「われわれ」とは誰か − 「シンボリック・アナリスト」とは何か?㉑

グローバル経済が拡大しつつある今日、国家の経済的役割は、企業の収益力を増やすことや、国民の株式所有を拡大させることではなく、国民が世界経済に寄与するものの価値を高めて、その生活水準を向上させることにあります。

アメリカの問題は、多くの価値を付加している人々(シンボリック・アナリスト)が一部であり、ほとんどの人々がそうでないということです。その結果、少数のシンボリック・アナリストとその他の人々との所得格差が大きくなっています。

大多数の中・低所得層の経済的地位の向上には、恵まれた シンボリック・アナリストが自分たちの所得を分配し、彼らの資産形成能力に投資する必要があります。

ところが、富裕層はグローバル経済との結びつきを強めているため、自分たちほど豊かでない同胞の仕事やその可能性への関心が薄れています。ここに、アメリカのジレンマが生まれています。

このままでは所得格差がますます拡がるので、シンボリック・アナリストはますます孤立した飛び地に引きこもり、その中でだけ金を出し合い、他の地区のアメリカ人に分配したり、その生産性を向上させるような投資を行ったりはしないでしょう。

彼らの政治力によって所得への課税率はさらに引き下げられ、一般大衆に再分配されたり投資される割合もさらに少なくなります。教育訓練や社会資本に対する政府支出は減少し続けます。

貧しい州、都市や町は、豊かな地域との格差を埋めることができません。

力を失った「啓発された自己利益」

問題の解決は、アメリカ人が「われわれ」として、お互いにどれだけ強く同じ社会の仲間だと感じるかにかかっています。

かつて、町や地域や国への忠誠心は、経済的利益と一致していました。個々の市民が町の改善を支えました。短期的には自分が払った分の一部しか恩恵を受けられそうになくても、その犠牲はいずれ十分に報われると考えられていました。

都市の新興や公共投資、経済協力は、トックヴィルの言う「自己利益の正しい理解」の原理に合致していました。同胞が豊かになり、生産力が増せば増すほど、自分が提供するものと引き換えに彼らが与えてくれるものが増え、「われわれ」として恩恵を受けました。

しかし今や、都市や州あるいは国家の境界さえ経済的相互依存の特定の領域を意味しないので、トックヴィル流の「啓発された自己利益」の原則は力を失っています。

国家は一つのグローバル経済の一地域になり、国民はグローバル市場の労働者です。企業はグローバル・ウェブに変貌し、大規模で標準化された活動なら世界中どこでも労働力が安い所で行えます。

最も利益を生む活動も、技能や才能を持つ人々が新たな問題に取り組み、最高の解決法を考え出せる場所ならどこでも行われます。

こうした状況にあって、一つの国の中で実行される経済的犠牲や自制は、かつてのような循環を実現することができなくなっています。

問題は、市民としての義務感、地域への忠誠心が、新たなグローバル経済の遠心力に耐えられるほど強いかどうかです。

国家への忠誠心が他よりも強い社会では、社会的絆と経済的絆のバランスは前者に傾きます。その場合、グローバル経済に引っ張られても、勝者は敗者の援助を続ける気になります。

こういう国に特有の「われわれはみな、この国の一員だ」というナショナリズムは、心の奥に滲み込んだ遺産の共有意識や、国家の運命共同体意識に基づいています。

ゼロ・サム・ナショナリズムの教訓

ナショナリズムでは、「われわれはみな、同じ国の仲間」という態度が、外国のものを等しく軽蔑する排他性に変質しかねません。

歴史を見れば、われわれが勝つか彼らが勝つかという「ゼロ・サム」ナショナリズム(世界の富の総和は一定であり、自国が他国に敗れることは、自国から他国への富の移転を意味するという考え方)が、公共精神を腐敗させてきました。

行き着く所、人々は自国民だけの福祉を向上させ、地球上の他のあらゆる人々に害を及ぼすような政策を支持するようになり、そこで他の国も自衛上、同じことをするようになるのです。

抑制を失ったナショナリズムは、国内における市民的価値の衰退を引き起こします。国内にいる外国の代理人に対し、国家は妄想をたくましくします。市民的自由が安全保障を理由に制限され、隣人同士が不審に陥ります。部族への忠誠が国家を分裂させることさえあります。

国際的には、北米と西ヨーロッパ、それに東アジア諸国が世界の所得の大半を独占し、この豊かな地域と他地域とのつながりが薄れるにつれて、取り残された人々は急速に絶望的な貧困に陥ります。

自国の利益にだけ集中することは、地球規模の協力が欠かせないその他の問題が山積みしている以上、きわめて危険な狭い見方です。

地球全体の富の増加を目指す

ゼロ・サム・ナショナリズムは、グローバル経済の繁栄をも脅かします。

一つの国の労働者が見識を深め、高い教育を受ければ、その分だけ世界に富を付け加えることができると考えるべきです。

見識を最初に深めた労働者のいる国のほうが、他よりも多く恩恵に預かりやすいことは事実です。この優位は、他の国民に、自分たちは貧しくなったと感じさせてしまうかもしれません。人々は他の国と比較して自分の暮し向きを評価するからです(相対的窮乏化)。

しかし、ある国が特定のテクノロジーに優れているからといって、他の国のテクノロジーの進歩が妨げられるわけではありません。テクノロジーは世界の需要に対して限界のない商品であり、どちらかが全部取るというような量の決まったものではありません。

テクノロジーは知識の領域に属します。一本の大木の周りの枝のようなもので、常に数えきれないほどの別の枝が伸びています。他の国は、今後の経済成長で遅れを取らないために、周囲に伸びている別の枝について研究し、設計し、テクノロジーを創り出せばよいのです。

コスモポリタン主義にも疑問

地球市民の意識を持ったコスモポリタンは、世界的な問題や可能性について適切な視野を持つことができます。

グローバルに活動するシンボリック・アナリストは、強い愛国的動機を持たないので、ゼロ・サム的解決を拒み、視野の狭い一般市民よりも、この意味で責任のある行動をとる可能性があります。

しかし、家族や友人以外に強い愛情や忠誠心を持たないシンボリック・アナリストは、社会に対して責任のある態度や習慣を育んでいないかもしれません。

彼らは世界市民ですが、一つの政体に属する市民が通常負う義務を受け入れないか、あるいは認識さえしていません。

正義感や寛容は学習することによって体得されます。この学習の基礎として重要なのは、一つの政治共同体のメンバーであるという自覚です。われわれが他人のことに責任を感じるようになるのは、共通の歴史を持ち、共通の文化に関わり、共通の運命に直面するからです。

コスモポリタン主義は、諦めを育てもします。シンボリック・アナリストは、世界全体を覆う問題に敏感であっても、ここで論じてきたジレンマは世界的次元での処理が難しく、また個人にとっては圧倒的なものなので、解決するのは不毛な努力に見えるでしょう。

第三の積極的経済ナショナリズム

ゼロ・サム・ナショナリズムと冷静なコスモポリタン主義のどちらかを選ぶかという議論になりやすいですが、すでに述べた通り、両者は両極端の結論を導く可能性があります。

しかし、第三の立場、すなわち「積極的経済ナショナリズム」があります。どの国の国民も、十全で生産的な生活を送るために自国民の能力を向上させることに主たる責任を負いますが、自国民の生活改善によって他を犠牲にすることがないように他国とも協力します。

この立場は、国家的目標意識を基盤とし、共通の政治勢力と歴史的・文化的なつながりを原則的に持ちます。国内における新たな学習を奨励し、古い産業からの労働力の円滑な移行や国内労働者の教育訓練、社会資本の整備、そしてそれらすべてを達成するために国際的な公正競争のルールを設けることを目指します。こうした投資が公共目的に合致することは疑いありません。

この主張は、他国を犠牲にして一国の福祉を推進するのではなく、グローバルな福祉の増進という総合的目標をも持ちます。

ゼロ・サム・ナショナリズムではありませんから、配分される世界の利益は量が決まっているわけではなく、分け合うべき市場が限られているわけでもないという考え方が前提です。ですから、世界貿易の独占を争って彼らの企業とわれわれの企業が対立することもありません。

われわれは、無限に拡大する人類の技能と知識の領域で出会うだけです。物的資本や金銭的資本と違って、人的資本には限界はありません。

同胞の才能や能力開発に特別の責任を感じる国民は、同胞の幸福にも、そうでない者の幸福にも等しく貢献します。一国の幸福は、他の国の国民の能力向上によって、必ず強化されると考えます。

積極的経済ナショナリズムは、どの労働力による生産物に対しても貿易障壁を設けません。資金やアイデアの国境を超えた移動も妨げません。こうした障壁が設けられれば、各国の労働者が、自分たちを対象になされた投資やその他の投資による成果を享受する能力を削いでしまうからです。

ただし、政府の介入をすべて避けるわけではありません。この立場は、各国において、生産的生活を営む国民の能力を高める公共投資を奨励します。こうした投資が国の経済政策の中核をなします。

積極的経済ナショナリズムは、国内で高付加価値生産(高度な設計、工学技術、組み立て、システム統合など)を行う企業に対する政府援助を容認します。企業の招致も積極的です。助成に当たり、株主や経営陣の国籍による差別はしません。そうした助成が行われる国の労働力は、現場で技能の熟練度を高めることができるからです。

ただし、各国が優秀なグローバル企業と関連技術の体系を誘致しようと躍起になる結果、再びゼロ・サム的な状況に陥る危険がありますから、助成水準と目標に関して、国家間の調整が必要でしょう。

自国内で一定水準以上の投資がなされない場合に国内市場を閉ざすという脅しは禁止すべきです。その国の経済の特徴を考慮したうえでの公正なルールを設定します。例えば、許容される補助金の額はその国の労働力の規模に比例し、その国の平均的な技能レベルに反比例する、などが考えられます。

さらに、各国で共同出資し、最も効果の高い分野に配分される補助金も必要でしょう。例えば、その成果がすぐにも国境を越えるような基本研究(高エネルギー素粒子加速器、人の染色体研究、宇宙開発など)です。このような研究成果にはただ乗りが起こり易いので、一国による支援は困難です。

すでに世界的に生産過剰に陥っている古い産業や技術からの労働力の移行を容易にする必要もあります。退職年金の支給、配置替え手当、特別訓練費の支給、特別失業保険、域内経済援助、高付加価値生産に向けた工場機械の再整備や改良のための基金といった形態をとることができます。

過剰生産がなくなれば、あらゆる国が恩恵を受けるのですから、世界のすべての国が共同で設立する共通基金から拠出することが望ましいでしょう。

積極的経済ナショナリズムは、第三世界諸国の労働者の能力開発を重視すべきです。各国に固有の発展を促進し、そのことを通じて地球全体の富を増大させることが目的です。

この目的で、第三世界に標準的大量生産を移行することは歓迎されます。その製品に対して先進国の市場を開きます。先進国は第三世界の債務負担を減らし、新たな融資を可能にし、これまで以上に融資の使い道を注意深く監視するようになるでしょう。

正しい選択はわれわれの手に

グローバルな変化の圧力は、アメリカの選挙民を分裂させています。ルーティン生産従事者や対人サービス従事者はゼロ・サム・ナショナリズムに傾き、外国人がアメリカの資産を独占し、秘かにアメリカの政治にも影響を与えているのではないかと恐れています。

彼らは、かつてアメリカにあったルーティン生産職の大半を奪い取り、アメリカの都市にも大量に集まってきた東南アジアやラテンアメリカの低賃金の労働者にも憤慨しています。

他方、シンボリック・アナリストの多くは、自由放任のコスモポリタン主義の傾向が強く、他のアメリカ人の経済的苦境に何の緊急性も感じないばかりか、世界全体が直面している大問題の多くについて無力感や悲観論に陥っています。

すでに進行中のトレンドに基づいて未来を予測するなら、コスモポリタン主義がアメリカを支配する政治経済哲学となることは間違いありません。

このトレンドが放置されれば、世界的な労働の分化は国と国の間に富の巨大な格差を生み、勝者が不均等拡大の趨勢(国の内外を問わない)を逆転させるために、自ら進んで何かをしようという気力を減退させるでしょう。

ナショナリズムは、国境内の経済的相互依存と国境外の外国に対する安全確保という実用的な必要から生まれたものですが、それが今、消滅しつつあります。

だからこそ、今、「われわれ」が何者か、なぜ、われわれは一緒に進んできたのか、われわれおよび世界各地の住民が互いに負っているものは何か、について再定義する機会です。

われわれは、経済的利益を超えた領域においても、市民としての相互義務を果たすことができるはずです。