歴史上の断絶

ドラッカーは『断絶の時代』において、主として1973年頃に歴史の境界を越え、断絶の時代に入ったことを告げ、そこで起こった4つの断絶について詳しく説明しました。

1989年には、本書の続編である『新しい現実』を出版し、断絶の時代が約20年にわたって生み出してきた変化について述べるとともに、1973年以前に起こった歴史上の断絶についても、中世にまで溯って概観しています。

中世の時代

中世(476年の西ローマ帝国滅亡頃〜1453年の東ローマ帝国滅亡頃)の時代まで遡ると、ヨーロッパを支配していたのは「信仰による救済」であったといいます。

その後衰えを見せた「信仰による救済」は、16世紀の宗教改革によって再び力を得たものの、17世紀の半ばには力を失ったといいます。

信仰そのものが失われたわけではありませんが、政治的な権力とは区別されるようになり、信仰は個人の問題となっていきました。

宗教的迫害が姿を消すには19世紀の半ばまで待つ必要がありましたが、信仰が神の国を地上につくるという思想は、少なくとも政治的な原理としては、その100年前に姿を消したと言えます。

「社会による救済」の登場

「信仰による救済」を埋める形で登場してきたのが「社会による救済」です。18世紀の啓蒙運動の時代を経て、同世紀中頃に出現しました。

「社会による救済」とは、「地上の政府がつくり出す社会秩序によって救済が実現される」とする考え方です。政府が経済を支配し、社会を指導します。

ドラッカーによると、これを最初に唱えたのはルソー(1757年〜1826年)です。それを政治思想にまとめたのはベンサム(1748年〜1832年)であり、科学的な理論として体系づけたのがコント(1798年〜1857年)とヘーゲル(1770年〜1831年)でした。

さらに、そこからマルクス(1818年〜1883年)が生まれ、レーニン(1870年〜1924年)やヒトラー(1889年〜1945年)、毛沢東(1893年〜1976年)が生まれました。

自由主義の台頭

しかし、政治的には、アダム・スミス(1723年〜1790年)が1776年に出版した『国富論』により、先に自由主義(自由放任)が台頭し、政治の基本理念となりました。

自由主義は約100年間にわたって続きましたが、1873年のウィーン株式市場の恐慌をもって終わり、「社会による救済」があらゆる国で政治の中心となり、進歩的理念とされる100年間が続きました。

1873年の境界

「社会による救済」の台頭

1873年の恐慌自体は短期間で終わり、1年半後には欧米の経済は完全に立ち直ったのですが、ヨーロッパ大陸における政治の基本理念としては、マルクス社会主義と反ユダヤ(国家)社会主義が自由主義に取って代わることになりました。

マルクス主義と反ユダヤ主義は、自由経済とブルジョア民主主義に敵意を抱く点では同じでしたが、働きかける先が異なっていました。前者が資本主義下の工業労働者に働きかけたのに対し、後者は伝統的に反資本主である農民や小商人に働きかけました。

1880年代から、マルクス社会主義と反ユダヤ「国家」社会主義は、それ以前までの政治的主流であったブルジョア的自由主義の継承権をめぐって相争いましたが、後にスターリン(1878年〜1953年)において合体することになります。マルクス社会主義の失敗を自覚していたスターリンは、反ユダヤ主義を利用して社会主義と共産党を活性化させることにしたのです。

「社会による救済」が最初に具体的な政策として結実したのは、1883年から1888年にかけてドイツのビスマルク(1815年〜1898年)がつくった国民健康保険制度と老齢年金保険制度です。福祉国家のはしりになります。

同じ頃に、他の国でも、雇用主への規制、農民救済など、自由市場への制約が加えられるようになりました。

1880年代末には、アメリカで、反企業的な政治運動、すなわちポピュリズムが生まれ、証券市場、農産物価格、労働時間、賃金に対する政府規制を求めました。ポピュリズムは、1900年前後には、電力、ガス、市電などの公益事業を公営化していきました。

1894年に、ユダヤ人のフランス陸軍砲兵大尉、アルフレッド・ドレフュス(1859年〜1935年)が、捏造によってドイツのスパイとして有罪判決を受け(ドレフュス事件)、反ユダヤ主義の爆発がはじまりました。彼の無実は周知でしたが、全体主義が広がり、その事実はかき消されました。全体、党、国、アーリア人種の絶対視です。

10年後にドレフュスの名誉が回復されたとき、レーニンはすでに、党を支持し、強化し、発展させるものだけが真理であるという思想を、一つの政治哲学として確立していました。全体主義政権はすべて、この政治哲学を信奉しました。

そして、1917年にロシア革命が起こり、世界初の社会主義共和国であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が誕生しました。

1873年に始まる100年間において、「社会による救済」は当然であり、一般的でした。集団的な力が、完全な社会、あるいは完全に近い社会をつくれると考えており、それを担うのが福祉国家でした。社会主義者を含めて圧倒的多数の政治思想家たちが、私有財産廃止をはじめとする諸々の社会政策が人間を根本的に変え、新しい種類の社会をつくれると信じていました。

思想の違いは、手段の違いでした。変化をもたらす早さや方策の違いでした。つまり、具体的な論争の焦点は、次のいずれかの選択の問題でした。

  • 民主的かつ法的な制約の下で、政府と政府による経済・社会の方向づけを行うこと(民主的福祉国家)
  • 政府に対し、無制限かつ絶対的な支配権を与えること(全体主義国家)

「経済的利害の連合」による政治

1890年以降、アメリカを中心に、もう一つの政治原理である「経済的利害の連合」すなわち「経済的な身分階層の統合」による政治が存在していました。

1896年の大統領選において、当時アメリカで力を得つつあったポピュリズムに対抗して、政治家マーク・ハナ(1837年〜1904年)が提唱しました。経済的利害集団(経済的身分階層)を、「繁栄」(経済発展)という名の共通の利害のもとに統合しようとしたものです。

ドラッカーによると、マーク・ハナこそ、政治史における真の革新者です。彼は、アメリカの政治をイデオロギーから切り離すことに成功しました。

「経済的利害の連合」を完成させたのが、フランクリン・ルーズベルト(1882年〜1945年)でした。政府を、農民・労働者・実業界の力を均衡させる存在とし、政府の力が社会的な均衡を維持しました。

戦後日本の政府もまた、「経済的利害の連合」に基盤を置いているといいます。

しかし、今ではすでに時代遅れのものとなりました。

第一の理由は、経済的に見て、利害集団そのものが、独立した階層としての存在でなくなりつつあることです。農民にせよ労働者にせよ、利害集団としての規模や政治的重要度は、大幅に後退しています。

第二の理由は、これらの集団が、社会的に見ても独自性のある存在ではなくなっていることです。彼らに政治的団結と統一性を与えたものは、実のところ、経済的な共通の利害ではなく、生活文化でした。経済的に結びついていたというよりも、独自の価値観とライフスタイルで社会的に結びついていました。それらの結びつきを「経済的利害」という合言葉で表現していたにすぎませんでした。

今日、そのような価値観やライフスタイルは、ほとんどなくなってしまいました。違う階層であっても、同じような生活をしています。

第三の理由は、多数派となった知識労働者が、利害集団の概念に馴染まないことです。知識労働者は組織で働いていますが、プロレタリアートではありません。年金基金を通じて、また、本質的な生産要素である知識の所有を通じて、実質的な資本家の立場でもあります。収入の多寡はあっても単一の階層と言えます。

1973年の境界

次の境界は、ドラッカーによると、1965年ないし1973年です。政府が進歩を意味する時代の終わりです。

民主党リベラル、社会民主主義者、マルクス社会主義者、国家社会主義者の思想と政策が終わった年でした。これらの思想自体は、今でも生き残っているように見えますが、政治スローガンが政治の現実よりも長生きするのは常です。

「社会による救済」は共産主義諸国において大失敗し、自由主義諸国でも失敗しました。1950年代以降、政府プログラムで成功したものは一つもないといいます。最後の成功例は、イギリスで1946・47年度に成立した国民健康保険制度ですが、赤字は深刻です。

さらに重要な変化は、「社会的な問題に唯一の正しい答えがある」とする考えに疑問が呈されるようになったことです。社会およびその問題は複雑なものばかりですから、複数の答えが必要です。いずれも万能の答えではないため、唯一の答えとはなり得ません。

「社会による救済」の終わりは、過去200年間におけるもっとも普遍的な夢であった大革命の神秘の終わりも意味しました。

大革命とは、救世的な大変化をもたらし本当に社会をよくすることのできる革命であり、救世主の再臨にも相当するものでした。この幻想を最初に抱いたのは、1789年に始まったフランス革命です。

政治思想の変化によって、政府の規模が小さくなったり、政策の種類が少なくなったりするるわけではありませんが、政府の役割と機能、究極的な目的が変わります。

世界の「西洋化」と「非植民地化」

ドラッカーは、1873年の歴史の境界に少し先立って、歴史的に重要な事件が2つ起こり、世界の流れを決定づけていったことを指摘しています。

一つは、1857年の「セポイの反乱」(インド人傭兵のイギリス支配に対する反乱であり、現在は「インド大反乱」と呼ばれることが多い。)と1867年の「明治維新」です。

ドラッカーによると、前者は世界の「西洋化」を決定づけ、後者は「非植民地化」を決定づけました。

セポイの反乱

セポイの反乱では、反乱軍が西洋化を止めようとし、支配者イギリスは敗北寸前でしたが、結局、失敗に終わりました。失敗の原因は、ドラッカーによると、イギリスを追い出した後に据えるべきものが何もないことを覚ったからです。これにより、西洋の技術、体制、産業、科学、教育による全世界の制覇が確実なものとなったといいます。

これ以降、西洋による猛烈な植民地獲得競争が開始されました。

明治維新

長い鎖国状態にあった日本は、1867年の明治維新で、やむを得ず西洋化を受け入れることを決意しました。ただし、日本が違っていたのは、西洋化のプロセスと、西洋化後の政治、社会、経済、技術に対する支配権をあくまで自国が死守することを決意したことでした。

植民地化による西洋化ではなく、自立のための西洋化でした。

日本は先の大戦に敗北しましたが、結果的に西洋をアジアから追い出しました。アフリカの植民地の解放にもつながりました。解放された国々は、日本をモデルにして、自立のための西洋化を進めました。

本書の執筆時点で植民地大国であったソ連では、ゴルバチョフ(1931年〜)のペレストロイカ(「再構築」あるいは「再革命」)が始まっていました。ドラッカーは、遅くとも25年後にはソ連は崩壊し、ペレストロイカがうまく行くほど崩壊は早まると予言していました。

ソ連は、結局、本書が出版されて2年後の1991年に崩壊しました。ペレストロイカは、リストラクチャリングやリコンストラクションに相当し、行政、産業、企業などの構造改革を意味します。これが社会主義を崩壊させることにつながりました。これもまた西洋化であったと言えそうです。