民主主義は共産主義に勝利しましたが、その結果、比較して評価すべき別の主義がなくなってしまいました。
民主主義は、それ自身によって自らの正当性を証明しなければなりません。その能力自体で絶対的な評価を受けなければならなくなっています。つまり、自ら問題を理解し、改革していかなければなりません。
ドラッカーが指摘する改革のポイントは、次の3つです。
- 「ケインズ的赤字国家」の破産によって失われた社会、経済、財政にかかわる政策の有効性を回復すること
- 「福祉国家」の失敗によって生じた国内社会の無気力と退廃を食い止め、流れを逆転させること
- 政治的、社会的安定にとって不可欠な「市民社会」の構築を、世界的規模で推進していくこと
ケインズ的福祉国家の失敗
先進諸国の国内政策は、2組の信念に支配されてきたと言います。「赤字国家に対する信念」と「福祉国家に対する信念」です。当初、両者は互いに相容れないものであったと言います。
ケインズは市場経済を信奉していたため、福祉国家を軽蔑し、政府による所得の再配分は実を結び得ないと考えていました。そして、自分の経済学は巨額の社会支出を不要にすると主張していました。
他方の福祉信奉者は、ケインズが信奉した市場経済を相手にしていませんでした。
ところが、第二次大戦後、ケインズが倹約よりも消費を重視し、財政赤字による経済的刺激を正当化しました。
その経済的刺激の内容として慈善が入り込みました。慈善は経済的刺激になるという考え方が生まれ、生活困窮者に対する福祉支出が容認されることになりました。
赤字国家に対する信念の誤り
この信念には、3つの前提があったと言います。
- 消費は自動的に資本形成と投資を生み出す(乗数効果)
- 貯蓄は経済の健全性にとって危険である(貯蓄過剰)
- 政府の赤字は経済を刺激する
ドラッカーによれば、消費の増大が資本形成や投資につながった国は一つもないと言います。
日本では、消費を刺激しなかった間は資本形成が可処分所得の25%であったものが、景気後退で消費を刺激した途端に16%に急落しました。消費を刺激し続けたアメリカとイギリスでの資本形成は、それぞれ可処分所得の4%、5%と低いものでした。
過剰貯蓄も誤りでした。
日本では過剰貯蓄が高い資本形成をもたらし、経済繁栄の決定的な要因となりました。金利を抑え、資金調達を容易にしたからです。他方、貯蓄率の低かった欧米では15%を超える金利が付き、日本に対して著しいコスト劣位となりました。
政府の支出が経済を刺激できた例もないと言います。
アメリカでは、経済的刺激の成功例として1962年のケネディ減税があげられるそうです。確かに同年に景気が回復したそうですが、減税の目玉であったキャピタルゲイン課税の引き下げは議会で承認されず、連邦減税分以上に州・市税が上がり、結果的に増税になっていたため、減税が景気回復の原因とは言えませんでした。
ケインズは、そもそも景気循環をなくすと約束していましたが、未だ実現されていません。政府支出が経済を刺激し、資本形成と税収は増加するはずでしたが、結果は民主主義国家における財政赤字の増大であり、事実上の破産状態に至りました。
財政赤字をあまり問題視しない意見もあるようですが、過去の事実を見る限り、財政赤字の増加は、株価の下落、資本の逃避、設備投資の低迷、雇用の削減へとつながっています。
財政赤字が資本形成を阻害し、資金調達を困難にするため、短期の外国資金に依存せざるを得なくなります。
短期の外国資金は今や気まぐれな投機的資金であり、中規模の国家予算並みの金額が一日で取引されていますから、それに依存すると、著しく不安定な国家財政に陥ります。わずか数日の資金逃避が、一国の金融に恐慌をもたらし、通貨を破壊するということが度々生じています。
短期の外国資金を呼び込むために、無理矢理金利を高くし、国内の大量失業を生み出すということが現に起こっています。しかも、一国がそのような高金利政策を取れば、周辺諸国も資金流出を防ぐために追随せざるを得ず、失業が輸出されることにもなります。
財政赤字を負債と混同する意見が多いようですので、注意が必要です。財務省やマスコミも、意図的に混同させるような論調で、増税に誘導しようとするところがあります。
財政赤字とは、負債が資産を超過している状態を指しています。例えば、ある人が1,000万円の負債をもっていても、1,500万円の資産(貯蓄や不動産など)があれば、500万円の黒字です。
わが国では、政府の負債が多額にのぼっていると言われており、2019年3月で874兆円、2020年3月で896兆円となっています。
なお、財務省が公表している連結貸借対照表(政府に、特殊法人、認可法人、独立行政法人、国立大学法人等を連結して作成したもの)によると、資産と相殺して残る赤字額は2019年3月現在で約500兆円です。
その連結貸借対照表に関しては、国の負債を大きく見せるために、入れるべきでないものを負債として計上しているという指摘もなされており、本来の赤字の規模はもっと小さいと言われています。
さらに、家計について見ると、金融資産は2019年12月現在で1,903兆円、負債は300兆円ほどですので、差し引き1,600兆円の黒字になっています(本来は金融資産以外の資産もあるはずですが、ここでは無視しています)。
以上から、政府と家計を合計した国家全体では、1,100兆円の黒字になります。
しかも、政府の負債のほとんどは日本国民が債権者ですので、中国がアフリカ諸国にやっているような借金の肩代わりに港をとりあげるなどといったことは起こり得ません。これは日本に特有の状況で、国債発行額が多額なわりに円が安定している理由の一つです。
財務省は、増税の論拠として、負債のみをアピールし、よく国民一人当たり約700万円の借金といった言い方をしますが、無意味な算定です。実際に政府が破産して、国民が負債を肩代わりするとしたら、債権者はほとんど国民ですから、国民から国民に返済されるという無意味な行為になります。
現状においては、日本国債の大半は日銀が所有していますので、政府が破産したとしたら日銀がその負担を被るという理屈になります。日銀は政府の子会社ですから、日銀が国債を所有している時点で、国債は事実上償還された状態になっています。
要するに、増税のための空論でしかないのです。
ちなみに、通貨を発行するということは、政府(日銀含む)にとっては負債が計上されることを意味します。ですから、政府の財政が赤字ということは、民間部門に通貨が蓄えられていることを意味します。逆に政府が財政黒字になるということは、民間部門が赤字(資産より負債の方が多い状態)になっていることを意味します。
ですから、財政赤字は一概に悪であるという刷り込みには気をつけなければなりません。国民に借金を増やせと言っているようなものですから。
福祉国家に対する信念の誤り
この信念には、2つの前提があったと言います。
- 政府は平等化を推進するために所得の再配分を行うことができ、また行わなければならない
- 貧しい人たちに必要なものは、お金である
政府が所得を再分配すれば不平等が解消されるという信念は、今でも信じられているようですが、ドラッカーによれば全く逆のことが起こっています。
民主主義国家では、福祉支出の増加は所得の不平等を増大させています。問題は、貧困を解消しているのではなく、貧困を退廃と依存に変えてしまっていることです。貧困者の生活はますます悲惨なものになっています。
ですから、福祉支出の縮小による財政赤字の削減が重要な課題になります。改善されなければならないことの一つは、多額にのぼっている社会保障の不正受給です。もう一つは、過剰な保証によって、必要ない者まで社会保障に依存してしまっている状態です。
福祉にとどまるならば経済的に報われ、抜け出そうとすれば損をするという状況を改善しなければなりません。
福祉支出の削減は非常に困難であり、著しい抵抗を生みますが、これを避け続ければ、高度なインフレによって購買力が目減りさせられるか(支出削減と同じ効果)、消費税の大増税のいずれかになるとドラッカーは言います。
マルクスは、資本家がプロレタリアから搾取していると言いましたが、その予想に反して、民主主義国家は成果として富を増大させ、その恩恵を最も受けたのがプロレタリアでした。
しかし、福祉国家がこの成果を破壊しつつあり、このままでは民主主義が敗北してしまいます。
もう一つ、国際的な福祉政策もあります。途上国への開発援助です。アメリカの最初の試みであったマーシャル・プランは成功を収めたようですが、その後の援助の多くは、むしろ経済発展とは逆の相関関係になったと言います。
経済発展をしたのは、援助をほとんどうけなかった国(東南アジア諸国など)であり、援助を最も多く受けた国は、ほとんど経済発展しなかったどころか、経済が悪化したところさえあったと言います。
援助が依存を生んだという点で、国内の福祉政策と同じ結果になりました。
健全性と政策実現能力の回復
ドラッカーが提案する方法は、次の2つです。
- 歳入の範囲で予算編成し、それを超える支出に対しては「ノー」と言うこと
- 支出の優先順位を決定すること
有効な福祉政策
福祉政策そのものは必要です。貧困はなくさなければなりません。
経済や社会はますます変化していくと予想されますから、社会的なミスマッチは避けられません。たとえ能力や責任感をもつ立派な人たちであっても、一時的に生活の基盤を危うくされる現実が起こります。
彼らを福祉に依存させて貧困から抜け出せないようにするのではなく、貧困から脱却させるための政策を行わなければなりません。自立や能力や責任を生み出すように、福祉の方向づけを変えることです。
貧しい人たちに必要なものは、お金ではないということです。
ドラッカーによると、彼らはそれほど多くの援助を必要としないと言います。必要とするのは、むしろ援助を受けられるという保証であり、安心感です。
かつての福祉、すなわち「セーフティ・ネット」としての福祉であり、一時的な援助です。貧しい者が自らの能力に自信をもち、自らを発展させる力を高めることこそ、民主主義国家の利益にかなうことです。
貧しく依存的な人たちの増加は、社会の退廃、堕落、絶望を増大させ、民主主義国家の安定と連携を損なってしまいます。
成果をあげている福祉政策は、少額な資金でもうまく行っています。明確な目標や実績などの規律と努力の方がむしろ重要です。貧しい人たちに必要なものは、お金ではなく能力です。ニーズではなく成果に焦点をあてることが必要です。
ドラッカーは、可能な限り非政府のコミュニティ組織に委託するようにしなければならないと言います。重要なことは金額の多寡ではなく、規律、検診、勤勉、自尊心、配慮であり、これらを政府が確保することは難しいからです。
そして、それによって更生した者には、次は自ら寄付者になり、ボランティアになるように求めなければならないと言います。それによって、多額の公的資金に依存しない支援の循環が継続します。
新古典派経済学の有効性
ケインズ経済学の失敗の一方で、新古典派経済学がうまく機能していると言います。
新古典派経済学は、ハイエクに始まり、いかなる経済体制にも優る体制として市場経済の優越を説きます。
ハイエクは、市場経済への干渉は政治的自由の喪失と専制に至ると説きました。逆に、政府の統制や規制、介入を受けない市場経済は、自由で公正で平等な社会を生み出すと言いました。
元々は経済理論であった「レッセフェール(自由放任主義)」を、社会的・政治的な公理にまで拡張したものです。
実際に多くの途上国で採用され、政府支出の削減、予算の均衡、国営企業の民営化、経済活動に対する規制の撤廃や緩和、輸入の自由化と競争の促進、資本の移動に対する規制の撤廃や緩和によって、経済成長が始まったと言います。
一時的に、社会的なミスマッチは生じます。関税や補助金の庇護がなければ生きられないような非効率な企業は倒産し、失業も増加しますが、せいぜい2年程度のことであり、その後は解消されていくと言います。
ところが、うまく機能しなかった国もあったと言います。一時的にうまく行っても、後に様々な問題が吹き出してきたこともありました。
ドラッカーによると、新古典派経済学は、経済学的な主張に誤りはありませんでしたが、機能する社会と安定した政治を生み出すという主張には誤りがありました。
市場経済が機能するために、前提として、「機能する社会」、すなわち「市民社会」が必要であるということが分かったのです。
「市民社会」とは、近代において、封建的社会体制から解放され、自由と平等を獲得して自立した市民によって成り立つ社会です。法治国家として、法の下の自由と平等が保障されている社会です。
要するに、確固たる法制度の下で保証された「人権」が必要なのです。信教の自由、職業選択の自由、結社の自由、あるいは、政党、教会、国家などの力に束縛されることなく読み、書き、話し、考える自由です。
ドラッカーが特に強調するのは「財産権」です。王や貴族、司教、将軍、議会などの権力に対して、財産権が保障されていなければ、市場経済は機能しませんでした。さらに、整備された金融制度、適切な教育制度も必要でした。
そのような市民社会によって生み出される人的資源が、市場経済を機能させるのです。
市民社会の存在は、開発援助が機能するための条件でもあります。それがない国に援助をしても無駄に終わります。悪人を富ますだけで終わります。
財産権としての職場
日本では、従業員の雇用に対する権利が、事実上、最優先の権利となっています。
終身雇用は崩れたという意見もありますが、継続している企業は少なくありません。倒産しない限り、事業は主として従業員のために行われ、雇用の権利が外部の債権者や株主よりも優先することを意味します。
欧米諸国でも、従業員を最大の利害関係者としています。企業の収入に占める従業員の取り分は、株主が得るものよりもはるかに多いのが普通です。
ヨーロッパでは従業員を解雇することが難しく、解雇したければ、解雇手当を支払わなければなりません。国によっては、雇用を続けた場合に支払うべき総給与にも相当するといいます。
解雇手当の請求権は、企業が倒産しても有効であり、倒産企業の所有者の財産にまで及ぶという判決も出ています。
アメリカでは、従業員の年金受給権に、他の財産に与えられている保護のほとんどを適用できるとされています。
昇進、訓練、身分保障、雇用機会は、従業員の権利の問題として扱われています。現に、雇用、解雇、昇進、賃金、配置などを、人種、性、年齢、身体的障害などによって差別することに対する訴訟が起こりました。
従業員の職場や雇用が、急速に一つの新しい財産権に変化しつつあります。この財産権は、売ることも、質入れすることも、遺贈することもできません。
生産手段としての雇用
社会の生産的資源へのアクセス、したがって生計と社会的機能や地位へのアクセスを与えるもの、経済的な独立をもたらすものは、西側社会においては、つねに一つの財産権となってきたといいます。
雇用は、昔の土地と同様、従業員にとって、経済的効率、社会的地位、政治的力の獲得を伴う生産手段であり、「実体財産」であると言えます。
ほとんどの人が組織に雇われることによって生産資源にアクセスとコントロール、および生計の手段と社会的地位や機能に対するアクセスを手にしています。
雇用は、従業員が財産を築く道であることからも「財産権」です。特に、年金受給権は、将来の財産そのものを保証するものです。生涯にわたっての経済的自立に対する唯一のアクセスです。
変化に即応するための柔軟性
雇用の財産権を強調すると、硬直化と固定化の危険を伴います。
解雇が困難になれば、雇用自体が縮小し、失業の増加を招きます。既存従業員の財産権を守るために、他の多くの人びとの財産権が侵害されることになってしまうことがあります。
新技術の導入や産業の転換などの障害にもなります。そうなれば、企業や産業そのものの衰退につながり、結果的に、既存従業員の財産権自体が失われる可能性があります。
したがって、財産としての雇用を認めつつ、変化に即応できる柔軟性をいかに確保するかが重要です。
まず、財産権としての雇用は、正当な手続きなしに消滅させたり、取り上げたりすることはできないことを認め、雇用に関わるあらゆる行為(採用、解雇、昇進、昇格、昇給、配置転換など)を、透明性のある客観的な基準に基づいて行うことが必要です。
そして、それらの行為に対して不服がある場合は、再審の請求を認めなければなりません。
現に、差別の有無以前に、正当な法手続きに対する違反によって、裁判で敗訴する例も出ています。
さらに、解雇によって財産権を没収するのであれば、それに対する「補償」が不可欠です。過剰雇用の発生を予測し、解雇されることになる人たちを再訓練し、新しい就職先を見つけることが必要です。