経済問題の認識における誤謬 − 「シンボリック・アナリスト」とは何か?⑥

第二次大戦後、アメリカから世界に流出したアメリカ製造業の技術は、巨大ブーメランのように、やがてアメリカに戻ってくるようになりました。

20年も経たないうちに、外国人が、自動車、テレビ、家電品、鉄鋼、繊維などの大量生産に乗り出し、アメリカの中核企業よりも、ときには安く、ときにはより高品質で、アメリカ国内で販売できるようになりました。

1960年代後半には、アメリカの中核企業は、海外との激しい競争にさらされるようになり、価格を固定することができなくなりました。

再び保護主義者の壁

一つの戦略は、価格の安い外国製品をアメリカ市場から締め出すことでした。再び保護貿易の壁を設け、1980年代の終わりには、アメリカで製造された標準的な製品のほぼ3分の1が国際的な競争から保護される状態になりました。

アメリカの中核企業は、外国業者の不公正な慣行から身を守っているに過ぎないと言いました。

不公正な慣行の一つは「ダンピング」と呼ばれましたが、規模の効率性を実現して利益を出すために、販売当初から安い価格で市場参入して大量販売を行おうとする一般的な手法に過ぎませんでした。

もう一つの不公正な慣行は、外国の生産者が自国政府から補助を受けているというものでしたが、政府による研究助成金、国防契約、無条件の救済措置を受け続けていたアメリカの中核企業が、そのような批判をできる立場ではありませんでした。

アメリカの対抗措置は、露骨な輸入割当や関税の設定ではありませんでした。それはGATTに違反するからです。

一般的に利用された方法は、外国の当事者がアメリカへの輸出を「自主的に」制限することに同意させるというものでした。同意しなければ最も厳しい割当が当該国だけに課されるという、より悪い結果を十分に認識させたうえでのことでした。

このようなことが行われた結果、アメリカ国内で不利益が生じました。保護された産業から、他の産業が高い原料や部品を購入させられる羽目になったからです。

鉄鋼業が保護された結果、自動車産業は世界の競争相手に比べて割高な原料や部品を購入しなければならなくなり、競争で不利な立場に立たされました。同じようなことが、アパレル業界やコンピュータ業界にも起こりました。

さらには、自主規制に関係しない第三国を経由して、同じ原料や部品が安くアメリカに入ってくるようになりました。

保護貿易は、割高な原料や部品の価格を転嫁されたアメリカ製品の国際競争力を低下させたため、アメリカ以外の世界市場を外国の製造業者に譲ることになってしまいました。その結果、外国の製造業者は規模の効率性を獲得し、一層価格競争力を持つようになりました。

アメリカの市場は、人口の増加率が鈍化し、多くの標準化された製品への需要も伸び悩み始めていたので、相対的に活気のない市場になっていきました。一方、外国の市場では、標準的な製品を楽しみたいという新たな大衆市場が誕生しつつありました。

アメリカの保護貿易は、アメリカ人に高い買い物をさせ、外国の大衆には外国の製造業者の製品を安く買わせる結果となりましたから、アメリカの企業と消費者に何ら得るところはありませんでした。

それでも競争力は回復しなかった

アメリカの経営者は、外国企業が安く生産できるのなら、アメリカの中核企業も同じことができるはずだと考え、大胆な賃金削減に取り組みました。

非効率な工場を閉鎖し、労働者をレイオフしました。これがうまくいかなければ、安い生産資源を当てにして、それまで企業収益を悪化させる原因となっていた相手国に生産拠点を築きました。

しかし、このような方法によって生産コストを削減し、価格を引き下げても、外国企業はそれ以上に価格を引き下げ、利益幅を以前より縮小して、顧客を奪い返してしまうのでした。

最後の手段は乗っ取りゲーム

いくつかの中核企業は、金融的な手段で収益を確保しようしました。企業の資産を効率的に運用する金融上の持株会社に変わろうとしたのです。

最初は、無関係な会社を寄せ集めたコングロマリットが作られましたが、この策略が失敗すると、それら子会社は売却されました。

コングロマリットが魅力を失うと、敵対的乗っ取りからレバレッジド・バイアウト(LBO)へと乗り出しました。株式を債務と交換することによって、法人所得税を節約(株主配当の支払いは税金対象から控除されませんが、債務の利息は控除されます。)しようとしました。

このような金融上の手段が、効率性やシナジーを高めたかどうかは疑わしく、生産システムの根本的な改革とは何の関係もありませんでした。

結果は、企業の所有権が椅子取りゲームのように次々と移っただけでした。

「競争力の衰退」は間違っている

このようにして、アメリカの中核企業の収益は縮小していきました。

増大しつつある対外債務、増える傾向にある外国人によるアメリカ資産の購入、平均的なアメリカ人の所得の低下などの根本的な原因は、アメリカ産業の競争力の衰退であるという見方が拡がりました。

そのような問題のとらえ方は、アメリカ企業、アメリカ産業、さらには総体としてのアメリカ経済を含めて、経済主体の活力が回復しない限り、アメリカ人の生活水準を改善することはできないと結論づけることになりました。

これらの経済主体が依然としてアメリカ人と世界経済との間の橋渡しをしており、彼らの成功が個人的富の増大にとっては不可欠であるという見方でもありました。

このような見方は、1950年代においては正しいものでしたが、現代においてはもはや正しくないと、ライシュは言います。

「アメリカ」企業も「アメリカ」産業もグローバル経済の中にあまりに深く組み込まれてしまったため、意味のある呼称ではなくなりました。

全体としての「アメリカ」経済も、特有のアイデンティティを失いつつあります。アメリカの中には、成功するアメリカ人もいれば、失敗するアメリカ人もいるからです。

したがって、アメリカの代表的な経済主体が回復すれば、アメリカ人は救われるだろうと想定することは、時代遅れの古びた考えにとらわれることになります。

アメリカ人の生活水準は、今やアメリカ人一人ひとりの個人的技能と洞察力に対する世界の需要に依存するようになったのです。