産業社会の行方 - 産業人の未来①

第二次世界大戦は産業が主役でした。そこからドラッカーは、来るべき平和の時代は「産業社会」、すなわち、産業が中心に位置する時代であると明言しました。そして、この戦争が、産業社会の構造、原理、目的、組織を決すると言いました。

第二次世界大戦では、戦争の道具自体が戦争の中心になっていました。軍隊における指揮命令関係は、産業における技能や機能に関わりをもつ関係になっており、組み立てラインにおける職長と工員との関係にほかならないとし、この秩序が、戦後の平時社会の組織においても引き継がれると考えました。

その意味で、戦争が終わって平和を手にする日は、旅を終える日でもなければ、旅を始める日でもなく、「馬を替える日」に過ぎないと表現しました。

戦争に意義があり、何かを創造すると言いたいわけではありません。しかし、戦争が今まさに現実として起こっているということ、そして、戦う以上、勝つべくして死力を尽くし、最善を尽くさなければならないという、国民の生命と生活に決定的な影響を与える状況において、その軍隊が組織されているということが重要です。

ですから、その軍隊組織の秩序が、その目的の達成に向けて、もっとも合理的であると想定することができ、その後の社会を決定づけると言えるのです。

軍隊組織に社会の未来が現れているということであり、その姿が「産業社会」です。ドラッカーが本書で目指すのは、その産業社会を「自由社会」として構築する方法です。

ドラッカーの掲げるテーマは常に、いかにして社会において「自由」を獲得するかということです。

ファシズム全体主義の各種原因説の誤り

第二次世界大戦は、民主主義とファシズム全体主義との戦いとされました。

しかし、ドラッカーに言わせれば、ファシズム全体主義は、民主主義国に共通の価値観、信条、制度の崩壊によって起こったものであって、民主主義の外から来たものではありません。

つまり、ファシズム全体主義は、産業化した民主主義国であれば、どこで起こっても不思議ではなかったということです。

『「経済人」の終わり』で詳しく語られたとおり、「経済人」モデルを基盤にしたブルジョア資本主義が戦争と恐慌を生み出し、同じモデルを基盤にしていたマルクス社会主義もそれらを解決できず、大衆を絶望させたことが、ファシズム全体主義を受け入れる原因だったからです。

ですから、単に、ファシズム全体主義政権をもつ外国と戦って勝利すればよいのではなく、民主主義国内部における問題の解決が行われなければ意味がないということです。

国民性や民族性

ドラッカーは、国民性や民族性の存在を否定しているわけではありません。ただし、それらは主として物事の進め方に関わる特性であると指摘します。

例えば、緩慢か急激か、慎重か性急か、感情によってか理性によってか、丁寧かざっとか、などです。これらの気質は、意思決定の内容には無関係です。

理想の人間像や行動についても国民性や民族性の違いがあると言われますが、これらは決して固定的ではなく、むしろ急速かつ予期できない形で変化するといいます。

しかも、ナチスの指導者たちは、過去のドイツ社会で一度も理想とされたことのない種類の人びとであったといいます。革命においてはおよそそのようなものであり、ナチズムに特有のではありません。

ファシズム全体主義を、ドイツやイタリアの国民性によるものと理解する考え方については、むしろ危険であると、ドラッカーは警告します。なぜなら、ヒトラーの主張を認めるに等しいからです。

ヒトラーはアーリア人優位を説いたのですから、国民性のなかに不変的で必然的なものを認めることは、国民性の優劣の考え方につながります。

すべての人間が、人種や国籍、皮膚の色にかかわりなく等しく尊いという考え方を理念として掲げることこそ重要です。しかし、ドラッカーは、そのような理念だけでは倫理的な意味しかないと考えます。

政治や社会において意味があるのは、価値に関わる理念とその理念を社会的な実体として適用したもの、すなわち政治体制です。政治体制がなければ、現実の社会が成立し、存続することはできません。

国の歴史

ファシズム全体主義を、その国の歴史によって説明しようとする考え方もありますが、これも無意味です。

例えば、ドイツが平和主義を発展させていたとすれば、その根拠となる歴史は枚挙にいとまがありません。例えば、宗教改革、ルター、カント、ヴェートーベン、フェルスターなどの存在です。

仮にイギリスでファシズム全体主義が発展していたら、その根拠として、ヘンリー8世、クロムウェル、ホッブス、ベンサム、カーライル、スペンサー、ボーサンケなどが挙げられたであろうと指摘します。

そもそも、ナチズムの理念やスローガンの直接の生みの親は、ほとんどがドイツ人ではありません。

最初のもっとも一貫したファシズム全体主義哲学者は、フランスのオーギュスト・コントであったといいます。コントには、言論の自由、思想の自由、良心の自由に対する憎悪がありました。

反ユダヤ主義も、ジョゼフ・コビノーが最初にそれを唱えたのは、フランスにおいてでした。

ヒトラーの用いた政治テクニックの多くも、ナポレオンとナポレオン3世が発展させたものです。その両ナポレオンは、マキャヴェリのほか、ベネツィアやオランダの専制政治からも多くを学んでいたといいます。

さらに、ヒトラーの選民思想は、元々ユダヤ人のものでした。また、ナチズムとその諸々の団体組織の基盤となった脱経済至上主義社会の階級秩序も、アメリカ人であるウィリアム・ジェームズが発展させたものであったといいます。

このように、歴史によって結果論として跡づけようとすると、さまざまな国の歴史がファシズム全体主義の原因とされてもおかしくありません。ですから、同じ意味で、ドイツの歴史を理由とすることは誤りです。

ヨーロッパの歴史は互いに影響を与え合ってきたという事実が明らかになるだけであり、特定の国が原因であると言うことに意味はありません。

政治と産業

ドイツにおける政治統制と産業集中を原因とする説もありました。

しかし、隣国のチェコスロバキアでは、産業の集中化とカルテル化、政府による産業統制がドイツ以上に進んでいたにもかかわらず、ファシズム全体主義は生まれませんでした。

自由な社会の再生

ファシズム全体主義は、国民性、歴史、産業構造、地理などによって説明できないことを理解しなければなりません。

それらを原因として説明しようとすることは、ナチズムの興隆が必然であったと言うことと同じであり、まさにヒトラーの主張と同じになります。そのときの人びとの意思や選択では如何ともし難いということになります。

他国にとっても、ナチズムと戦う意味がなくなります。必然であるなら、何をすることもできません。それは背負うべき宿命としか言いようがなくなります。

真実は、歴史的にも資質的にも、あらゆる国が善と悪の双方について無限の可能性をもち、あらゆる国があらゆることについて先人をもち権威をもつということです。

ですから、あらゆることが国民性や歴史によって選択の余地なく必然的に強制されるのではなく、そのときの国民自らの意思によって決定しているということです。

ファシズム全体主義の本質は、西洋文明に共通する問題、すなわち産業社会に関わる問題を解決しようとする試みの一つとして現れたものです。

ドイツに限定されるものものではなく、どこの国でも生まれる可能性があると考えなければなりません。

ですから、物理的な戦争でファシズム全体主義を排除したとしても、その根本問題を解決しなければ、その後に続く産業社会において、いつ同じものが生まれてもおかしくありません。

ファシズム全体主義は、自由の放棄によって社会を機能させようとする試みです。大衆の奴隷化と他国への侵略によって産業社会を機能させようとする企てです。

国民自らの意思で選択した自由の放棄が、ファシズム全体主義を興隆させたのです。国民が選択した革命であり、その革命にヒトラーが乗じたのです。

だからこそ、重視すべきは「自由」の理念であり、その上に、政治的、社会的権力を組織化しなければなりません。そのための制度を生み出す必要があります。

さらに、社会そのものの新しい基盤を再考し、再形成することが必要です。