自由な社会と自由な政府 - 産業人の未来⑥

ドラッカーが人間の自由を論じるに当たっては、社会の成員としての人間であり、社会を離れての人間はないという前提です。

したがって、個人にのみ関わる領域だけでなく、社会において価値があるとみなされる領域で保障される自由でなければなりません。

また、社会の成員としての自由であっても、それは個人に属するものです。したがって、これに対立するような集団的自由というものはありません。もし、個人の自由に対立する形で集団の自由を認めるならば、少数派の自由に対する多数派の自由の優位、弱者の自由に対する強者の自由の優位が容易に導き出され、全体主義に向かうことは必然だからです。

自由とは、選択のために自ら意思決定を行う責任を果たすことです。このような自由が与えられるべき根拠を、ドラッカーは、人間の不完全性に置きます。人間が完全であるならば、唯一絶対の選択が必然であり、自由な選択に意味がないからです。

ドラッカーは、自由に伴う「責任」を重視します。それは自らが属する社会に秩序をもたらすためだけでなく、人間が自由であり続けるためにも必要だからです。人は、意思決定の責任を逃れるために自由を放棄した結果、ファシズム全体主義がヨーロッパ全体を苦しめることになりました。

自由な社会を維持するためには、自由な政府すなわち「自治」が必要です。優れた政府や政体を選択しようとするのではなく、優れた政府や政体など存在し得ないということが前提です。優れた人に政治的自由を委ねようとするのではなく、一人ひとりが責任ある自由を行使しようとすることが重要です。

自由とは何か

人間にとって自由を論じるに当たって、ドラッカーは、社会の成員としての人間を前提とします。したがって、自由を、単なる放任や無制限、解放といった意味でとらえることに意味はありません。

その自由は、社会から個人が圧制を受けないようにすると同時に、個人が社会に害を与えないようにするためのものでもなければなりません。

意思決定と責任

社会の成員である人間にとって、自由とは、何かから解放されることではありません。好き勝手に生きることでもありません。単に幸福や平和であることでもありません。

ドラッカーの言う「自由」とは、選択のために自ら意思決定を行う責任を果たすことです。その意味で、権利というより義務です。

意思決定と責任を伴わない自由はありません。自由がなければ、たとえ幸福や平和であったとしても、それは独裁によって与えられたものであり、自ら獲得したものではありません。

ドラッカーによれば、自由は、人間存在の原初的状態ではありません。人間は、慣習、禁忌、伝統、魔術的祭儀によって、しばしば選択と責任を避けてきたからです。その意味で、人間は本能でも自由を志向しているとは言えません。要領さえよければ、選択の負担と責任の重圧から逃げようとします。

不完全な人間に伴う自由

それでも、ドラッカーは、人間にとって自由が必然であると言います。なぜなら、いかなる人間もその集団も、絶対の知識、絶対の確信、絶対の真理、絶対の正義を手にすることができないからです。

この自由は、西洋におけるキリスト教の人間観に基づきます。不完全で弱く、塵より出でて塵に帰すべきものでありながら、神に似せてつくられ、自らの行為に責任をもつものとしての人間観です。

もし人間が完全無欠であれば自由は不要であると、ドラッカーは言います。常に唯一最善のものを知ることができ、それ以外に選ぶべきものがないからです。

「人間は不完全であるからこそ、選択の自由が必要である」というのが、ドラッカーの自由論です。

また、自由の行使に責任が伴うからこそ、政治的にも自由の保障が可能になります。責任の伴わない自由は、政治的に容認できません。すべての人間が無責任の自由を勝手気ままに行使するならば、そこに現れるのは無法地帯です。社会の秩序を維持することはできません。

不完全な人間のなかで、もし唯一の完全無欠な人間として認められた者が存在するならば、必然的に独裁者となります。最善を知り得るのはその者以外にないので、他の不完全な者に選択と意思決定の自由を与えることはできません。不完全な者による批判、抵抗、反対はすべて否定され、抑圧されなければなりません。そのための拷問、強制収容所、銃殺隊、秘密警察はすべて正当性をもちます。

なお、絶対の真理を知り得ないことと、絶対の真理の存在を否定することとは、意味が違います。

前者は、人間の完全性を否定しても、絶対の真理は肯定します。したがって、そこに近づこうとする人間の努力を肯定します。社会にとっての正義があり、社会に対する責任を求められ、選択の意思決定に関して改善の余地もあります。

後者の場合、人間の不完全性という前提がなくなります。意思決定の基準は自分の欲求の充足であり、求めるものはすべて必然です。不完全性に伴う選択はなく、責任さえ意味をなしません。社会の成員が皆、自分の利益を争いますが、最終的には、もっとも強い力をもつ者が意思決定を欲しいままにします。意思決定は強者の権利です。弱者の意思決定や反対意見を述べる権利に根拠はありません。

絶対の真理を肯定しつつも、人間は皆不完全であり、その真理を完全には知り得ないという前提があってこそ、すべての者に自由があるということができます。

社会における自由

自由は個々の人間に属するものですから、これに対立するような社会の自由というべきものはありません。

社会が秩序をもって維持されるためには、一人の人間の自由によって生じる被害から身を守る権利をもつはずですから、そのことが個人の自由に限界を定めることはあります。だからといって、個人の自由が否定されるものではありません。

ですから、多数派の自由が少数派の自由よりも優先されたり、強者の自由が弱者の自由よりも優先されたりすることはありません。

また、人は、その個人的な行為だけでなく、自らが属する社会の行為についても意思決定に参画する権利と義務をもちます。社会の行為について、意思決定を放棄し、他の者に任せることによって責任を免れることはできません。意思決定に参画することを拒否することもできません。

意思決定の場に参加しない自由もあると考えるかもしれませんが、それは責任(義務)の放棄ですので、本来の自由ではありません。ただ、別の意味では、それ自体が一つの意思決定であるとも言えます。社会の成員である以上、その結果に対する責任を免れることはできません。

個人の自由は、政治的、社会的には「自治」を意味します。社会の成員一人ひとりの権利であり義務が、社会全体として総合されたものです。個人に意思決定の自由が与えられ、社会の意思決定に参画する自由が与えられ、かつ、そこに責任が伴ってこその自治です。

したがって、自由とは、社会に必然的に伴う原理であり、制度によって付与されるものではありません。制度は、社会の成員がもつ自由の行使によって選択され、決定されるものです。

さらに、自由とは、純粋に「形式」としての原理です。つまり、意思決定によって何かを選択するという意味しかなく、選択の拠り所に当たるような理念や信条を必然的に含んでいるわけではありません。ですから、人間活動や社会の目的に関わる理念や信条が別途必要です。それが自由を方向づけます。もちろん、その理念や信条も、自由によって選択されるものでなければなりません。

したがって、自由をもった人間が集まって社会を構成し、維持していこうとすれば、まず初めに実現されるべきものは政治的自由、つまり政治体制や政治制度を選択する自由です。ドラッカーによると、「政治体制」とは「社会の目的とその実現のための意思決定を可能とするために、権力を組織化するメカニズム」です。

要するに、個人の自由を集約し、方向づけ、いわば共同の力として承認されたものにしなければ、社会の秩序は成り立たないのです。この力を「権力」と呼び、権力を生み出す仕組み(メカニズム)が「政治体制」です。

権力のもとでは、一人ひとりの自由が一定の制限を受けることになりますから、最初の政治体制をつくる段階において、個人の参画する自由が保障されていることが、最低限必要です。民主主義国家では、通常、それは選挙権や被選挙権です。

ただし、個人の自由が形式的なものであるのと同様に、政治体制自体が生み出す権力も道具に過ぎません。社会の目的や価値に関わる理念そのものを必然的に含むものではありません。

つまり、政治的自由は、必要条件であって十分条件ではありません。この点は重要です。政治的な自由があれば、立法による自由な社会が実現すると思われがちですが、自由な社会は法律によって生み出すことはできません。逆に法律によって自由を奪うことさえできます。ナチズムでは、国民の政治的な自由の行使によってヒトラーに全権が委任され、自由の剥奪が立法化されました。

さらに、自由は、その時代のその社会の中心領域において実現されなければ意味がありません。中心領域とは、その社会において価値とされ、理想とされ、社会から名声や褒賞が得られる領域です。例えば、ある時代のある社会では、その領域は経済であり、別の場合は宗教、あるいは文化でした。

たとえ経済的自由が与えられていたとしても、その成果が社会的に価値として認められなければ、その自由に意味はありません。ファシズム全体主義がまさにそうでした。ブルジョアに経済的利益を得る自由は与えられていましたが、彼らには社会的にも政治的にも低い地位しか与えられませんでしたから、利益は価値のないもの、蔑むべきものとみなされました。しかも、経済的利益は、政治的な権力によって税金や寄付として収奪されました。

さらに、ドラッカーは、自由な社会の建設は、政治体制ではなく社会制度に待たなければならないと言います。例えば、アメリカにおける合衆国憲法への敬意は、法律によっては生み出すことのできない一つの社会状況であると言います。

現に、ワイマール憲法は合衆国憲法と同等以上に優れた憲法であったにもかかわらず、社会的に意味をなさず、自由の擁護に失敗しました。国民は戦争と恐慌を経験し、平和と平等のために、自由を自ら放棄し、ヒトラーに委譲しました。つまり、当時のドイツ社会では、政治体制として保障されていた自由が、社会制度としては、平和や平等よりも価値のないものとみなされたということです。

この記事を執筆している2022年現在、アメリカの政治やマスコミは極端に左傾化し、ポリティカル・コレクトネスや批判的人種理論などが横行し、特定の言論の封殺、一定の主義主張に対する暴力的弾圧、裁判における陪審員への脅迫などがまかり通っています。よって、合衆国憲法修正第1条(宗教・ 表現・報道の自由、平和的集会等の権利)への敬意は失われつつあると言えます。

また、カナダにおいては、コロナ禍に乗じた行き過ぎた圧政に対する抗議活動への政治圧力、募金の凍結や没収といった、およそ民主主義国家とは呼べないような権力乱用が行われています。カナダ憲法の起草者であり、唯一の生存者が憲法違反で訴訟を起こす自体にまで発展しています。コロナ禍において健康を守るために、個人の自由を放棄し、政府に委譲するということです。ファシズム全体主義が現在進行形で台頭する様を見ているようです。

自由は、法ではなく理念と社会に依存していることを忘れてはいけません。立法の力だけでは、制度的な構造、社会的な信条、人間の理想像を創造し、規定することはできないということです。

価値に関わる意思決定としての自由

先に述べたとおり、自由は、その時代のその社会の中心領域において実現されなければ意味がありません。つまり、社会において価値があるとみなされる領域において自由が行使できなければ、自由が保障されているとは言えません。

これをさらに遡って言えば、社会において何を価値あるものとするかの選択の段階において、自由が保障されていることが必要です。これは、社会の目的に関わるものです。

目的の選択とは、社会にとって何を「より良いもの」とみなすかの選択であり、何を選び、何を優先し、何を捨てるかを選択することです。「より良い」とは何かということは、不完全な人間にとって議論が分かれる価値判断ですから、社会にとって重大な責任を伴う意思決定になります。

しかし、価値に関わらない領域の選択もあります。主に手段の選択に関わるものです。例えば、科学技術の領域においては、通常、その時点の知見に基づく正しい答えがありますから、選択は客観的必然です。人間の意思による選択はなく、自由の問題もありません。

また、利害関係はあっても、どれに決めるかだけの問題であれば、やはり技術的な問題です。

さらに、個人に関わる意思決定は、社会的な影響を与えないのであれば、社会の成員としての自由の問題ではありません。例えば、どの宗教を選ぶか、どの大学に進学するか、退学するか、就職を選ぶかなどは、個人にとって重要であっても、社会的責任とは関わりがありません。

したがって、そのような個人的な選択や技術的な選択が許されているから自由な社会であるということはできません。社会に対して影響を与えるような価値の領域における意思決定の自由が個人に与えられていてこそ、自由な社会です。

自由のための政府

人間が不完全であるから自由が必然であるとすれば、人間の自由は一定の統治のものとに行使されなければならないことになります。そうでなければ、社会の秩序は維持できません。

つまり、第三者としての規則、権威、調停者として、権力が組織化された政府が必要です。政府があることによって自由が保障されると同時に、不完全な人間の意思決定による弊害を調整したり、取り除いたり、責任を取らせたりすることもできます。

そのために、政府は権力をもちます。その権力は、人間が自由であるために必要なものですが、一定の制限が求められます。制限がなければ、逆に自由を抑圧するからです。しかも、それは自治でなければなりません。政府自体が、人間の自由によって選択され、公式の手続きによって運営され、不適切な場合は解任されるものでなければなりません。

ドラッカーは、アメリカやイギリスで見られる司法による行政審査こそ、自由を守るための最強の砦であると言います。

行政は法執行機関であり、人治ではなく法治であると言われますが、ドラッカーに言わせればナンセンスです。なぜなら、政府は人が運営し、意思決定を行っているからです。意思決定を行う以上、人間の判断が行われるということであり、人治が入り込まざるを得ません。

政府の意思決定こそが、政治の実体そのものです。意思決定の形式や手続きや方法は法律に基づくことはできても、個別の事案に対する意思決定の内容は、人間のその都度の判断を排除できません。これらをすべて法律によって規定しようとすることは、むしろ絶対化した法文専制であり、硬直化した官僚支配になります。

自由な政府を実現するには、市民一人ひとりの責任ある積極的な参画が不可欠です。市民が自治の重荷を自発的に担わない限り、自由な政府はあり得ません。

多数派支配の概念

自由な政府と多数派支配は両立するとは限りません。多数派支配とは、多数決の原理によってすべてを決定するものです。

民主的政府では、多数決の原理が用いられることが多いため、多数派の決定が少数派よりも合理的であり真理に近いと考えられています。しかし、問題は多数派が正しい選択をするかどうかではなく、多数派支配が自由な社会をもたらすかどうかです。

ドラッカーの答えは、「否」です。なぜなら、常に多数派が数のゆえに正しいということになれば、少数派の意見は常に間違いとなり、多数派に抵抗する権利は誰にも認められなくなるからです。そのような多数派支配は専横であり、自由に反する原理です。

自由とは、元より個人が有するものですから、多数派の権利に反する独立した存在としての少数派および個人の権利と義務を尊重することでなければなりません。しかし、多数派支配を容認する人々は、自らが自由の側にあると誤解しており、市民の自由と少数派の権利の増大を願っていると真面目に誓いますが、多数派支配である以上、それは実現されません。

例えば、この記事を執筆している現在、少数派の権利を声高に叫び続けてきたカナダのリベラル政府が、政府のワクチン政策に反対する人々に対し、「少数派によるヘイトである」と避難し、弾圧を加えています。

また、アメリカやカナダでは、リベラル政府やマスコミが、BLM(Black Lives Matter)による暴動を容認しているにもかかわらず、BLMを批判する人々のことは無条件で避難し、言論を抑圧しています。さらに、BLMが、その批判する人々を脅迫しても、それを容認しています。

日本では、日本に住む少数派である外国人に政治参加の権利を与えるべきと主張し、外国人参政権の導入を推進するリベラル派が、外国人参政権に反対する外国人タレントに対し「外国人は黙っていろ」と避難しています。

優れた政府ではなく自由な政府

ドラッカーによると、自由な政府に関心をもつキリスト教の伝統に立つ政治学と、より優れた政府に関心をもつアリストテレスの政治学とが混同されていると言います。優れた政府を説く理論のことごとくが、明確に自由を否定するものであることを記憶しておかなければならないと言います。

「優れた政府など存在し得ない」ということが自由の前提です。優れた政府を保証できないから、自由を保障する意味があります。優れた政府が存在するなら、その英知にすべてを任せるべきという議論になり、自由は不可能になります。

優れた人間が支配することによって優れた政府ができることは認めることはできても、その優れた人を確実に選ぶための方法は存在しないと考えなければならないと、ドラッカーは言います。

したがって、重要な問題は、優れた政府をつくることではなく、自治によって自由な政府をつくることです。一人ひとりが責任を負わなくてすむような優れた人を選ぼうとするのではなく、一人ひとりが自由を手放さず、責任を果たそうとすることが重要です。

民主政体、君主政体、寡頭政体のうち、いずれが優れ、いずれが暴政であるかという議論は意味がありません。いずれにおいても優れたものが歴史上あり、いずれにおいても暴政はあり得ます。政体の優劣を議論する限り、自由にとっての脅威はなくなりません。

しかし、人間が不完全であり、政府もまた不完全であることをもっともよく反映した政体が、民主政体です。統治する政府が、統治される市民の同意を必要とすることは、政府の権力に対する強力な制限であり、政治的自由の防衛であることは間違いありません。議会や投票による選挙は、自治を実現する道具になり得ることも事実です。

ただし、市民が責任ある意思決定に参画することによって自由を行使することが条件です。道具は積極的に使われることが必要です。しかも、選挙に参加しさえすれば、それ以上の責任を放棄できると考えるならば、多数派による専制を許すことと同じになります。

政治の権力と社会の権力

さらにドラッカーは、政治的な自由だけでは、自由な政府に対する2つの危険を防ぐことはできないと主張します。一つは多数決による多数派支配に陥る危険であり、もう一つは民主的な自治が特定の党派による圧政に落ちる危険です。

それらを防ぐには、社会的な自由も必要であると言います。アメリカの建国の父たちやイギリスのバークは、自由な政府とは別に自由な社会を築き、両者の統合に成功したといいます。

政府と社会は別の秩序とされました。政治の権力と、社会秩序の権力とは、異なる正統性の原理を基盤とするため、相互に牽制されるようになりました。

もちろん、政治と社会の間には、明確な境界があるわけではありません。また、社会のなかには完全な自由放任があるわけでもありません。社会に秩序があるということ自体、統治があることを意味します。

重要なことは、自由な政府の基盤としての多数派の意思が、多数派支配による暴政にならないよう、別のものによって牽制される必要があるということです。そのために、社会的な領域における権力の基盤が必要であり、それが政治的、法的、制度的に、政府の権力に対抗できる必要があります。逆に、社会的な権力もまた、政府の権力によって牽制されなければなりません。

ドラッカーは、政治と社会の相互牽制は、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というイエス・キリストの教えに遡ると言います。これにしたがって、アウグスティヌスは、神の王国としての社会をこの世の政府から分離し、社会秩序を教会が担いました。

しかし、この政府と社会の分離という考えが、現実の政治に適用されるようになったのは、アメリカの建国の父たちからであり、イギリスのバークらからであるといいます。問題解決の鍵は、2つの領域を分離するとともに、それぞれの権力の正統性の基盤を異なるものとし、かつ、同等の地位に置くことでした。ただし、いずれの領域においても、すべての基本は、市民による責任ある意思決定と責任ある参画にあるとされました。

政府に正統性を与えるものは多数派の同意であり、社会を支配するものは私有財産でした。当時の社会の中心は経済の領域だったからです。財産権が多数派の権利を制限し、多数派支配を防ぎました。また、多数派の権利が財産権を制限し、金権主義を防ぎました。

なお、財産権とは「お金」だけではありません。学力、技能、知識などの能力も人間の財産権です。労働市場によって売買される対象です。これによって組織の仕事において意思決定を行い、社会に影響力を行使できます。しかも、その「財産権」の大きさによって、一人の人間の影響力も大きく異なります。その影響力は、社会における事実上の権力です。

政治においては数が問題であり、一人ひとりの能力の違いは考慮されませんが、社会においては一人ひとりの能力(財産権)の大きさが問題になります。この違いが、相互牽制になります。