シュムペーターとケインズ

シュムペーターとケインズは、20世紀の二大経済学者であり、1883年生まれの同い年です。

経済学の世界で与えた影響と評価は、圧倒的にケインズが大きいようですが、ドラッカー曰く、経済理論や経済政策の基本的な方向づけを行い、問題を明らかにするのは、シュムペーターのほうです。

ここでは、ドラッカーから見たケインズとシュムペーターについて紹介します。

シュムペーターとケインズの間柄

2人は反目した関係ではなく、互いに認め合う間柄であったようです。

シュムペーターは、ケインズの答えがことどく間違っているとしましたが、理解ある批判者であり、現にアメリカにおけるケインズの地位を不動にしたのも、シュムペーターであったといいます。

2人とも、長年にわたって認められてきた学説であるオーストリア学派の新古典派経済学に挑戦した点で共通していました。

政治的な立場

一般的には、2人は政治的に対象的な存在とされ、シュムペーターは保守的で、ケインズは進歩的であると評価されているようです。

しかし、ドラッカーは、むしろ逆であると評価しています。

ケインズは、自由市場に対する強い愛着をもち、自由市場からの政治家や政府の排除を望んでいた点で、新保守派にきわめて近いといいます。

シュムペーターは、自由市場に対して強い疑問を抱いており、むしろ理性ある独占にこそ大きなメリットがあると考えていました。

理性ある独占は、短期の利益を求める個々の取引に左右されることなく、長期的な観点に立つことのできる余裕があると考えました。

また、シュムペーターは社会主義者ではありませんでしたが、マルクスの弟子を自認し、経済学者のなかではマルクスをもっとも尊敬していたといいます。

マルクスの答えもことごとく誤りであると評価していましたが、問題提起自体は正しかったと考えました。

ケインズの理論基盤と答え

ケインズは古典派経済学を捨てましたが、考え方の枠組みは古典派経済学とまったく同じであったといいます。ケインズにとっての経済学は、リカードが理論化した「均衡経済学」でした。

ケインズにとっての経済学の中心的問題は、「実物経済(財やサービス)」と「シンボル経済(貨幣や信用)」との関係でした。また、「ミクロ経済(個人や企業のレベル)」と「マクロ経済(国レベル)」との関係でした。さらに、「供給(生産)」と「需要(消費)」のいずれが経済を動かす力となるかということでした。

19世紀の経済学者のほとんどは、これらの問題に対して同じ答えを出していました。

実物経済が支配しており、貨幣は実物のベールに過ぎません。また、ミクロ経済が決定要因であり、政府はせいぜい僅かな調達を行うに過ぎず、最悪の場合は混乱を生む存在です。さらに、経済を動かす力は供給であり、需要は供給の関数です。

ところが、ケインズの答えはまったく逆でした。

シンボル経済が実体であり、実物経済はシンボル経済に依存するとしました。また、マクロ経済がすべてであり、ミクロ経済がマクロ経済に対抗する力はないとしました。さらに、あらゆる経済現象は需要の関数であるとしました。

シュムペーターは50年以上前に、このようなケインズの理論がことごとく誤りであると指摘しました。

歴史的にも、その誤りは知られており、特殊なケースに対して、しかもかなり限られた範囲内においてのみ当てはまるに過ぎないといいます。

例えば、ケインズは、貨幣的事象(財政赤字、利子、信用供給量、通貨、流通量など)が需要を決定し、それに伴い経済そのものの状態を決定するとしました。

この定理では、貨幣の流通速度は一定であり、短期的には個人や企業によって左右されることはないと仮定されています。

しかし、現実の現象では、個人や企業は、何の前触れもなく突如、ほとんど一夜にして、貨幣の流通速度そのものを変えてしまったといいます。ケインズ的政策は、ことごとくミクロ経済によって挫折させられてきたといいます。

つまり、個人や企業は、いかなるシステムをも打ち負かすことができるということです。

ケインズの流れをくむ経済理論(マネタリズムやサプライサイド経済学など)は、政府支出、金利、通貨供給量、あるいは減税など、諸々の経済要因のうちの一つを中心に据え、予測可能な確実性の高い経済運営を図ろうとしますが、現実には不可能であるといいます。

シュムペーターが指摘したケインズの根本的誤り

シュムペーターは、ケインズが出発点とした仮定そのものに根本的な誤りがあったと指摘しました。その仮定とは、均衡経済を健全かつ正常な経済とみなすものです。

シュムペーターにとって、経済とは閉鎖的な体系ではありませんでした。経済とは絶えず成長変化するものであり、その本質において、生物学的なものでした。

経済学の中心的問題は、均衡ではなく構造変化であるという主張が出発点でした。これが、イノベーターを経済学の真の主役と位置づける理論につながっていきました。

イノベーションとは、資源を古い陳腐化した利用から新しい生産性の高い利用へと移すことです。イノベーションを生み出す企業家精神こそが、経済学の本質であると主張しました。

しかし、古典派経済学もケインズも、イノベーションを経済学のシステムの枠外に置きました。経済に重大な影響を及ぼしはするものの、地震や気象、戦争などの大事件と同じ部類に属するものとしました。

利潤に関する考え方の違い

イノベーションの位置づけの違いによって、利潤に対する考え方もまったく異なるものとなりました。

古典派経済学は閉鎖型経済システムの均衡経済学であり、利潤の存在理由や正当化の根拠を説明することができません。

利潤はリスクを引き受ける者に対する動機(「利潤動機」)として必要であるとされますが、これでは、利潤は一種の賄賂です。道徳的に正当化されません。

だからこそ、マルクスは、資本家を邪悪で不道徳な存在であるとみなしました。マルクスの考えによれば、利潤は労働者から搾取した余剰価値です。

ケインズも、何の機能も果たすことない余剰である利潤を最小限にとどめるために、どのように経済を構築すべきかということに悩みました。

ところが、シュムペーターの考えによれば、真の利潤を生み出す者はイノベーターだけです。資源を古い陳腐化した利用から新しい生産性の高い利用へと移すのがイノベーターだからです。そこからしか利潤は生まれません。

イノベーションは創造的破壊であり、古い資本設備と資本投資を陳腐化させます。経済が進歩すればするほど、ますます資本形成と生産性向上が必要になってきます。イノベーターの利潤は短命なのです。

ですから、利潤は、本来的には、未来に向けた資本形成のために投資し続けるべきものであり、企業存続のための費用です。利潤は労働者の職場と所得の唯一の源泉です。

こうなれば、利潤は道徳的で必要不可欠なものになります。「資本形成は、将来の費用、企業存続の費用、創造的破壊の費用を賄うために十分か」が問題になります。

これがシュムペーターの経済モデルであり、経済政策の出発点として利用する価値のある唯一のものです。

経済理論と経済政策の基本問題は、「急速な技術の変化と雇用を可能とするために、どのようにして資本形成と生産性を維持していくか」、「将来の費用を賄うために、最小限どのくらいの利潤が必要か」、「職場の維持と創出のために、最小限どのくらいの利潤が必要か」ということです。

シンボル経済の支配に対する考え方の違い

シュムペーターは、第一世界大戦中に、誰よりも早く、経済の実体の変化に気づきました。実物経済に代わって、シンボル経済が本当の経済となってしまったことです。

交戦国が次々と、課税や借入を通じて、社会に存在する富のことごとくを動員していきました。ドラッカーは、これを「経済を貨幣化する」と表現しています。

この状態を見て、シュムペーターは、「今後は通貨と信用が経済を支配することになろう」、「財政赤字、通貨、信用、租税が、経済活動と資源配分の決定要因になろうとしている」と指摘しました。

ケインズも、10年ほど遅れて、同様の洞察に至ったといいます。

しかし、そこから導かれる結論は、ケインズとシュムペーターではまったく異なっていました。

ケインズは、シンボル経済の出現によって、財政支出、利子、信用量あるいは流通通貨量など、ごく僅かの単純な貨幣的手段を利用することによって、完全雇用と、経済の繁栄と安定を伴う永続的な均衡状態を維持することができると考えました。

それは科学的な経済学であり、これができる「経済学君主」の登場が可能になったと結論づけました。

しかし、シュムペーターは、シンボル経済が支配的経済になったことで、専制君主を招くに至ったと結論づけました。

経済学者が、その支配権を純科学的に活用できるような、無謬な君主となることはあり得ず、必ず、政治家や将軍がそれを行使して経済を支配するであろうと考えました。事実、そうなりました。

租税国家に対する考え方の違い

シュムペーターは、シンボル経済の支配に気づいたのと同じ頃、『租税国家の危機』を著しました。

近代国家は、課税と借入のメカニズムを通じて、所得を移転する力を手にするとともに、移転的支出を通じて国民生産物の配分を支配する力を手にしたことを論じました。

ケインズも、遅れること15年、同様の洞察に至りました。

しかし、そこから導かれる結論は、再び異なっていました。

ケインズにとって、この国家の力は、社会的公正と経済進歩、経済的安定と財政的責任を達成するための魔法の杖でした。

しかし、シュムペーターにとっては、インフレに対するあらゆる経済的防御措置を排除してしまうために、政治的無責任をもたらすものでした。

以前までは、国家が課税したり借り入れしたりできるのは、国民総生産のごく一部であるという前提がありました。歳入に応じた歳出が前提でした。このことがインフレを防御する圧力になっていました。

ところが、租税国家になって、政治家が考える「必要性」に応じて課税と借入を行うことができる力を手にしてしまったため、歳出に応じて歳入を決めたり借り入れたりするという考え方に変わってしまいました。

インフレの抑制は、政治家の自己規制のみに頼らざるを得なくなりました。シュムペーターは、政治家の自己規制にはきわめて悲観的でした。

資本主義崩壊の予言

シュムペーターは、1942年に『資本主義、社会主義、民主主義』を著しました。このなかで、「資本主義は、自らの成功のゆえに崩壊するであろう」と論じました。

資本主義の成功は、官僚、知識人、教授、法律家、ジャーナリストなどの新しい階級を生み出します。

この人たちは皆、資本主義の経済的果実の受益者であり、寄生者であるにもかかわらず、資本主義に必要な富の生産、貯蓄、経済的生産への資源配分に批判的であるとしました。

まさにそのとおりのことが起こり、今でも起こっています。

さらに、「資本主義は、自らの誕生に手を貸し、実現を可能にした民主主義そのものによって崩壊させられるであろう」と予言しました。

民主主義では、政府が人気を得るために「租税国家」になり、生産者から非生産者に所得を移転し、将来の資本となるべき貯蓄を消費に向けさせることになるからです。

このようにして、民主主義のもとにある政府は常に増大するインフレ圧力のもとにあり、やがて民主主義と資本主義の双方を破壊することになると指摘しました。

ケインズ学派は、「経済学君主が、通貨、信用、歳出、租税などの支配を通じて、恒久的に安定した経済の完全均衡を保証する」と約束していました。

その傍らで、シュムペーターは、政治的な自由と、経済的な成果と変革を可能とするために、どのようにして公的部門をコントロールし、制約するかという問題にますます悩まされるようになったといいます。

短期的政策の長期的影響

ドラッカーは、現代の政治、経済学、企業活動における極端に短期的な見方は、アメリカの政治と経済における政策決定者の最大の欠陥であると指摘します。

このものの見方に対して、ケインズには大きな責任があると指摘します。短期の最適化が長期的に正しい未来をもたらすという考えは、完全な誤りであるといいます。

シュムペーターも、政策というものは短期に焦点を合わせなければならないことを知っていました。同時に、短期的な政策が長期的な影響をもつことも知っていました。

だからこそ、短期的な意志決定がもたらす長期的な影響について、徹底的に考えようとしないのは無責任であり、誤った意志決定を招きます。

完全投資予算のすすめ

ケインズの理論基盤は、あらゆる経済現象を消費者需要の関数であると考えるものです。消費者需要が、自動的に、かつ十分な信頼性をもって投資と雇用を創出するという考え方でした。

ドラッカーによると、このケインズの考え方は実証されませんでした。むしろ逆であり、消費をあげるためにとった政策は、資本形成の極端な落ち込み、投資の減少、生産性の低下、失業問題の悪化を生み出すこともあったといいます。

日本が高度経済成長を遂げた時期にあっては、資本形成が経済政策の中心でした。その結果、世界最高の貯蓄率、高い投資水準、生産性の向上、高水準の雇用が達成され、そのうえで高水準の消費も実現されました。

ところが、オイルショックをきっかけにして、日本でも財政赤字を増加させながら消費を刺激する政策を行った結果、資本形成は低下し、生産性の上昇も鈍化しました。

消費者需要を自動的に資本と投資に転換する乗数は存在しません。

産業を高度化するために必要な資本はますます大きくなっています。必要な資本投資を満たすための経済政策を定めることこそが重要です。

アメリカのケネディ政権では、完全雇用予算という考え方がありました。ケインズの考え方を基にして、失業率を理論的な完全雇用の水準まで引き下げるのに要する追加的消費者需要の額を算出しようとするものです。

この額を満たすために、政府の超過支出によって消費者に必要なだけの個人所得と購買力とを与えようとしました。

確かに、購買力は創出されましたが、投資を創出することはできませんでした。

ドラッカーが必要であると指摘するのは、完全雇用予算ではなく「完全投資予算」です。消費者需要を刺激するあまり、資本形成や貯蓄や投資を処罰するようであってはいけません。

完全投資予算でも、雇用機会の計算から出発します。今後3~5年の間に創出すべき雇用機会およびその種類を特定します。そして、そのために必要な投資を算定します。

次に、必要としている投資と、現実に行われている投資のギャップを知る必要があります。また、特定の経済政策、税制、あるいは金融政策が、資本形成に対してどのような効果をもっているかを確認しなければなりません。

高学歴社会においては、多くの若者は知識労働者で働くことを求めます。知識労働のための雇用機会をつくり、知識労働が生産的になるために必要な設備を揃えなければなりません。

知識労働のための資本投資は、肉体労働のそれに比べて、相当程度高額にのぼることを理解しなければなりません。