リチャード・ルメルト(Richard P. Rumelt)は、戦略論と経営理論の世界的権威で、ストラテジストの中のストラテジストと評されています。
この記事では、『良い戦略、悪い戦略』(GOOD STRATEGY, BAD STRATEGY)および『戦略の要諦』(The Crux: How Leaders Become Strategists)を基に、ルメルトの戦略論を概説します。
四半期ごとに企業収益のコンセンサス予想が発表されます。投資家向けに期首に利益予想(ガイダンス)を公表し、株式市場と企業経営者が、公表された数字に注目します。ルメルトは、このサイクルを「90日ダービー」と呼びます。
企業の業績がコンセンサス予想通りだったか、上回ったか、下回ったか、ということは、重要関心事です。
コンセンサス予想が浸透するにつれて、多くの企業が予想通りの利益を上げるようになりました。
90日ダービーの罠にはまったCEOは、ガイダンスの作成と、そのとおりの業績を上げることに多大な時間とエネルギーを費やします。経理や財務の報告に注意が集中し、短期的な予想利益の確保に血道を上げることになります。これには重大な問題があります。
90日ダービーの問題
第一の問題は、現在の利益は過去の投資や行動がもたらした収穫であって、時には何世代も前だったかもしれないということです。
現在の利益は、ほぼ間違いなく過去の賢明な判断、幸運、戦略に由来します。現在の投資や費用は、将来の利益となって実を結びます。
第二の問題は、現在の利益は企業価値(時価総額)を決定づける要因ではないということです。企業価値は、将来の配当など株主にもたらされる将来利益に左右されます。
将来利益は債務不履行リスクなどに応じて下方修正され、望ましい買い手による買収の可能性に応じて上方修正されます。
企業価値が表すのは将来ですから、直近の四半期業績が企業価値を表す指標として信頼できるとは言い難いことになります。
第三の問題は、企業の本当の価値は分かりにくいということです。株価は真の価値の不確実な推定値でしかありません。
有名投資家であるウォーレン・バフェットも、金融市場が短期的な業績にこだわり過ぎていることに警鐘を鳴らし、その火付け役となった90ダービーを問題視しています。その結果、長期投資はおろそかになり、技術への投資、雇用、研究開発を後回しにすると言っています。
実際のところ、予想というものは、企業にはどうすることもできない要素、例えばコモディティ価格や株式市場の変動、さらには天候にさえ影響されます。
第四の問題は、ダービーの重圧を常に受けている経営陣が、浪費的な決断を下しかねないことです。企業の真の価値を左右するような戦略的課題から経営陣の注意を反らせてしまう可能性があります。
株主価値とインセンティブ
企業の経営陣や管理職は株主価値を最大化すべく努力しなければならないという主張は、ハーバード大学のマイケル・ジェンセンが提唱したエージェンシー理論から着想されました。
企業経営者は株主のエージェント(代理人)であり、プリンシパル(依頼人)である株主は、配当を出さずに無用のプロジェクトに投資する経営陣によってしばしば損失を被ってきたとみなされました。
株主価値と投資リターンを高めることが企業の歩むべき道を照らす北極星であり、株主と経営者の利害が一致するようなインセンティブを設けない限り、経営者は怠けたり自己利益優先の決定を下したりするとされました。
エージェンシー理論の欠陥は、インセンティブだけがすべてだと仮定しているところにあります。決定的に重要な問題が浪費や怠惰だけであれば、インセンティブで解決できるかもしれません。
インセンティブは注意を喚起し、意欲を高めることはできても、何をするかまで決めることはできません。
インセンティブによって、課題の診断や優先順位の決定といったことをうまく行わせることはできません。ボーナスをはずむことで戦略を立てる能力を伸ばすことはできません。
経営陣に示されるインセンティブは、ボーナス、株式の付与、ストックオプションといった形をとることが多いです。役員報酬を財務実績ではなく株価に連動して決めるというのが近年の流行です。
オプションとは、ある資産を将来の特定時点に特定価格(行使価格)で買うまたは売る権利のことです。オプションの利点は、権利を行使する義務がないことです。
ストックオプションは、特定の価格(行使価格)で株を購入する権利を付与します。行使価格よりも実際の株価が高ければ、権利を行使して株を安く購入し、直ちに市場価格で売れば、差額が利益になります。行使価格よりも実際の株価が安ければ、権利を行使する必要はありません。得はしませんが、損もしません。
つまり、ストックオプションで、経営者を株主と同じ立場に立たせることはできません。株主は値下がりリスクを引き受けますが、ストックオプションは値下りリスクを回避できるからです。
ルメルトによると、業績連動型報酬と企業業績の関連を調べた研究では、強い相関性は認められないといいます。株価が上がれば、上がった理由いかんにかかわらず経営陣の報酬も上がりますが、両者の因果関係を解明するのは容易ではありません。
個別銘柄の値動きの30%は市場全体の動向で説明できるといいます。要するに、市場が好調であれば、競合他社を出し抜かなくても、経営陣は大幅な報酬アップが期待できるわけです。
株主価値を目標に掲げることの根本的な問題は、どうやってその目標を達成するかが経営陣には分からないことです。経営陣の行動と株価との間に確実性の高い関係が認められないからです。
将来の収益予想が上向きであれば株価は上がるに違いありませんが、将来の予想(投資家の期待)を高める要因は何なのかが分からなければ意味がありません。
90日ダービーの罠を脱するために
CEOの金銭的インセンティブを投資家の利害と一致させる一つの方法は、CEOが長期株主になることです。
契約時に、CEOの重要な資産となる程度に十分な数の株式を与えますが、条件としては、CEOが直接株式を保有することであり、7年間は譲渡できないようにします。
そうすれば、CEOは短期の利益に一喜一憂する状況に比べ、企業価値を高めるような健全な判断を下す可能性が高くなります。
90日ダービーの重圧を減らすもう一つの方法は、会社の応援団を賢く編成することです。経営陣の応援団は、取締役会、年金基金や投資信託などの機関投資家、好意的なアナリスト、一般投資家です。
投機家は応援団ではありません。企業価値など眼中になく、むしろ株価の乱高下に大いに責任があるからです。長期的な価値創造を目指す会社の方針や姿勢や能力を信頼してくれる応援団が必要です。
応援団には、経済は不確実であり良いときもあれば悪いときもあること、株価にはノイズが紛れ込みやすいこと、長期的な価値を築くには時に実験的な試みも必要で、それは必ずしもうまく行くとは限らないことを繰り返し発信し、理解を求めます。
企業はこの先数十年維持できるような価値の構築を目指しており、目先の利益を求めるなら他の投資先を探すように助言します。新しい価値の創出はそう簡単ではありません。もし年々着々と業績が伸びているように見える会社があるなら、誰かが数字を誤魔化すか、水増しをしているのです。
キム・リシンらが2017年に発表した研究によると、企業が90日ダービーをやめたら、応援団は長期投資家にシフトしたといいます。
長期的なビジョンに賛同を得たいなら、企業経営をよく理解していて、四半期あるいは1年間の業績よりさらに先を見通せる人物で取締役会を構成することが必要です。投資銀行や証券会社の人間は相応しくありません。
アマゾンのジェフ・ベゾスは、株主への手紙の中で、決算報告の見栄えをよくするよりも、キャッシュフローの現在価値を最大化するほうを選ぶと言いました。また、長期を見通して考えることは、われわれの既存の能力を高め、短期思考では思いつかなかったような新しい取り組みへと向かわせてくれると述べ、長期を見通す姿勢は、顧客を第一に考える姿勢と相性がよいとも述べました。
テスラのイーロン・マスクは、一時期、株式の非公開化を目指したことがあります。なぜなら、株価の大きな揺れに影響される状況に置かれていたからでした。このことは、全員が株主でもある社員の心を乱す大きな要因になりかねませんでした。四半期ごとの財務報告は重圧であり、四半期にとって適切でも長期的には必ずしも正しくない判断を下すことになりかねないことを懸念しました。
スティーブ・ジョブズはアップルの株価を気にしていませんでした。業績指標(財務目標)にフォーカスするのではなく、よい製品を作り、よい戦略を立てることによってアップルに成功をもたらしました。参加型の民主的経営によって戦略を立てるのではなく、ほとんどはトップダウンによる戦略を推進しました。買収による成長や規模の経済の追求による高利益率化を求めず、ミッション、ビジョン、目標、戦略をどうするかに頭を悩ませて時間を無駄にすることもありませんでした。
ルメルトによると、ジョブズを真似る秘訣は、「あれのためならお金を払ってもいい」と誰もが思えるような素晴らしいデザインを提供することです。優れたデザインとは、製品やサービスが全体としてその時点で望み得る最高の水準に達していることです。