されるような貪欲な者ではなく、純粋に人に対する支配力にのみ関心があったと言えます。

自由社会は、自らを破滅させることも他者を奴隷化することもなく生きることができる社会です。そのためには、支配欲を社会的な目的に仕えさせなければなりません。経済的な目的を見出す社会ならば、利潤動機がその役を果たすことができます。利潤動機によって社会的に有用な財やサービスを生み出し、消費者がそこに金銭的対価を支払うだけの価値を見出すなら、それが実現できます。

利潤動機は最高のものではなくても、最も危険が少ないものではあります。利潤動機が自由社会を保証するとまでは言えませんから、資本主義が民主主義と同じではありません。自由社会はあらゆる支配欲から自由になることを求めますが、自由企業体制における利潤動機は、少なくとも、政治権力による暴政に対する防備にはなり得ます。

価格を基盤とする市場

利益に対する最も執拗で重大な攻撃は、企業が市場の機関となっていることに自体に向けられています。

しかし、社会は、自由企業体制が市場を通じて果たしている機能を必要としています。社会は財を配分しなければならないからです。そのために、一人ひとりの人間の欲求と行動を、社会的意味のあるものとしなければなりません。経済活動を方向づけし、誤りを正すものが必要です。これらを行うのが市場です。

市場は、価格を経済活動の決定要因とすることによって、この機能を果たします。消費者の経済的欲求によって定まる市場価格に対応して、企業がコストの抑制を図ろうとするところに、経済活動のあり方や生産活動の基準が定まってきます。市場における売買によって得られた対価は、生産活動に従事する人びとに分配され、それが市場における購買力となって循環します。

社会には、経済以外にも大事なものがあり、経済的な必要や満足以外にも責任があります。消費者にしても、純粋に経済的な欲求だけで行動するわけではありません。社会的地位、習慣、伝統、流行など、経済的には不合理と見えるものも判断基準とします。

経済的報酬としての所得も、純粋に生産活動への貢献度だけでは決定されません。地位、権利、役職なども影響を与えます。職業に対する社会的な評価の影響も受けます。

それでも、あらゆる経済活動において基本的な決定要因になっているものは、消費者の購買力であり、それを行使する場が市場です。したがって、市場は、財の配分と生産活動の統合という2つの役割を果たしていることは間違いありません。

このような市場に対する批判として、ドラッカーは2つをあげて議論します。一つは、市場は価格という経済的基準を絶対視するがゆえに社会を破壊するという批判です。もう一つは、市場は個人の経済的欲求を絶対視するがゆえに社会を破壊するという批判です。

現代は、経済的目標を至上とする物質主義的な時代ですが、これが最高のものであるとは言えません。しかし、代わりに据えるべきものがなければ、批判しても意味がありません。理想は重要ですが、政治においては、可能なものから最もよいものを選ぶしかありません。

ヒトラーは、脱経済至上主義を標榜し、その代わりに戦争しかもってくることができませんでした。何を至上目標にするにしても、社会をまとめ、財を配分するという仕事は必要です。戦争よりは経済発展のほうが、社会的に建設的であり有益です。

経済発展が社会的によいことであると認められるなら、価格も社会的に前向きであることを認めなければなりません。価格調整を認めないなら、政治的な命令によることになります。それは計画経済ですが、社会主義の計画経済でも、通常、国家が価格を定めます。

もう一つの批判は、自由企業体制は集団のニーズを個人の欲求に従属させるがゆえに反社会的であるとするものです。市場は元々、個々の消費者が消費する場です。個々の消費者の欲求を満足させるために、様々な企業が活動しています。それが自由企業体制です。

これを間違いとする者は、計画経済をもってこれに代えるべきであると主張します。ドラッカーによると、計画経済が万能薬として魅力あるものに見えるのは、責任ある決定の負担をなくしてくれる自動的な仕組みをもとめているからです。

このような発想は、経済の領域だけでなく、国際政治や国際機関においても見られます。責任、思慮、決定の負担の除去を求めたハーバート・スペンサーの焼き直しであり、このような考え方こそ、自由社会への脅威です。自動的で無謬のシステムとは圧制のことです。

計画経済は、偉大な指導者による絶対支配または官僚支配の要求です。それは市場への攻撃ではなく民主主義への攻撃です。産業社会は民主主義政府をもつことができないと言っているのと同じです。

自由企業体制は、社会が一人ひとりの人間の理想、欲求、ニーズを満たすための道具であるという個人中心の側面をもちます。同時に、個人が社会のために存在するという社会中心の側面もあります。いずれの側面も人間には必要です。大事なことは両者の均衡です。ですから、計画経済信仰も自由市場信仰も、いずれも間違いです。

社会の要求と個人の欲求の調和

社会的ニーズには、市場が満たすことのできないものがあります。それは、個人のニーズや欲求が意味をもたない領域です。典型は、正義と秩序の維持に関わる領域です。さらに、個人のためになされる社会的な施策です。

これらの領域の選択において問題が起こることは通常ありません。重要なことは、決定、実行、機関であり、国民の参画が不可欠であるということです。

経済政策上の問題は、社会の安定のために市場の機能に一定の制約を必要とする場合です。

市場にあるものはすべて財であり、それらが生産に用いられる場合はすべて生産要素になります。しかし、労働力、土地、設備、資金を財扱いすることはできません。労働力は人間であり、土地や設備は人間の生活環境でもあります。資金は人間と資源を結びつけるものです。

これらのものはすべて社会の存続のために維持されなければなりません。市場がこれらを破壊することは許されないので、市場の働きに一定の制約が加えられます。労働と雇用の規制、婦女子の労働規制、資源の保全、貧民街の再開発、麻薬取引の禁止などです。

特に重要な問題が、経済変動が社会にもたらす影響を防ぐことです。社会には安定と確実性が必要だからです。

例えば、トラクターの導入によって多くの農業労働者が働き口を失いました。産業の消失によって多くの工場労働者が働き口を失いました。働き口を失った労働者は、家族、住居、友人などによって土地に縛られているため、直ちにどこかに移動できるわけではありません。

だからといって、トラクターの導入をしなければ、低生産性によって農業そのものが競争力を失い、衰退する可能性があります。その地域に工場を残すことによって、その企業全体が危険にさらされるかもしれません。

したがって、経済的な変化がもたらす社会的な影響を処理するためには、市場を制約しながらも、市場を機能させることが必要です。

市場を制約するには、市場の機能と限界を知らなければなりません。経済に関わる政治的な行為は、価格という経済合理性の尺度によって評価されます。市場という尺度があれば、たとえ困難であっても、変化の影響を調整しつつ、漸進的な政策を定め、進めていくことができます。

市場は、無数の消費者が行う意思決定の集合体です。一人ひとりはさまざまな間違いを起こすかも知れませんが、多様な行動が全体として急激な変化を打ち消すことができます。

これに対し、経済計画の専門官のような少数の独裁的意思決定者が運営した場合、経済は激しく変動し、破局のリスクに常にさらされることになります。

市場を制約する社会政策を定めるためには、共通の尺度としての価格とコストが必要です。これらによって、社会政策が経済に与える影響も知ることができます。社会の成員が生存を続けるためには、資源の有効利用が必要です。

自由ならざる社会

価格を基準にすることは、必ずしも市場を不可欠とすることではありません。なぜなら、社会主義国家でも価格を基準に経済政策を決めているからです。ただし、その価格は消費者が市場で決めているわけではありません。また、市場競争による価格が、常に信頼性が高いとは言えません。

重要なことは自由社会であることです。経済に関わる決定が、一人ひとりの人間の経済上の欲求すなわち市場によって行われることこそ、経済至上主義のもとにおける自由です。自由社会であるために、市場が必要です。

もちろん、個人の利己心と社会の利益がそのまま一致することはありません。しかし、市場においては、個人の利己心を否定するのではなく利用することによって、社会的な有用性を与えることができます。その結果、自由な社会には、この欲求と社会の要求の対立に起因する摩擦は少なくなります。

市場が自由な経済社会を可能とするがゆえに、社会の安定と存続の双方に寄与することができます。経済的な行動の基準としての経済合理性、すなわち「価格」が存在しなければ、経済社会もまた存在することができません。

社会的な必要から価格と市場の領域を制限することはあり得ますが、その制限は、行政的な統制や決定ではなく、市場を自由に機能させる限界の設定にとどめる必要があります。

その限界がどこにあるかは議論があって然るべきですが、市場には、機能するに十分な領域を与える必要があります。市場の働きへの影響とともに生産活動の効率を睨みつつ行うことことが大切です。