個の尊厳と機会の平等 - 企業とは何か⑦

アメリカの伝統では、社会は、個としての人間の信条と価値への貢献によって評価されます。

そのため、社会の代表的組織である企業に対しては、社会の信条の実現を求めます。社会の信条とは、個としての人間を重視するキリスト教的な思想に基づく「機会平等」と、一人ひとりの人間の「尊厳」です。「尊厳」とは、社会的な位置、役割、意味のことです。

それを産業社会に当てはめれば、従業員として、仕事を通じて、尊厳を得ることができなければならないということになります。しかも、それは機会の平等を通じて実現されるべきものです。

したがって、結果平等として、地位や収入や機能のすべてが全員に与えられるという意味ではありません。社会的な目的のために人びとが共に働く組織として、企業においても階層が必要です。しかし、昇進の機会は平等でなければならず、合理的な昇進の基準が必要です。

しかし、昇進だけが目標であってはいけません。昇進できない多くの者が不満に終わるだけだからです。経済的な報奨以外の基準が用意されていないことも問題です。経済的に成功できない者は価値がないことになるからです。

大事なことは、機会の平等だけでなく、無数の人たちに位置と役割、すなわち人間の尊厳を与えることです。これらの両者を統合して実現できなければなりません。

アメリカの社会観

アメリカの伝統では、社会的組織は社会を超えた目的のための手段とされ、社会そのものを目的としたことは一度もないといいます。ですから、国、国家、人種に絶対的価値を付与する社会至上主義ではありません。

また、アメリカは、社会そのものを、個としての人間の倫理的な価値と無関係の功利的な手段としたことも一度もないといいます。つまり、法を倫理的な価値とは関係のないものとして扱う社会的功利主義でもありません。

ここに、アメリカが物質主義的でありながら理想主義的な社会となった原因があると、ドラッカーは指摘します。物質的な制度(社会的組織)と物質的な進歩は、それ自体が目的ではなく、理想の実現のための手段です。この点から、アメリカは、理想主義者でも現実主義者でもなく二元論者であると、ドラッカーは指摘します。

このように社会を手段と見る社会観のゆえに、アメリカは、本性的なものとしての帰属意識(愛国心)を理解できないでいるといいます。アメリカ人にとっても国は重要ですが、それは自分たちの心情を体現する存在になっているからです。個としての人間の信条と価値への貢献によって、社会を評価しているからです。ドラッカーは、ここにアメリカ社会を理解する鍵があるとします。

したがって、社会の代表的組織に対しては、調和以上のものが求められます。社会の信条の実現の約束をしなければなりません。つまり、企業と社会との関係においては、機能上の調和に加え、目的上の調和が求められます。

完全は不可能ですから、どこまで実現しなければならないかは実際に試してみなければ分かりませんが、ドラッカーは、可能性で十分であるとします。

しかし、だからといって、社会は不完全であると諦めることは侮辱であるされます。社会にはいかなる欠陥もあってはならす、その約束と信条をすべて満たさなければならないとする考えがあったからこそ、社会改革の原動力となり、社会的、政治的進歩をもたらしてきました。また、そのような原則があってこそ、失敗を例外として大目に見ることもできます。

ところが、社会と社会の代表的組織が完全ではありえないこと、人間の特性からして人間行動が効率的ではあり得ないことを理解できない者がいます。そのような者は、完全でないことをもって、それらを役に立たないもとして切って捨てようとする考え方をします。

いかなる社会組織も、その価値とする約束と信条の実現を無視しては存続することができないことを認識する必要があります。同時に、望み得るもの、望むべきものは、完全な成功ではなく部分的な成功であるという認識も必要です。

中流階級社会が約束するもの

アメリカの政治哲学の基本は、個としての人間を重視するキリスト教的な思想です。ここから、第一に、正義の約束である「機会平等」の約束が生じます。第二に、「自己実現」の約束、「よき生活」の約束が生じます。これは一人ひとりの人間の「尊厳」の約束であり、「位置と役割」への約束であるとされます。

「個としての人間の重視」が、アメリカとヨーロッパを分かつものであると、ドラッカーは指摘します。アメリカは、信条の実現を社会と経済の場に求めます。ドラッカーは、ここに、アメリカとヨーロッパの将来の齟齬の原因を見ることさえできると言います。

個としての人間の重視は、アメリカでは中流階級社会という観念に表れています。本来、中流というからには、上下に別の階級が存在することを前提としますが、アメリカの中流階級社会のコンセプトでは、ほとんど全員が中流です。つまり、アメリカにおける生活のあり方はひとつしかないという平等観です。正義の平等に基づく事実上の無階級社会です。

同時に、アメリカ人にとって中流階級社会とは、誰もが意味ある充実した人生を送ることのできる社会のことです。この中流階級のコンセプトには、社会における位置は社会への貢献によってのみ規定されるとの意味合いが含まれているといいます。これが個の尊厳に当たります。一人ひとりの人間が社会に意味を見出すことができ、社会は一人ひとりの人間のために存在するということです。「尊厳」とは、社会的な位置、役割、意味のことです。

機会の平等は、一人ひとりの人間は社会における働きによって規定されるということです。一人ひとりの人間の能力と成果によって、人間の「尊厳」が得られなければならないということです。

キリスト教社会では、機会の平等という正義を与えることなくして、個の尊厳を与えることはできません。同時に、個の尊厳を与えることなくして、機会の平等という正義を与えることはできません。個の尊厳と機会の平等は、どちらも互いの存在を必要とします。しかも、中流階級社会が成立するには、いずれも必要です。

この両者を成り立たせようとすることによって、アメリカの強みや魅力が生まれていますが、同時に、アメリカの政治には調和と均衡の問題がつねにつきまとっているといいます。

社会の代表的組織

アメリカ社会の代表的組織である企業は、アメリカ社会が信条とするものを体現する存在として、一人ひとりの人間に機会の平等を与え、位置と役割による尊厳を与えなければなりません。

企業は、生産者としての能力を強化して初めて社会の代表的組織として機能したことになります。つまり、企業は経済的な組織でなければなりません。

同時に、企業は、政治的な組織であり、社会的な組織でもなければなりません。つまり、コミュニティとしての社会的な機能をもつことが必要です。それは、一人ひとりの人間に位置と役割という尊厳を与えることができるということです。

産業社会においては、従業員として、仕事を通じて、尊厳を得ることができなければならないということになります。産業社会において現実に重要な存在になるということは、仕事を通じてであるということです。

それは機会の平等による実現ですから、地位や収入や機能のすべてにおいて全員が結果的に平等であるという意味ではありません。社会的な目的のために人びとが共に働く組織として、企業においても階層が必要です。全体の成功のために、各階層において、それぞれ地位や収入や機能の違う人びと全員が同じように必要とされます。

階層は必要ですが、昇進の機会は平等でなければなりません。これはキリスト教的な正義の要求ですから、昇進が恣意的に行われてはいけません。納得し得る合理的な基準が必要です。

真の機会の平等は実現するか

ドラッカーは、産業社会において、機会の平等が相当程度実現されるようになったと指摘します。マネジメント上および技術上要求される能力が多様になり、到底満たしようがないほどの量になったため、機会の平等が当たり前になったといいます。

統計上でも、工員に対する職長の割合と、職長に対する経営管理者の割合は、共に大きくなっているといいます。

ところが、一般には、産業社会において機会は減少し、機会の平等はさらに減少したと思われているといいます。特に、大企業において、一昔前の中小企業の社会よりも機会が減っていると、大半の人が答えるといいます。

このような統計上の事実と一般の認識との乖離には原因があります。ドラッカーによると、企業がその社会的な役割を十分果たしていないということです。より多くの者により多くの機会が与えられているという事実があったとしても、それが合理的で納得し得る方法では与えられていないということです。正義が実現されていないということです。

ドラッカーは、ここに3つの原因を指摘します。

第一に、昇進のシステムが合理的でも納得できるものでもなく、しかも昇進の基準が客観的なものになっていないということです。平の工員や職長の目には、現場から遠く離れた経営幹部の恣意によって、昇進がいい加減に行われているように見えているということです。

実際は恣意的でないとしても、明確な手続と客観的な基準がないところが問題です。人事が見えていないということです。見えなければ、方法などないに等しくなります。

ですから、早急に行うべきは、客観的な人事のシステムを確立することです。しかも、身動きのできない拘束衣的なものではなく、事情に応じて決定を助けるコンパス的なものでなければなりません。

そのようなシステムを確立することは困難ですが、合理的なシステムがなければ、年功序列になるしかありません。年功序列は機会の平等ではありませんが、少なくとも合理的でなく理解できないものよりはましです。

第二に、昇進が学歴を偏重して行われていることです。これは社会的に深刻な問題です。人は出自でなく能力によって評価すべきとするアメリカの信条と伝統に関わるからです。

学歴ではなく、現に能力があることによって評価しなければなりません。能力査定の労を省くために学歴を重視するのはもってのほかです。

第三に、能力が正当に評価される場がないことです。これは、当時の仕事の専門化の進行に原因があると同時に、大量生産産業では未熟練労働を超える能力を試される機会がなく、一つの仕事にはりつけられるからです。特に大企業では経営幹部と平の工員との接触がないため、能力ある若者が発掘されないという問題もありました。

したがって、若い者に能力を示す機会を与え、彼らに感心をもつ者と接触する機会を与ることが必要です。

社会における個の位置づけ

よく指摘される問題は、50年前に比べて、独立することが難しくなったとの不満であるといいます。この原因は、大企業での昇進が中小企業社会での独立ほどの満足を与えいないところにあると、ドラッカーは指摘します。

大企業は、経済的な報酬だけで十分であると考えていますが、社会的、心理的な満足がなければ、独立とは言えません。大企業では、経営幹部でさえ独立しておらず、責任ある者として自己実現できる世界をもっていないといいます。

職長に至っては、自らのポストが中流階級のものではなく、経営幹部への入り口でもない行き止まりであることに気づいており、満足すべきものになっていないということです。同じことが一般の従業員にも言えます。

要するに、産業社会には、一人ひとりの人間にとっての機会および社会における位置と役割に関わる問題が実在しているということです。それは昇進や昇給では解決できず、社会的、心理的な満足が必要です。経済的な機会と収入を強調するだけでは問題として深刻化するだけです。昇進を目標とさせるなら、昇進できない多くの者が不満に終わるだけです。

必要なのは人間としての尊厳、すなわち社会における位置と役割です。

そもそも自由経済と市場社会から生まれた企業には、経済的な報奨以外の基準が用意されていませんでしたから、社会における個人の位置と役割の必要性を考慮に入れていませんでした。

ヘンリー・メインは、「近代の歴史は地位から契約への歩みである」と言いました。これは、人間の位置を政治的に定められた地位によって規定する社会、すなわち機会の平等を認めなかった社会との決別を意味したものの、社会的な位置と役割を経済的な報奨と同義にしただけでした。それは正義の実現ではありましたが、人間の尊厳を忘れていました。機会の平等にあずかれない無数の人びとは、自己実現の問題が無視されたままでした。

経済的な成功が人間の価値を定めると考えることはできません。経済的に成功できない者は価値がないことになるからです。大事なことは、機会の平等だけでなく、無数の人たちに位置と役割、すなわち人間の尊厳を与えることです。これらの両者を統合して実現できなければなりません。

自己実現を阻む組み立てラインの単調さ

産業社会で、社会における位置と役割、自己実現と充足が失われる理由の一つとして、ドラッカーは、大量生産工場での仕事をあげました。いかなる満足も得られないほどに単調で、賃金のための労働にしかなっていなかったからです。そこには創造力を発揮する余地はなく、機械に従属しているだけでした。

遅い者にペースを合わせなければならないこと、終わることのない反復を強いられることによって、仕事の満足が奪われていました。

人は機械的であるほど生産的であるに違いないという発想が存在します。しかし、同一のリズムとスピードによる単純労働は、大量生産の効率に不可欠なものではありません。

ただし、ドラッカーは、単調さをもって批判することを戒めています。仕事にある程度の単調さは必要です。単調であるということは、次に起こることが分かっているということです。単調さの反対は不安定です。ですから、完全な単調さには耐えられなくても、ある程度の単調さは必要です。仕事の多くは定型化されたものであり、それは単調さでもあります。

1920年代の末、イリノイ州ホーソンのウェスタン・エレクトリックでの実験によって、働く者の満足を左右するものは、仕事の内容ではなく仕事の重要度への認識であることが明らかにされました。仕事の定型度や単調さではなく、仕事の認知、意味、意義の欠落が問題であったことが分かりました。

イギリスでは、戦時下にあって働く人たちが、たとえ機械化が加速度的に進行するなかにあっても、充足、自己実現、市民性、自信、誇りを経験したといいます。

アメリカのある航空機部品メーカーでは、戦争の初期の頃、ストライキ、サボタージュ、欠勤、不良率、士気の低下に苦しんでおり、賃上げ、時間短縮、通勤補助、保育支援、購買の便宜も役に立たなかったといいます。この工場では、誰も自分たちの部品を使った航空機を見たことがなく、それぞれの部品がどこに組み込まれ、どのような機能を果たしているかを知りませんでした。

そこで、大型の爆撃機が敷地に運び込まれ、家族まで招待されました。自分たちの部品を目の当たりに、どのような機能を果たしているかを乗組員から説明されました。こうして、低下した士気も不穏な空気も吹き飛びました。戦時下の社会と国家にあって、責任ある一員としての自らの位置と役割を見せられたためでした。

単調さが問題ないわけではありませんが、最大の問題は「作業」上よりも「社会」上の問題であるということです。仕事に働きがいを見出すには、仕事の意義づけが行われなければなりません。自分の仕事にどのような意味があるのか、何を行っているのか、何のために行っているのかを知らなければなりません。それは市民性の問題であり、市民としての充足です。

仕事に意義を見出すことは、戦時下においてうまくいきましたが、平時に戻ったときにこれを再現できるかどうかが問題でした。国家の存亡がかかっている場合ではなく、消費者のためにそれができるかが問題でした。ヒトラーの場合、戦争を社会の目的とすることによって解決を図ろうとしましたが、戦争を目的とする社会が成り立つはずはありませんでした。

市民性回復のための2つの試み

産業社会において、市民性回復のために試みられたのは、家族主義と労働組合運動でした。

家族主義は明らかに失敗しました。経営陣を親とし、働く者を子供扱いするようなやり方がうまくいくはずはありません。必要なことは、働く者を一人前の人間として扱うことです。人間としての尊厳、すなわち人間の位置と役割を与えることです。社会保険や福利厚生がその代わりになることはありません。

労働組合は、集団交渉権が法制化され、ユニオン・ショップが義務づけられて、一定の成功を勝ち取ったということはできます。しかし、働く者に産業社会における市民権を与えることはできません。労働組合が力を発揮するのは、経済の分野においてのみです。

労働組合は、そもそもの初めから、その本質として、経営側に対する否定的な存在であり、対抗勢力的な拮抗力です。組合員を経営側から、そして社会から守るものとして組織されているからです。

しかし、労働組合は、企業と同様、産業社会の基本的組織ですから、その目的とするものは、社会の基本とする約束と信条の実現を促進することによって社会と調和していかなければなりません。つまり、産業社会に働く者を社会の市民として組み入れるという仕事の一翼を担わなければなりません。