産業社会における権力の正統性 - 産業人の未来④

産業社会の特徴は、大量生産工場と株式会社にあります。前者は代表的な物的環境であり、18世紀から19世紀初めの村や町にとって代わりました。後者は代表的な社会的機関であり、物的現実を社会的に組織化するための機関として、荘園や市場にとって代わりました。

商業社会においては、個人の財産権が一人ひとりの人間に社会的な位置と役割を与え、権力に正統性をもたらしました。株式会社は、その商業社会の機関として生まれ、権力をもつに至りました。

よって、株式会社の権力も財産権を基盤とします。しかし、個人の財産権に基づく、その個人の権力ではありません。それは機関としての権力であり、基礎にあるのは、第三者によって委任された財産権です。

1830年から1870年にかけて、各国において会社法が立法化され、誰でも株式会社を設立できるようになりました。財産の所有者間の自由な社会契約によって株式会社を設立できるようになり、財産が本源的な至上の権力の源泉として認められることになりました。

株式会社の憲法に当たるものが「定款」です。社会契約説でいうところの「社会の形成とその正統化」および「統治の成立とその正統化」が、そこに明記されます。株主の有限責任(委譲したもの以上の責任を負わないこと)、株式譲渡の自由(離脱の自由)、統治機関に対する株主の権利など、ロックやルソーの社会契約説がここに実現されています。

社会契約説の目的は、個々の人間の存在とは別に、独立した存在としての政府や社会の存在を説明し、正統なものとすることにありました。その目的は、政治の領域よりも社会の領域で、株式会社として実現されました。株式会社における実体としての「社会」は、個人の財産権を経営陣に引き渡すことによって実現されます。

株主の主権は、引き渡した財産権に応じて維持されます。株主の主権に権力の実質はありませんが、株主の主権が経営陣の権力を生み、その権力を制限し、制御します。その範囲の権力のみが正統です。

失われた経営陣の正統性

株式会社の経営陣は、大量生産工場と株式会社をマネジメントする者として、産業社会において決定的な権力をもっていると言えます。

ところが、経営陣の権力の基盤を提供しているはずの株主の多くは、企業のコントロールと意思決定に関わる権利を放棄していました。それらの権利を負担に過ぎないとみなしていたからです。

ナチス政権前のドイツでは、銀行が顧客から株式を預託され、銀行の名において議決権を行使していました。しかも、ほとんど常に、各企業の経営陣の意向に従って行使していました。会社法が見直され、株主からの委任状がなければ議決権を行使できなくなっても、株主は進んで議決権を委任しました。

さらにドイツでは、企業経営に関わる権力の大部分が、企業外の経営陣、すなわちカルテル、業界団体、統制会の経営陣に移行していました。イギリスでも同様でした。

アメリカには反トラスト法があったため、同様の権限移行は不可能でしたが、代わりに合併による企業の大規模化が促進されました。中小企業の保護を目的とした反トラスト法が、合併による中小企業の消滅を促進したことになります。

経営陣の権力が、株主の財産権から委譲されたものでなくなれば、経営陣が会社の所有者であるかのように権力を行使できるようになります。株式の保有は、もはや所有権ではなく、将来の利益の分け前の請求権に過ぎません。

この実態は、ナチスの会社法そのものでした。経営陣は「指導者原理」のもとに固有の主権的権力をもつとされ、株主には、政府または経営陣が分け与えてくれる配当を受け取る権利以外は与えられませんでした。この会社法の内容自体はかなり前から現実のものになっていたため、法律が施行されても、国民は何も変わったと感じなかったようです。

財産が正統な権力の基盤にならなくなったということは、ブルジョア資本主義とマルクス社会主義の対立が無意味になったことも意味します。なぜなら、両者とも財産が社会の基本であることを公理としており、違いは、誰がその財産を所有すべきかということだったからです。

財産権の所有と権力が関係ないという現実は、すでに2つの革命で具体的に目にしています。

一つはナチスの場合です。会社法以外に、民間の活力、経営陣の権力、自由経済体制も消滅しました。しかし、法的な手当がなされたわけではありません。形としての私有財産と私的利益は残しましたが、政治的には意味がなかったということです。あるいは、政治が事後的にいくらでも収奪することができたということです。

もう一つは共産主義の場合です。私有財産を国有化しましたが、マルクス社会主義が予想していた平等は実現しませんでした。政府(特権階級)への権力の集中や全体主義化は、私有財産の国有化とは無関係に進行しました。

結局、経営陣の権力は株主の財産権の基盤を実質的に失い、正統性も失ったということです。正統でなければ、制御も制約もありません。その結果、何ものに対しても責任を負わないことになります。

だからといって、非難されるべきは経営陣ではありません。経営陣の権力は、望んで株主から奪ったものではなく、株主がその権利と義務を放棄したために手にしたものだからです。

当時の経営陣は自らの権力に正統な基盤を与えるため、自らの仕事を、株主の財産権のためではなく、社会全体の利益のためのものとして位置づけようと試みていました。

社会全体の利益のために働こうとすることは、経営陣の誠実さの表れですが、権力の正統性とは無関係です。たとえ善人であっても、正統性のない権力の座につけば、優柔不断と情緒不安定を生み、事態の悪化を招き、短命に終わるといいます。

したがって、経営陣の権力に正統性が欠落していることに対する答えは、無法な経営陣を追放することではなく、権力に正統性を与えることです。

財産権ではなく統制自体の獲得

結局、意味があるのは「統制」でした。本来、統制を行うために権力を求め、その基盤である財産権を実質的に獲得しようとしていたはずですが、統制は財産権とは無関係であることが分かったのです。

特に戦時経済においては、全面的政治統制が行われますから、財産権はあったとしても、政治的に意味のないものとされました。

共産主義、ファシズム全体主義、そして、民主主義国家における戦時経済を通して、ドラッカーは、政治の基本問題が、財産ではなく統制をめぐる問題になるだろうと予想しました。当時すでに、私有財産制ではなく、自由企業体制、民間主導などが論じられていました。

シュムペーターは、財産の正当化などは試みておらず、財産を、社会における中心的な要因とも、経済発展における中心的な原動力とも見ていませんでした。

シュムペーターが理論の中心に据えていたのは、民間の主導権でした。企業家的マネジメントが資本主義を正統なものとし、かつ動かすものとしていました。資本は従属的な地位にあるに過ぎず、資本を生産的なものにするのは企業家的マネジメントであるとしました。

マルクス社会主義も、重点を財産から統制へと移しました。生産手段の国有化は唱えていますが、目指すものは統制の国有化です。彼らにとっての統制とは、社会的計画のことであり、国家による計画経済が統制の国有化です。

ドラッカーは、経済を2つの部分に分けて考えます。一方は、工場、設備、機械、経営陣、労働者からなる実体経済であり、これを統合する概念が「ゴーイング・コンサーン(事業体、継続企業)」です。他方は、有価証券、請求権、財産権からなるシンボル経済です。

シンボル経済は市場に属し、市場において売買されます。

ゴーイング・コンサーンは、財産権を中心に据えた法体系では扱うことのできない実体を表しており、市場の変動にも影響を受けない存在です。つまり、シンボル経済において売買が生じたり、金銭的価値が増減したりしても、株主が主権の行使を放棄する限り、工場や機械設備の生産力あるいは経営陣や労働者の職務能力が増減することはないからです。

社会的権力は、シンボル経済の領域ではなく、実体経済の領域にあります。なぜなら、実際に財やサービスを生産し、社会に提供するのは、ゴーイング・コンサーンだからです。

しかし、実際に富をもたらすのはシンボル経済のほうです。なぜなら、ゴーイング・コンサーンによって獲得された利益は、財産権の側に属するからです。ということは、富そのものは、もはや社会的権力を意味しないということです。

働く者の位置と役割

大量生産は、技術と経済を変える原動力となりました。

生産のための方法は変わっていないので、大量生産の特徴は機械の利用方法にあるのではありません。機械の自動化や作業の機械化に意味があるのではなく、働く人間が自動化や機械化に組み込まれたことが問題です。

それまでは、働く者が訓練によって熟練の度を高めるほど、効率的、生産的となり、価値ある存在となりました。

ところが、大量生産における生産性の向上は、作業の統一化、機械化、単純化、細分化によって図られるようになりました。優れた職人の要件であった工程の理解や生産についての知識、創意や手際などは、生産活動全体の効率にとって、逆に障害となりました。

このため、ごく僅かの技術者を除き、他の労働者はすべて未熟練労働者に置き換えることが、工場全体としてはコストを削減し、生産的になり、進歩を意味するものとなりました。

しかし、機械化や自動化は、その未熟練労働者さえいずれいなくなり、自動化された機械を管理する技術者だけが残ることを示唆していました。

ここでドラッカーが重視する問題は、産業労働者の位置と役割です。大量生産が、熟練労働者を必要とすることなく膨大な量の製品を生産することを意味するのであれば、生産システムの観点から見て、個々の労働者は、個性をもたず、特有の能力ももたず、標準化された交換自由な部品としての労働力になることがもっとも生産的だからです。

産業労働者は、生産活動において位置と役割がなくなることを意味します。

産業社会においては、経済活動における位置と役割が、同時に社会的な位置と役割になりますから、たとえ産業労働者の収入が増加し、豊富に物が与えられるとしても、彼らは社会に組み込まれない存在になります。

産業労働者としては、技術者や職人としての誇り、仕事の中身の理解、必要とされる技能がなければ、産業社会において位置と役割をもつとは言えません。そこには、自分と他人を区別するもの、すなわちアイデンティティがないからです。

さらに、大量生産が代表的な社会構造になったことによって、恐慌に伴う大量失業が生じるようになりました。ドラッカーによると、かつては、いかなる恐慌においても慢性的な失業というものはありませんでしたが、産業社会では、景気が回復しても失業が執拗に続くようになりました。

失業は経済的な問題だけでなく、社会的な位置と役割を失うことによる市民権の剥奪であり、社会から見捨てられることを意味します。したがって、大量かつ長期の失業は、深刻な社会崩壊の兆しです。

ですから、失業が経済的な救済で癒やされることはありません。失業した者は社会から疎外され、気力を失い、技能も失います。無関心となり、無感覚となります。失業者は社会において異人種となり、就業者との間に社会的な絆が徐々に消えていきます。家庭においてさえ、修復できない違和感と断絶が生じます。

産業社会の構築

産業社会の問題に対する解決策として提示されたのは、社会保障、農地改革運動、労働組合運動でした。

社会保障の限界

社会保障は、産業社会における万能薬のように言われましたが、ドラッカーによると、社会保障の充実は、問題の答えにはなりません。

なぜなら、大衆が真に求めていたものは経済的な保証ではなく、社会的な位置と役割だからです。社会への参画によって、社会的な位置と役割を与えられることが必要です。

なお、社会保障に対しては様々な批判もありますが、ドラッカーによれば、必ずしもそのれらの批判が正しいとは言えません。

例えば、社会保障に専制が伴うとの批判があります。確かに、社会保障の実現には経済的権力の集中が伴いますが、規模の適切さ、自治、分権によって、民主主義と両立させることはできるといいます。

また、社会保障が働く意欲を削ぐという指摘もありますが、そこには誇張があるといいます。保障による生活水準を考えたときには、国民の多くが政府に頼る怠け者になるおそれはさほどないといいます。もちろん、保障を受ける方が得であるということになれば、話は違ってきます。

しかし、歴史の教訓としては、経済的満足は社会的にも政治的にも消極的な意味しかもち得ません。経済的な不満は、深刻な社会的、政治的亀裂をもたらしますが、経済的な満足だけで機能する社会をもたらすことはできません。

その意味で、経済は人間にとってビタミンのようなものであると、ドラッカーは言います。その欠乏は深刻な病気をもたらしますが、それ自体にカロリーはありません。

農地改革運動の錯誤

ドラッカーは、労働組合運動と農地改革運動について、産業社会における先駆的な運動の例としてあげます。

いずれも、社会構造に関わる問題を重視したからです。信条、秩序、人間の本性、生きがいまで視野に収めていました。個人の財産がもつ意味の重要性について、権力や支配の基盤としてではなく、人間の尊厳と独立に関わる問題としてとらえていました。

しかし、農地改革運動は、産業社会の否定を前提としていました。商業的田園社会にとどまり、産業社会になり得ていないことが、社会として十分機能するものになっていない理由でしたが、その問題に触れることはできませんでした。

労働組合運動の問題

労働組合運動は、働く者が商品としてではなく、自己規律と尊厳の権利をもつパートナーとして扱われるべきことを要求しました。

ドラッカーは、労働者か組織を必要とし、保護を必要とするがゆえに、それらのものを唯一与えることができる労働組合を重視しました。また、労働組合は、労務管理上も有用であるとしました。社会の抗体であり、解毒剤であるという意味において、経営陣にとっても資産であるとみなしました。

ただし、労働組合は、経営陣に対する拮抗力として意味をもち、チェック機関として価値をもちます。それ自体が単独で存在価値があり、何か前向きなものをつくりあげることができるわけではありません。

しかも、労働組合の権力が、制御されず、責任も負わず、正統性ももたないことは、経営陣と同様です。なぜなら、一人ひとりの労働組合員は、自らの権利を行使しようと思わないからです。意思決定を避け、責任を労働組合幹部に委ねるために組合に入っているので、権利をいかに行使するか、そこにいかなる目的があるかさえ知らないといいます。

ですから、労働組合幹部は、何ものにもコントロールされることのない存在となります。労働組合員が組合幹部の選任の権利を行使するのは、破局が起こった後です。

むしろ、労働組合は、企業の経営陣よりもさらに非民主的です。株主の場合は、いつでも株式を売却できますが、労働組合員の場合は、いつでも仕事を辞めて、生計の資を失うというわけにはいきません。労働組合を辞めることができたとしても、その影響下にある会社を辞めることは簡単ではありません。

ドラッカーによると、労働組合の執行部は、企業の経営陣に対置され、両者の違いは僅かです。先進国では、両者の考え方はほとんど同じですから、企業の経営陣に代えて労働組合のリーダーを権力の座に据えても、おそらく何も変わりません。支配者が代わっても、支配の中身は変わりません。むしろ、正統ならざる権力の横行という危険が増大するといいます。

労働組合社会においては、一人ひとりの人間を社会に組み入れることができません。個人の位置と役割がないからです。労働組合が行うことができるのは、産業社会という前提のなかで、働く者が政治的、経済的に搾取されないようにすることだけですから、労働組合社会としての目的、個人の目的はありません。

権力の正統性の基盤

産業社会が機能するための根本的な解決策がなかった当時において、マルクス社会主義者ジェームズ・バーナムの主張が議論を呼んだといいます。

その特徴は、権力に正統性の必要を認めないことでした。経営陣が力をもつにつれ、その権力は必然になるとしました。つまり、権力をもてばそれ自体が正統性をもつようになるということです。その理論から、ナチズム、共産主義、ニューディールの間には、マネジメント上の支配の現れ方に違いがあるだけだと主張しました。

権力をもった者が、何であれ理念を掲げ、それを必然とするならば、奴隷制でさえ正統性をもちます。現に、バーナムは、すべての産業国はファシズム全体主義に進まざるを得ないと主張しました。

ちなみに、ドラッカーは、ファシズム全体主義とニューディールの間に共通しているのは、企業の経営陣に対する攻撃だけであり、両者の違いをマネジメント上の支配の現れ方の違いとすることはばかげていると指摘しました。

ナチズムは、経営陣の政治的権力を抹殺し、中央政府が没収しました。ニューディールは、経営陣の社会的、政治的権力を剥奪し、多数派支配の政治的機関に移行させようとしました。

アメリカでは、ヘンリー・フォードが労働組合やニューディールと闘いました。その際、ヘンリー・フォードは大衆からの支持を得たといいます。株主の主権を、労働組合や政治的機関が侵害することを認めなかったということです。ここから、アメリカ国民は、依然として財産権を正統な権力の基盤としていると分かりました。

しかし、経営陣の権力については、大衆は支持しなかったといいます。このことは、バーナムの主張が受け入れられないということを意味します。経営陣の現実の支配による実績が明らかであっても、それが必然となって正統性を生むわけではないということです。

要するに、社会的権力の行使は、一般に容認された理念を基盤とする限りにおいて正統性をもち得るということであり、そうでなければ専制となります。したがって、永続性はなく、国民の要求によって政府が没収することになりかねません。

しかも、社会そのものが存在できなければ、社会的権力の正統性もありません。いかなる社会も、一人ひとりの成員を組み入れ、位置と役割を与えることができなければ、社会は解体せざるを得ません。

大衆は反逆しませんが、しらけ、自由に伴う責任から逃げるようになります。そこに現れるのは、無秩序や圧政によって自由そのものが消え去る姿です。社会的権力はすべて政治的権力に没収されます。