過剰生産の問題は、外国製品が入ってこないように高関税をかけることによっても、比較的工業化が遅れている地域を自国だけの「勢力範囲」として囲い込むことによっても、解決しませんでした。
国内で製造業者同士が生産能力を増強し合ったり、販売価格を引き下げるような競争に明け暮れている限り、利益幅は事業が成り立たない水準にまで縮小せざるを得ません。
そこで、19世紀最後の20〜30年の間に、第三の解決策として、国全体をベースとした巨大企業に生産を統合することによって国内競争を少なくしようとする方法が取られました。
国民経済の成功は、自国内の巨大企業の成功によって決まることになりました。
アメリカ中核企業の誕生
19世紀の終わりには、ヨーロッパや日本の新しい工業部門は、巨大なシンジケート、カルテル、持株銀行、財閥、グロスインダストリといったものが支配するようになっていきました。
アメリカでは、競争から国家的な企業統合体への移行は、それほど容易には進みませんでした。アメリカ人は、専売、特別勅許といった特権に疑いの目を向けることを身につけており、経済的な権力の乱用は政治的な権力の乱用とほとんど同じほど恐れられていたからです。
19世紀のアメリカ政府の官僚は、市場を規制したり、産業を育成したりはしませんでした。アメリカの裁判官はこの当時、まだ独占とカルテルを裁くだけの心構えはできていませんでした。
植民地時代から受け継がれてきた州の慣習法は、取引規制を生み出す業者間の様々な共闘に対して否定的な見解を持っており、1890年にはシャーマン反トラスト法が成立しました。
アメリカ企業同士が価格と市場に関して協定を結ぶことを禁じられたため、合併して巨大企業になることを選択しました。
政府が原材料と燃料の輸入に課した高関税も、この統合の動きを助けました。高価格で海外から購入するより、巨大企業になって国内供給者から買い占めるほうを選んだからです。
こうして、国の中心勢力となる中核企業がアメリカに誕生しました。大規模で集中化された経営により、市場と供給源に対する支配力が強まり、規模の効率性も高まりました。
巨大企業に屈した反トラストの運動
巨大なアメリカ企業は、アメリカ経済の資源を動かし、方向づける媒介者であり、アメリカに繁栄と偉大さをもたらすと主張されました。
しかし、多くのアメリカ人は、このような主張に説得力を認めませんでした。巨大な企業は、危険なほどの権力を持っていように見えました。競争から隔離されていましたから、市場が求める需要とも無縁に見えました。国家に対して責任を負わず、民主的な監視からも逃れていました。
アメリカの大規模生産の効率性を損なうことなしに巨大企業を分割することは不可能でしたから、これらの巨人を制御する方法が問題でした。
一時期成功した国家生産システム
政治思想家でありジャーナリストでもあったハーバート・クローリーは、国家が巨大なアメリカ企業を規制し、国民的な目標に合致する存在に変えるべきだと主張しました。
セオドア・ルーズヴェルトは、この考えを取り入れ、新国家主義を打ち出しました。これは第一次世界大戦時に実行に移され、アメリカ人は初めて国営企業の経営計画の立案を経験しました。
戦時金融公社(WFC)は軍需産業への銀行貸出を引き受けていましたが、ハーバート・フーヴァー時代の1929年に、これが復興金融公社(RFC)に引き継がれ、政府を後ろ盾にした貸出と債務保証を行う様々な計画を手掛けるようになりました。
全米住宅公社(USHC)は土地を接収し、軍隊の兵員用の住宅を建設しました。そこから、国民の住宅ストックに対する連邦政府の責任が始まったとされます。
産業間紛争を解決するために設立された政府の戦時労働局は、20年後に実現する国家的労務行政システムのモデルとなりました。
これらはすべて戦時産業局(WIB)によって監視されました。同局は、国家的な産業協力推進のためにシャーマン反トラスト法を放棄しました。これが、第二次世界大戦時の戦時生産局(WPB)に受け継がれました。
さらに、1950年代と1960年代には、軍需契約者、石油会社、銀行、航空会社、通信および航空機産業に対する補助金と生産カルテルに引き継がれました。政府の監視が同一の製品を大量生産する重工業生産に限定されたので、特定の生産割当を定め、生産を行うのは相対的に容易でした。
ニューディール後の巨大企業
残る問題は、アメリカで最も大規模な企業経営者に国家目標に対する責任をもたせる方法、特に平時において政治的な監視を行う方法でした。
1932年、バーリとミーンズは『近代株式会社と私有財産』の中で、アメリカの巨大企業の最高経営者は、国家の最も重要な経済資源を支配し、政府の補助金の大半を受け取っているだけでなく、自社の株主に対してさえ責任を持っていないという現実を示しました。
バーリとミーンズが提案した唯一の解決策は、被雇用者や消費者を含め、巨大企業から影響を受ける国内のすべてのグループの力を高めることでした。そこで、一連のニューディール政策の立法化では、それらのグループの交渉力を強化しました。
1935年のワグナー法によって、被雇用者は労働組合を設立する権利と集団交渉権を得ました。1933年および34年の証券取引法によって、小口投資家が保護されるようになりました。ロビンソン・パットマン法と州の「公正貿易」法の下で、小口小規模小売業者は、大規模なチェーン・ストアに対して影響力を行使する力を得ました。
このような拮抗力の導入によって、アメリカの大企業の最高経営者は、自らを株主、被雇用者、大衆からの要請に十分に配慮する責任を持つ企業政治家とみなすようになり、一般大衆もこの見解を共有するようになりました。