社会 ー ポスト資本主義社会①

ドラッカーによると、1750年から1900年までの150年間に、資本主義と技術革新が世界に広がりました。

資本主義の存在と技術の革新自体は、特に新しいものではなく、さまざまな時代や地域に存在したと言われています。偉大な発明が広く普及することもありましたが、以前は一つの技能あるいは応用にとどまっていました。

ところが、産業革命の場合は、あらゆる発明が、直ちに、あらゆる技能や産業で応用され、世界中に広がりました。

それに合わせて、大規模で集約的な生産が要請され、資本主義も急速に広がったと言うことができます。

ドラッカーによると、産業革命を可能にしたのは「知識」の意味の基本的な変化です。

元来、「知識」は常に「存在」に対して適用されるものでした。それが変化し、「行為」に対して適用されるようになりました。知識は実用的な資源となり、公的な財となりました。

まず、道具、工程、製品に適用され、産業革命につながりました。ここで、マルクスが、疎外と新しい階級と階級闘争の出現を予測して、共産主義を説きました。

ところが、1880年頃から、知識は仕事に適用され、生産性革命がもたらされました。プロレタリアートはブルジョワとなり、階級闘争と共産主義は根拠を失ったのです。

第二次世界大戦後には、知識は知識に適用され、マネジメント革命につながりました。

知識の意味の変化が、資本主義やマルクス主義を超えて、知識社会を生み出しました。それは、多元的な組織社会でもあります。

知識は資本や労働の意味を根本的に変える一方、知識労働者やサービス労働者に関わる新たな問題を提起します。

資本主義から知識社会へ

知識の新しい意味

マックス・ウェーバー(1864年~1920年)は、プロテスタントの倫理が「資本主義」を生み出したと指摘しましたが、信憑性も、十分な根拠もないと言われています。

資本主義や技術革新が世界的な社会現象となるために欠かせなかったのは、1700年頃かその少し後にヨーロッパにおいて広く見られた「知識」の意味の急激な変化です。

ソクラテスは、知識の唯一の機能は自己認識、すなわち知的、道徳的、精神的成長にあると考えました。プロタゴラスは、知識の目的は「何をいかに言うかを知ることにある」としました。つまり、論理、文法、修辞といった一般教を意味していました。

儒教でも、知識は「何をいかに言うかを知ること」であり、昇進と世俗的成功への道でもありました。道教と禅宗では、知識とは自己認識であり、悟りと知恵への道でした。

知識は「行為能力」と関係がなく、効用でもありませんでした。「技能」が効用であり、技能を学ぶ方法は徒弟となって経験を積むことでした。言葉や文字では説明できず、見習うしかなかったからです。

1700年以降も、イギリスでは「ミステリー(秘伝)」という言葉が使われ、技能をもつ者は、その秘密を守ることを誓わされたといいます。

産業革命

1700年以降、僅か50年の間に、「技術(テクノロジー)」が発明されました。

経験や作業を知識に、秘伝を方法論に、徒弟制度を教科書に置き換えたことが、産業革命による社会と文明の転換の本質でした。

技能から技術へ

18世紀にフランスやドイツで技術学校が設立され、「エンジニア」という職種が生まれました。イギリスでは、知識を道具、製品、工程に適用することを奨励し、特許の導入によって発明が普及しました。

さらに、1751年から1772年にかけて、ディドロ(1713年~1784年)とダランベール(1717年~1783年)が『百科全書』を編纂しました。 職人ではなく、分析、数学、論理学の能力をもつ情報の専門家が書いたことが重要でした。

技能に関するあらゆる知識を体系的に分析し、まとめあげ、徒弟でなくとも技術者になれるようにするものでした。技能から技術への変化です。

資本の大規模化と集中

技術変化のスピードが速かったため、大量の資本需要が生まれました。新しい技術は、生産の集中を必要としました。大規模な動力源が必要であり、動力源は分散できなかったことも、集中を加速しました。

生産の集中は、知識の効果的な適用も可能にしました。

生産活動の中心は技能から技術に移り、資本家が経済と社会の中心になりました。

1750年には大規模な事業体は国有でしたが、1830年には、西洋において民間の事業が中心となりました。マルクスが死んだ1883年には、民間事業が、ほぼ世界を席巻しました。

マルクス主義の台頭

工場労働者の生活はつらいものでしたが、田舎の底辺で飢えに苦しむより遥かにましでした。

ヨーロッパの工業化された都市部では、乳幼児死亡率が急速に低下し、平均寿命は急速に伸び、人口は急速に増加しました。同じことが、第二次世界大戦後の第三世界でも起こりました。

マルクスによれば、プロレタリアは疎外され、搾取されるはずでした。生計の資を得るためには、資本家の生産手段に全面的に依存せざるを得ないからです。

会社はより少数のより巨大な資本家に所有されるようになり、無力なプロレタリアはますます窮乏化し、ついに、資本家はプロレタリアによって打ち倒され、資本主義は崩壊すると予言されました。

19世紀末の思想家のほとんどは、マルクスに同意していました。イギリスのディズレーリ(1804年~1881年)やドイツのビスマルク(1815年~1898年)も同様で、福祉国家に至る一連の社会政策の導入につながりました。

生産性革命

現実には、マルクスの予言とまったく正反対のことが起こりました。その原因は「生産性革命」です。

1881年、テイラー(1856年~1915年)が科学的管理法を導入し、仕事の研究、分析、エンジニアリングに知識を適用しました。それ以前、より多くを生産するための方法は、より長い時間、より激しく働くことでした。

科学的管理法は、短期間で未熟練労働者を訓練する方法に応用されました。技能の習得期間を劇的に短縮し、生産性を爆発的に増大させました。テイラー以降、生産性は約50倍に増加したといいます。

その結果、先進国における生活水準と生活の質の向上をもたらしました。購買力、自由時間、医療費や教育費の増大をもたらしました。製造業のブルーカラー労働者が、資本主義と産業革命の最大の受益者となったのです。

資本主義や産業革命による生産性の向上は、一般的に指摘されているような設備投資や機械のおかげではなく、知識を仕事に適用した成果です。

ところが同時に、ブルーカラー労働者が劇的に減少する結果ももたらしました。

(参考:「科学的管理法」とは何か?

マネジメント革命

正規の教育によって得られる知識が、経済活動の中心的な資源となりました。他の生産要素は二義的で、知識に対する制約条件となりますが、知識があれば入手可能でもあります。

この場合の知識は、効用としての知識、社会的・経済的成果を生み出すために、既存の知識を有効に適用する方法としての知識であり、「マネジメント」です。

この知識は、既存の知識を使って新しい知識を見出し、それを効果的に使うということでもありますから、体系的な「イノベーション」をも意味します。

ドラッカーは、ポスト資本主義社会における知識の変化を「マネジメント革命」と呼んでいます。

ドラッカーによると、マネジメント自体は大昔からありましたが、一つの仕事であると理解されるようになったのは第一次世界大戦後であり、体系的なものとして明らかにされてきたのは第二次世界大戦後であるといいます。

第二次世界大戦中とその後、経営管理者(マネジャー)とは「部下の仕事に責任をもつ者」であり、地位と権力を意味しました。1950年代の初めには、「他の人間の働きに責任をもつ者」と定義されるようになりました。

今日では、「知識の適用と働きに責任をもつ者」です。

一般的知識から専門知識へ

産業革命、生産性革命、マネジメント革命に至る知識の変化は、一般的知識から専門知識への移行を意味します。

過去に論じられてきた「教育ある人間」はゼネラリストでした。教育の起源は、中世の三大科目である文法、論理、修辞(「リベラル・エデュケーション(教養課程)」)です。行動のための知識ではありません。

現代の知識は、行動にとって効果的であり、成果に焦点が当てられたものです。社会と経済、あるいは知識そのものの発展につながるものです。

知識が成果を生むためには、高度に専門化していることが不可欠です。そのような知識は、かつて「テクネー(技能)」と呼ばれ、地位の低いものでした。

テクネーは、具体的な何かの作り方であったり、使い方であったりするもので、訓練と経験によって習得するものでした。法則がなく、学ぶことも教えることもできないと考えられていました。

今日の技能は、個別具体的なものの背景にある専門知識が一般的に応用可能なように体系化され、教育によって教え、学ぶことができるものです。科学的理論に裏づけられた定量的手法であり、エンジニアリングです。

新しい社会は、このような専門知識と専門家である知識人を基礎として構成されます。専門家の力を一つの社会につなぎ、人生を意味あるものにするために、組織が必要です。

組織社会

組織とは、共通の目的のために働く専門家からなる人間集団です。特定の目的の下に設計され、形成されるため、それ自体が専門化された一つの機能です。

組織の内部的な機能は、専門知識を生産的にすることです。知識は専門化することで効果的になりますが、特定の専門知識だけで成果をあげることはできないため、組織が専門家の仕事を統合して成果につなげます。

「組織」という共通概念

軍隊、協会、大学、病院、企業、労働組合は、長い期間にわたって存在し、詳細に研究、分析されてきました。しかし、それぞれが別々のものとして扱われてきました。

ドラッカーは、組織を、ポスト資本主義社会の「社会的生態系」ととらえます。さまざまな種類があり、それぞれ異なっているように見えますが、共通する点のほうが多いといいます。それが「マネジメント」の機能です。

組織に求められる特性

共通目的

組織の内部は、限定された知識をもつ専門家によって構成されます。

組織の目的が明確でなければ、構成員である専門家たちは混乱します。自分の専門能力に基づいて自己中心的に動くようになり、自分の専門能力に基づく価値観や成果を組織に押しつけるようになってしまいます。

モデルは、オーケストラです。それぞれ別々の楽器専門の演奏者が、同じ一つの楽譜(目的)をもつことによって、一つの曲を演奏することができます。演奏は、一度に一曲だけです。

客観的な成果

組織の成果は、常に組織の外部にあります。構成員から見ると、自分の活動とは離れたところに組織の成果が生まれることを意味します。

ですから、期待される成果も明確で誤解のないように定義されなければなりません。客観的に測定できるように定義され、評価・判定できなければなりません。

自由な参加

組織への参加、離脱、移動は自由でなければなりません。

実際、知識労働者は、もっとも重要な生産手段である「知識」を所有しているため、知識組織になっていくにつれ、組織から組織への移動はますます容易になっていきます。

自らの専門知識を最大限に生かせる組織を求めて自由に移動できることが、組織の成果と知識労働者の自己実現を一致させ、相乗効果を与え、社会に生み出す富を最大化するために必要なことです。

組織は、適格で献身的な知識労働者を求めて互いに競争するようになりますから、組織への参加、定着、貢献、満足のためのマーケティングが求められます。

同僚としてのチーム

知識専門家による組織は、上下関係ではなく、同僚の関係からなるチーム組織です。知識自体に上下関係はないからです。共通の目的にしたがって各専門家に求められる貢献が、知識の位置づけを決めます。

リーダーによるマネジメント

組織では共通の目的に向け、常にマネジメントが行われなければなりません。リーダーがマネジメントを担います。知識労働者のマネジメントは、指揮命令ではなく、方向づけることだからです。

リーダーは、組織の最終的な意思決定を担い、組織全体の目的や仕事や成果について責任を負います。

組織の独立

成果をあげる組織は独立していなければなりません。政府機関の部門であろうとも同じです。組織の目的は公的に与えられるとしても、組織の運営においては、自律的に仕事ができなければならないということです。

自律的な行動が制限されるなら、人は動機づけられず、やる気を失い、成果をあげることはできません。

変革機関としての組織

ポスト資本主義社会における組織は「変革機関」でなければなりません。知識は急激に変化するからです。

確立されたもの、習慣化したもの、馴染みのもの、満足すべきものを体系的に廃棄していくように組織されます。「創造的破壊」によって廃棄し、新しい知識に入れ替えていかなければ、時代遅れになります。

一般的に、知識に対して最大の影響を与える変化は、その知識の分野とはまったく違うところで起きます。

新しい科学や技術だけでなく、社会的なイノベーションが新しい知識を生み、古い知識を陳腐化していきます。歴史的にも、社会的イノベーションのほうが大きな役割を果たすことが多いといいます。

イノベーションは、教え、学ぶことのできる体系です。これが最大の変化であると言えます。

創造的破壊

体系的廃棄では、数年ごとに、あらゆる工程、製品、手続き、方針について、「もしこれを今行っていなかったとして、今分かっていることをすべて知りつつ、なお、これを始めるか」と問います。

答えが「否」であれば、「それでは今、何を行うべきか」と問います。行っていたことについては、再検討するのではなく廃棄します。

同時に、自らの内に「新しいものの創造」を組み込まなければなりません。それは、3つの体系的な活動です。

第一は「改善」です。2~3年後には、製品やサービスをまったく新しいものにしてしまいます。第二は「開発」です。すでに成功しているものについて、新しい適用方法の開発を行います。第三は「イノベーション」です。体系的なプロセスとして組織的に行います。

これらを行わないと知識組織は急速に陳腐化し、成果をあげる能力を失います。知識労働者を惹きつける力も失い、陳腐化に拍車をかけることになります。

文化の衝突

ポスト資本主義社会は、多様な組織によって分権化された社会です。それぞれの組織は、特有の役割のみを果たすために存在します。その役割の性格が、組織の文化や価値観を決めます。

例えば、製造業と政府機関が同じ地域にあっても、組織の文化や価値観は違います。しかし、ある地域の政府機関と他の地域の政府機関は、組織の文化や価値観が似ています。

つまり、同じコミュニティに存在する多様な組織は、それぞれ異なる役割を果たすため、異なる文化や価値観をもっています。コミュニティの価値観とは自ずと異なっているのです。

組織が迅速に意思決定を行うためには、市場や成果や技術に密着し、社会や環境、人口構造、知識の変化をイノベーションの機会として利用できなければなりません。

このことは、組織がコミュニティのなかに存在しつつ、コミュニティに変化をもたらすことを意味します。コミュニティへの貢献自体が、変化をもたらします。

つまり、ポスト資本主義社会の組織は、元来安定を求めるコミュニティを、多様な文化や価値観によって、常に動揺させ、解体し、不安定化させることを意味します。

組織自身も、技能や専門知識に対するニーズの変化に直面します。その変化はグローバルにもたらされます。特定のコミュニティに存在しているからといって、その変化を受け入れないわけにはいきません。

変化の拒絶は、組織の役割を果たすことを不可能にし、結果的に、コミュニティにおける存在意義を失います。

ですから、組織はコミュニティに埋没し、従属することは許されません。組織の文化は、コミュニティに貢献するためにこそ、コミュニティを超越しなければなりません。

従業員社会

ポスト資本主義社会では、契約や報酬の形態はさまざまですが、組織との関わりを通して社会に貢献している点で共通する人たちが、多数を占めています。

このような人たちを、ドラッカーは、仮に「従業員」と呼び、そのような社会を「従業員社会」と呼んでいます。「組織社会」を別の角度から見た表現です。

肉体労働者は少数派になってきましたが、その減少分以上に増加した人たちが、サービス労働者です。肉体労働者と同様、その地位、生産性、尊厳が、社会的問題となります。

知識労働者は、組織があって働くことができる点でサービス労働者と同じですが、生産手段としての知識を自ら所有する点で、置かれている地位は異なります。

知識労働者への投資は、道具と教育への投資において、肉体労働者の場合よりからに高額です。しかし、そのような投資も、知識労働者が所有する知識という生産手段が伴わない限り、無駄なものになります。

工場労働者は、機械の稼働率が最大になるように人間が従属することによって、仕事は生産的になります。知識労働者も機械を使用しますが、知識労働者の知識が機械を生産的なものにします。

肉体労働者は指揮監督されますが、知識労働者を監督することはできません。自分の専門については、上司よりも詳しいからです。そうでなければ、知識労働者としては無益です。

従業員社会では、組織が生産の道具を所有しますが、知識労働者の知識がなければ、道具は何も生産することはできません。つまり、知識労働者と組織は相互依存的な存在です。

知識労働者の組織に対する忠誠心は、お金で買うことはできません。専門家としての仕事、業績と自己実現のための卓越した機会を提供することによって、忠誠心を獲得しなければなりません。

資本と労働

製造業の生産量は増加していますが、雇用の比率と絶対数は減少しています。

製造業の生産性向上が理由ですが、プルーカラーの雇用が減少するという意味で、製造業の衰退と捉えられる面もあります。特にアメリカでは、黒人の雇用に対する脅威ととらえられる面があります。

製造業の基盤

ドラッカーによると、製造業に関する考え方は、日本と欧米では異なるといいます。

国家には製造業の基盤が必要であるという点において、両者に違いはありませんが、欧米における製造業の基盤とは、製造業での雇用を指すといいます。

しかし、日本では、製造の知識、研究開発技術、設計技術などを指しています。ブルーカラー労働はコストの安い発展途上国に移管させ、教育投資は高度な知識労働者の確保に充てようとします。そうしないと、著しい人手不足に陥る危惧もあります。

ドラッカーは、日本のほうが正しいと指摘します。「製造業の基盤」は知識です。

肉体労働者は常に必要ですが、もっと必要になるのは、高等教育による高度の体系的な知識をもち、学習し知識を加えていく能力をもつ高度技能労働者です。肉体労働者はできる限り高度技能労働者に転換させるべきです。

資本市場の変貌

年金基金が主要な機関投資家となり、ドラッカーが危惧するのは、資金をいかに収奪から守るかです。

民間の年金基金は、すでに収奪に対する保護措置がとられていますが、政府系は十分でないといいます。アメリカの地方自治体職員の年金基金は、恒常的に予算の穴埋めに使われているといいます。

ドラッカーは、年金基金に関わる規制とその収奪からの保護は、いくつかの忌まわしい「不祥事」を経験した後において、ようやく解決にいたるという筋道をとる可能性が強いと指摘しています。

日本では、消えた年金問題があれほど騒がれましたが、その後、社会保険事務所が民営化されたことで、何となく終わってしまいました。

多額の年金積立金が消えたことが問題にされ、一部、職員が不正に収奪したことも追究されましたが、ドラッカーの言う「政治的な収奪」(票を買うための利益誘導)については、うやむやにされたままでした。

年金基金は、本来貯蓄であって、別の用途に使われるような仕組みはおかしいはずです。しかし、日本の年金は、賦課方式(現役世代が、現在の年金受給者に年金を支払う方式)になっています。

年金受給者が積み立てた資金は、別の用途に利用され、さらに、自分たちが納めた額よりも多く支給を受けている状態になっていると言われています。

最終的な後始末は増税によって対処され、それでも十分には見えません。結局、国民がつけを払わされているという状態で、うやむやにされたままではないでしょうか。

 

年金基金が主要な資本家となっている社会を、ドラッカーは「年金基金資本主義」と呼んでいます。厳密には「年金基金社会主義」と呼べるとも言っています。いずれ先進国で普遍的な所有形態となっていくと指摘しています。

年金基金を所有するのは従業員ですが、運用しているのは年金基金の従業員です。所有者としての従業員は、年金の将来受給を期待していても、資本家としては機能していません。年金基金の従業員も受託者にしかすぎません。

その意味で、年金基金資本主義は「資本家なき資本主義」になっているといいます。

さらに、年金基金の資金の本質は、繰延賃金です。従業員にとっては、自らの将来賃金を積み立てることによって雇用の場が維持されているという側面があり、年金基金の資金に対する配当とキャピタルゲインの主たる受益者であるという側面ももちます。

結局、年金基金の資金は、本来の資本の定義にはまったく該当しないという意味で、ドラッカーは「資本なき資本主義」とも呼んでいます。曖昧で、確たる理論的な裏づけもない、矛盾した状態になっています。

企業の統治

年金基金その他の機関投資家の興隆は、大企業の経営管理と支配に関わる伝統的な手法のすべてを陳腐化してしまうため、企業統治についての徹底的な検討が必要です。

バーリとミーンズは『近代株式会社と私有財産』(1933年)において、大企業は単一で賄いきれない資本を必要とするほど成長したため、株主は企業を支配することができず、支配しようともしないと指摘しました。

その結果、所有は経営と分離されて投資に変わり、経営は専門経営者に委ねられました。問題は、専門経営者は責任を負うべき相手です。

1950年代に提示された答えは、専門経営者は、特定の個人や集団に対して責任を負わない「受託者」であり、諸々の利害関係者のもっとも均衡ある利益を実現する者でした。

しかし、もっとも均衡ある利益の内容、成果の定義や評価の方法は、不明確でした。

実際、経営管理陣に対して、誰かへの責任を負わせる試みはなされませんでした。取締役会も無能化し、経営管理陣の言いなりになるだけでした。

1970年代から80年代には、短期的利益を求めて敵対的な買収、合併、分割、整理が蔓延しました。乗っ取り屋の資金を賄ったのは機関投資家です。機関投資家は受託者として、保有株式に対して市場価格より1円でも高く値をつけてくれそうな側に付かざるを得ないからです。

次に現れたのは、経営管理陣は株主の利益を最大化する者であるという考えでした。企業は、短期的視点からのみマネジメントされるようになり、業績は悪化します。長期的な成果は、短期的な成果の累積ではないからです。

長期的な成果は、短期的な目的やニーズと、長期的な目的やニーズとを均衡させることによって得られます。

株主の利益のみを目的とするマネジメントは、知識労働者を疎外します。株主の利益のために働くことに動機づけられる知識労働者はいません。知識労働者の意欲を削ぐ企業は衰退します。

ドラッカーは1930年代の考え方が正しいとし、専門経営者は次の2つのことを目指す者であるいいます。

  • 短期・長期双方の均衡ある成果
  • 企業活動に関わる多様な利害関係者間における「もっとも均衡ある利益」の実現

当時と現在の違いは、これを実現する方法が分かっていることです。それが「マネジメント」です。

経営管理者の責任

経営管理陣が責任を負うべき重要な相手は、最大の所有者である機関投資家、特に年金基金です。

しかし、年金基金は受託者に過ぎませんので、所有者としての行動を取ることができず、企業を経営管理することもできません。

だからといって、投資家に徹することもできません。年金基金が所有する株式の規模は大きすぎるため、簡単に売却できないからです。売却するとすれば、他の年金基金しか考えられません。

要するに、一旦所有したら、簡単に立ち去ることができなくなります。ですから、年金基金は、企業が適切に経営管理されることを、何らかの形で担保しなければなりません。

そこで考えられることは、ドラッカーが提案する「事業監査」の一般化です。企業および経営管理陣の活動を、戦略計画と具体的目標に照らして評価し、事業場の成果を明らかにするものです。

事業監査は、公認会計士による会計監査と同様に独立性を保証することによって、経営管理陣の責任を明らかにし、責任を取らせます。

機関投資家は、事業監査を受けさせることによって、受託者として企業に目を光らせる義務を果たします。年金基金の受給者の関心は長期的な成果ですから、その点を重視した事業監査が要求されるようになります。

サービス労働と知識労働の生産性

ポスト資本主義社会が直面する大きな課題の一つは、知識労働者とサービス労働者の生産性の向上です。両者は就業者人口の4分の3以上に達しており、彼らの生産性を高めることが、先進国経済の生産性を高めることを意味します。

彼らの生産性は、情報機器への設備投資の増大にもかかわらず、著しく低いといいます。

特に、膨大な数のサービス労働者が、比較的低い技能と教育しか必要としない仕事に携わっており、サービス労働者が生産性に見合った賃金しか支払われないとすれば、知識労働者の所得との乖離が大きくなり、両者の間の社会的な緊張をもたらすおそれがあります。

サービス労働者の仕事の多くは、物を作ったり運んだりする仕事に似ています。データ処理、請求事務、消費者対応、保険支払い事務、自動車免許更新事務などです。

それらサービス労働の生産性の向上を図るには、仕事の分析と再設計が必要です。

知識労働の仕事のすべて、およびサービス労働の仕事のほとんどは、自分たちで組み立てていかなければなりません。「この仕事から期待すべきものは何か」を明確にしない限り、生産性の向上は望めません。

チームワーク

知識労働やサービス労働では、仕事とその流れに適した組織を決定することが重要です。

仕事のためのチームには三種類あります。仕事の生産性を高めるためには、それらのうち、仕事と仕事の流れに最適な物を選択することが必要です。

第一は、野球やクリケット、病院の手術のチームです。構成員のポジションは固定しているため、特定の仕事を与え、練習させ、成績を測定することができます。大量に物を作ったり運んだりする仕事が該当します。

第二は、サッカーやオーケストラ、救急医療のチームです。ポジションは固定していますが、相互調整しながら仕事をしていきますので、指揮者や楽譜に当たるものが必要です。柔軟で迅速ですが、下稽古は不可欠です。

第三は、テニスのダブルス、少人数編成のジャズバンドです。最大7~9人です。少人数の経営チームに向いています。優先すべきポジションはありますが、互いの領域をカバーし、強みと弱みを調整し合います。機能すれば最強ですが、厳しい自己規律が求められます。構成員が長期間一緒に働き、互いを知り尽くさなければ機能しません。

これら三種類のチームは併用できず、互いに変身することも困難ですが、仕事の性格、道具、流れ、製品が変われば、変身せざるを得ません。

情報の流れの変化が、変身を要求するといいます。野球チームは周囲の状況から、サッカーチームは主に監督から、テニスのダブルスは主に他の構成員から、情報を得ます。

集中の必要性

生産性の向上には、仕事への集中も必要です。

知識労働やサービス労働では、目標や成果に向けて必要な仕事を組み立てるため、仕事自体が初めから明確であるとは限りません。そのため、成果に貢献しない雑事を見極め、排除することが、生産性の向上に不可欠です。

雑事に時間を取られることは、仕事への動機づけや誇りを台無しにすることによっても、生産性を悪化させます。

本来の仕事以外の仕事については、本来の仕事に必要であるか、役に立つか、でなければ雑事に過ぎませんので、なくしてしまうか、独立した別の仕事とする必要があります。

仕事については、それを行う者が、誰よりもよく知っていますから、仕事の改善は、仕事を行っている者のところから始める必要があります。仕事の方法、必要な道具や情報などについて、率直に聞かなければなりません。

生産性の向上については、働く者自身が責任を負い、管理をするよう求めることが必要です。そのためには、仕事と組織に継続学習を組み込み、継続的な自己改善ができるようにしなければなりません。

組織のリストラ

生産性の向上のためには、組織の構造を根本的に変えることも必要です。マネジメントの階層のほとんどをなくしてしまう方法があります。ドラッカーのいう「情報型組織」です。

ドラッカーは、今後、組織はジャズバンドのように運営されるといいます。リーダーはいますが、地位ではなく任務です。仕事の内容に応じて適任者が決まり、進捗に応じてリーダーが変化することもあります。

ただし、中間管理職のポストがなくなるため、業績に報いるための昇進の機会が大幅に減少します。

このような変化は、動機づけ、報酬、認知に関し、きわめて大きな問題を引き起こす可能性があります。

外部委託の必要性

ドラッカーは、多くのサービス労働が外部委託されるようになると指摘ます。最大の理由は、生産性の向上です。

生産性の向上にとってもっとも重要なことは、トップマネジメントへの昇進の機会を確保することです。

組織にとって不可欠なサービス労働であっても、本業でなければ、トップマネジメントがその生産性向上に関心をもつことはほとんどありません。トップマネジメントに昇進する機会もありません。

しかし、そのサービス労働を専門とする外部委託業者であれば、それが本業であるため、その生産性向上がトップマネジメントの中心的関心事です。しかも、サービス労働者にはトップマネジメントへの昇進の機会もあります。

もっとも重要なことは、サービス労働者が社内で敬意を払われることです。そのことが、彼らに仕事の改善のためのリーダーシップを発揮させるようになります。

あらゆる業種において、本業には直接関係がなくとも、必要不可欠なサービス労働が多数存在しますから、その仕事を本業とする企業に外部委託を推進していくことが必要です。

新階級闘争の回避

ポスト資本主義社会において懸念される新たな階級闘争は、知識労働者とサービス労働者の間に存在します。これを防ぐには、生産性向上が不可欠です。

知識労働者とサービス労働者の境界は曖昧です。組織によっても、その本業に応じて重視される職種は異なるため、報酬の格差が異なって生じる可能性もあります。

したがって、両者ともに生産性の向上が不可欠です。同時に、昇進と認知の機会を確保することが重要になります。

責任型組織

かつての政治理論と社会理論は「力」に焦点を当ててきました。しかし、ポスト資本主義社会を規定し、組織する原則は「責任」です。組織の力と責任は一体です。

組織は、自らの機能が合法的に発揮できる範囲内において責任を果たすだけでなく、社会的責任も果たします。ただし、自らの能力の及ぶ範囲内であり、かつ自らの本業の能力を損なわないことが前提です。

正しい行いが悪となるとき

組織にとって正しいことが、社会にとって常に正しいとは限りません。その境界を知っておくことが、社会における組織の責任の問題でもあります。

組織は、自らの果たすべき役割は、社会においてもっとも重要であるという信念をもつ必要があります。重要な一つの役割に集中することによって、組織は成果をあげ、社会に貢献することができます。

この場合に、社会全体の問題に対して、組織はどこまで責任を負う必要があるかを考えると、組織が社会のあらゆる問題に対処すべき前提では、組織のリーダーたちの共同責任ということになります。

「社会にとっての最善は何か」、「どのようにすれば、それをわが社の事業機会にできるか」と考えることです。

社会的責任とは何か

組織は特有の目的をもち、それに集中するからこそ、成果をあげられるだけの能力を保持することができます。

したがって、特有の目的を超える問題に取り組むことが、自らの能力を超え、逆に能力を傷つけることにつながるようであれば、そのような問題に取り組むことは、自らと社会の双方に対して外を及ぼすことを意味します。

また、本来の目的の遂行を妨げるほどに問題を抱え込むことも無責任です。

企業の第一の責任は、経済的な業績です。資本コストを超える利益をあげない企業は、社会にプラスを生み出さないため、存在意義がありません。経済的な業績をあげなければ、他のいかなる責任も遂行できません。

しかし、企業に限らず、組織本来の仕事以外に、負うべき社会的責任が存在します。組織社会においては、社会そのものが組織に社会的責任を要求します。

まず、組織本来の仕事で生じる副次的な影響に対しては、対処する責任があります。例えば、工場の廃液を河川に放出したり、工場の出退勤時間帯に交通渋滞を起こしたりする場合です。このような責任からは逃れられません。

それ以外の社会の問題でも、どこかの組織が取り組まなければなりません。なすべきことは、その問題について、「自らの能力に合致するか」、「事業上の機会とすることができないか」を考えることです。

力と組織

社会的な機関である組織は、政治的な能力をもつべきではありません。

社会的な機関である以上、政治と無関係には存在できません。社会的な役割を果たすことにおいて、それを疎外するものを取り除いたり、必要な制度を導入したりするために、政治に働きかけを行うことはあります。

組織の目的を遂行するために必要な力はもたなければなりませんが、それは社会的な力です。雇用・解雇・昇進などの人事、仕事や労働時間などの規則や規律、工場の建設や閉鎖、製品の価格などに関わる意思決定の力です。

この力は大きく、時に濫用のおそれもあるため、政治的な力によって規制され、制限されなければなりません。行使する過程においても、法的に定められた正当な手続きによらなければなりません。

具体的には、公開された明確な規則に基づく力の行使であること、不当な力の行使を受けたと考える者の訴えを聞いて審査を行うべき中立の裁定者を置くことです。

組織の社会的な力は、政治的な力によって制限されるべきであり、政治的な力によって行使されてはいけません。例えば、政治的圧力によって一組織の人事が左右されたり、一組織のサービスに手が加えられたりしてはいけません。

ドラッカーがもっとも重視する原則は、組織の依って立つ基盤を「力」とするのではなく、「責任」と認識することです。知識組織とは「責任型組織」であると認識することです。

指揮命令から情報へ

1970年代に情報が組織を変え始めると、経営管理階層がフラット化し始めました。経営管理者の多くは、情報の中継器に過ぎなかったからです。情報が容易に手に入るようになれば、中継器は不要になります。

そのようにしてできあがる組織を、ドラッカーは「情報化組織」あるいは「情報型組織」と呼びます。しかし、ポスト資本主義社会においては、さらに進んで「責任型組織」にならなければならないといいます。

知識組織は専門家によって構成されます。各専門家は、自らの専門領域について、上司よりも詳しい者でなければなりません。ただし、上司は、各専門家の役割を知り、期待する貢献を伝えることができなければなりません。

情報から責任へ

知識組織のすべての人は、自らの目標、貢献、行動について責任を負います。従来の意味での「上司」や「部下」は存在せず、「同僚」が存在するだけです。

全員が自らの仕事に責任を負うためには、自らの仕事を管理できなければなりません。自ら成果を目標にフィードバックし、評価し、改善できなければなりません。

組織のあらゆる人が、組織と組織の目的に対して、自分にできる最大の貢献が何かを問い続けなければなりません。つまり、全員が自らを経営幹部と見て、責任ある意志決定者として行動しなければならないということです。

組織のなかの人は、自らの目標を組織全体の目標に合致させる責任、自らの目標、優先順位、貢献について、上下、横の同僚に知らせる責任があります。また、どのような情報を必要とし、どのような情報で貢献できるかを互いに知らせる責任があります。

組織で働く人たちは、自らの仕事を誰よりもよく知っていますから、自らの仕事に関する意思決定に責任を負う必要があります。責任を負わされることによって、責任ある人間として行動することができるようになります。

全員が貢献者である

組織において重要なことは、資格の付与や権限の付与ではなく、責任と貢献の要求です。意思決定は、力ではなく責任です。責任ある仕事そのものです。