偉大なるリーダーの成長 – キュロスのリーダーシップ②

『キュロスの教育』に基づき、ペルシア王キュロスが少年から壮年までに成長する過程を紹介します。

ペルシアの教育制度(クセノフォンはスパルタをモデルとして考えていたと言われています。)に始まり、少年時代からのキュロスの性格や人間関係について語られます。

キュロスが壮年に達した頃、母方の叔父キュアクサレスが統治していたメディアが、アッシリアから攻められようとして、ペルシアに援軍を求めて来ます。

キュアクサレスは、キュロスの聡明さや優秀さをよく承知していたため、ペルシア軍の司令官としてキュロスにも参戦して欲しいと要請してきます。

ペルシアにおける年齢階層別の教育と仕事

キュロスは、ペルシアの王カンビュセスを父とし、メディアの王アステュアゲスの娘マンダネを母として生まれました。容姿淡麗で、心優しく、知識欲と名誉心が強かったといいます。

キュロスの教育は国の法律に従ってなされました。法律は公共の福祉に対する配慮から始まっており、国民が臆病にならず、恥ずべきことを求めないように配慮するものでした。

国民は年齢階層によって分けられ、それぞれに相応しい教育や仕事が与えられました。各階層では、部族ごとに1名の指導者が選ばれました。12部族があったので、階層ごとに12名の指導者が選ばれたことになります。

各階層に加わる機会はすべての国民に平等に与えられましたが、実際には家庭の事情で加われない者もいました。選別も行われたようです。

少年期

16・17歳までの少年たちは学校に通い、正義を学びました。少年の指導者たちは、少年たちの争いごとに正邪の判決を下す役割がありました。

特に、恩を返すことができるのにそれをしない者を厳しく罰したといいます。忘恩は、人間をあらゆる恥辱に向かって最も強力に先導するであり、そのような者は、神々、両親、祖国、友人に対する義務をなおざりにする者であるとみなされたからです。

節制や服従も重視されました。このことは年長者においても同様であり、指導者たちが身を持って少年たちにそれらを教えました。節制には、飲食に関する忍耐も含まれます。遠征においては、粗末で少量の飲食に耐えることが重要だったからです。

この頃から、弓を射たり、槍を投げたりすることも学びます。

青年期

青年たちは、10年間、国家の警備と節制のために、役所の周りで寝泊まりします。この年齢層は特に配慮を必要とすると思われていました。

王が狩猟に出かけるときは、警備隊である青年たちの半分を同行させました。狩猟は楽しみではなく、戦争のための最も適切な訓練とみなされていましたから、王は、他の者たちも狩猟できるよう配慮しました。

残留組は、弓を射たり、槍を投げたりする訓練をしながら、互いに技を競い合いました。公の競技では賞品も提供され、優れた成績をあげた者たちの指導者やかつて指導者であった者も称賛されました。

壮年期

壮年期は次の25年を指し、思慮があり力のある者は役人となりました。遠征に参加するのも壮年たちでした。

長老

壮年を過ごすと50歳を超え、長老の仲間入りをします。長老は国に留まって公共と個人の事件すべてについて判決を下し、また、役人を選びました。

長老は議員でもあり、長老たちの総体が「ペルシア政府」に相当しました。王とは別に政府があったので、「立憲君主制」を想定していたと考えられています。

少年期のキュロス

キュロスは、少年期において国の教育を受けた後、母の父であるメディア王アステュアゲスに呼ばれたため、母とともに出向きました。母がペルシアに戻った後も、キュロスは数年間滞在したようです。

メディアでは、ペルシアと好対照の文化に触れます。ペルシアでは衣服や装身具は総じて粗末であり、生活は質素でしたが、メディア王は化粧をし、華美な服装や装身具を身に着けていました。キュロスは美しいものを愛し、名誉を求める子供であったので、生涯メディアの衣服を好んだようです。

メディアでは乗馬を学びました。ペルシアは山が多かったため、乗馬を学ぶことは難しかったようです。

メディアでは贅沢な食事にも触れました。ペルシアでは節制、特に飲食に関する忍耐が重視されていたので、その違いに驚きました。キュロスは祖父にたくさんの肉を振る舞われましたが、その肉を自分の自由にしてよいかと尋ね、親切にしてくれたお礼にと祖父の召使いたちに全て分け与えました。

このように、自分が得たものを惜しみなく人々に分け与えるというのが、キュロスの人身掌握法の一つであったようです。しかも、分け与えることを好み、喜びとするのが、生来的なリーダーとしてのキュロスの特徴であったようです。

メディアでの少年時代

キュロスは、メディアにおいてもいち早く同年齢者たちと親しくなり、その父親たちをも訪れて、彼らの息子を愛していることを示し、父親たちの心をもとらえました。

キュロスは優しく名誉心が強かったため、少年たちが彼に求めた物を手に入れるのを何よりも重視しました。

彼は人並み以上に饒舌だったようですが、一つには、自分が行動するときはその説明をし、自分が判断を下すときは他の者たちの弁明を聞くようにと教育されてきたからです。

好奇心も強かったため、側にいる者たちに常に質問しました。頭脳明晰でもあったため、他の者たちから尋ねられることも多く、それに即座に答えたりしていました。

キュロスの話は厚かましいところがなく、素朴と優しさが滲み出ていたため、人は彼からより多くのことを聞きたいと願いました。

キュロスが同年齢の者と競い合うとき、自分が劣っている種目で競い合おうとし、自分が負けると大いに自分を笑い飛ばしました。しかし、負けた種目の訓練を避けることなく努力したため、たちまちのうちに優れた域に達しました。

キュロスは狩猟を好みましたが、付き添った護衛兵たちに狩猟について熱心に尋ね、学びました。同年代の少年たちと狩猟に出かけたときも、狩猟を競い合う他の者を罵ったり、嫉妬したりすることなく、誉め称えました。

キュロスが15〜16歳になった頃、結婚を控えていたアッシリア王の息子が、狩猟のためにメディアとの国境へ出かけた際、その地域にいた守備隊を従えてメディアの土地を略奪しようとしました。

この情報がメディア王アステュアゲスに知らされると、王とその側近たちは兵を率いて国境に出撃しました。そこにキュロスも参加します。

メディア兵とアッシリア兵が共に立ち止まって睨み合う中、アッシリアの一部の騎兵たちはメディアの財産を略奪し続けていましたが、アステュアゲスは主力部隊を待つため動こうとしませんでした。

そこでキュロスは突撃すべきと進言し、アステュアゲスは息子のキュアクサレスに命じて、略奪するアッシリア騎兵に突撃させました。キュロスも共に突撃し、アッシリア騎兵たちを捕らえました。

敗走する敵兵たちは背後に控える味方の隊列に逃げ帰ろうとしたため、その隊列は前進してキュロスらの追跡を止めようと圧迫しましたが、キュロスは追跡をやめませんでした。

それを見たメディア軍も敵に突撃し、最終的にアッシリア兵たちは敗走しました。アステュアゲスは勝利に喜んだものの、キュロスが無鉄砲極まりないとも評価しました。

キュロスの父カンビュセスは、このことを知って喜んだものの、キュロスにペルシアで通例の義務を果たさせるために呼び戻すこととしました。

キュロスがメディアを離れる際は、すべての者が涙を流して見送りました。キュロス自身も涙を流し、アステュアゲスからの贈り物を仲間たちに分け与え、最後には自分が来ていたメディアの服も脱いで、彼が特に愛していた者に与えたといいます。

メディア援軍の司令官に選任

キュロスはペルシアに戻り、もう1年間少年のグループにいました。

少年たちは、彼がメディアで贅沢な生活を学んできたことをからかいました。しかし、キュロスがペルシアに戻ってからも皆と同じものを喜んで飲食し、祭りの宴会でも自分の分け前を人に与えるのを見て、さらに、彼が他のことでも皆より優れているのを知って、改めて平伏しました。

キュロスは、青年のグループに入っても抜きん出た成果を示しました。

しばらくすると、メディアではアステュアゲスが亡くなり、その息子であったキュアクサレス(キュロスの叔父)が王位に就きました。

その頃、アッシリアが強大となり、支配下にあったすべての種族らを同盟に引き入れて、メディアを攻めようと考えていました。

それを知ったキュアクサレスは、対抗する準備をする一方で、ペルシアに援軍を要請し、キュロスに司令官として来て欲しいとも頼んできました。キュロスはすでに壮年のグループに入っていました。

キュロスがこの申し出を受け入れると、長老議員たちから正式に司令官として選任され、軍隊が与えられました。兵士の選び方に特徴があり、キュロスに直属の部下たちを選ばせ、その部下たちを信頼して、各人の責任でその部下を選ばせました。ただし、兵種と人数は議員たちが指定しました。

キュロスは、自分が選んだ直属の部下たちを一同に集め、司令官を引き受けた理由、彼らを選んだ理由を直接詳しく語りました。

キュロスが彼らを選んだ理由として、子供の頃から彼らと共に育ち、彼らが優れていることを長年にわたって見てきたからであると述べました。

また、自分たちが異国の財産を不正に求めているのではなく、敵が先に不正な攻撃を始め、友人(メディア)が援軍を求めているのだと、戦いの正当性を訴えました。そして、自分たちが子供の頃から長年にわたって修練に努めてきたことを一つひとつ述べ、皆の勇気を鼓舞しました。

最後にキュロスは、自分が何かを始めるときには必ず神々の同意を得ており、神々を軽んじずに出撃することが、皆を勇気づけることになると述べました。