「知識社会」と「知識労働」

技能の技術化、すなわち「テクノロジー」の発明が、知識社会を決定づけました。人に体化されて言葉で教えることができない「技能」が、「技術(テクノロジー)」という名の「知識」に体系化することが可能になったということです。

人は知識を用いて設備や資金を活用していくという意味で、知識が社会の中核的な資源となりました。よって、知識を教育する高等教育機関が社会の中核的な機関に位置づけられます。

知識は移動や生成が自由であるため、変化が本質です。常に刷新が必要であり、継続学習が基本になります。

知識は専門特化することによって成果をあげるため、自ずと組織を必要とし、組織もまた最も貴重な生産手段である知識を所有する知識労働者を必要とします。

組織と知識労働者は、相互にニーズや期待を理解する関係が必要であり、上下関係ではない同僚組織が必然となります。信頼によって専門的な仕事を全体の目的に統合することが必要であり、マネジメントの役割が重要になります。

知識がもつ無国籍の特性は、グローバル経済を必然とし、高度な競争社会を生み出します。さらに、知識は知識労働者に移動の自由を与える一方、かつてのコミュニティは消失し、新たな社会問題を生み出すことにもなります。

したがって、特定の社会問題を解決する組織である社会セクタの役割が重要になります。社会は、公的セクタ、民間セクタ、社会セクタで構成された多元社会となり、政府には、社会全体の一体性を保つ役割が望まれます。

社会の中核としての「知識」

知識は社会の中核的な資源となりました。知識こそが富の源泉です。正規の高等教育によって付与された理論的、分析的な知識です。技能の技術化、すなわち「テクノロジー」の発明が、それを決定づけました。

すでに知っている仕事に知識を応用すると、生産性が向上します。新しい仕事に知識を応用すると、イノベーションが実現できます。

アダム・スミスの時代、移民等が技術を持ち込む場合を除き、労働の伝統を築くには200年を要すると言われました。

その後、19世紀にドイツが徒弟制度を生み出したことによって、それが5年に短縮され、20世紀にアメリカが教育訓練を生み出したことによって、6ヶ月ないし3ヶ月にまで短縮されたと言います。

「知識」適用の変遷

「知識」は元々人間存在のためのもので、道徳、哲学、教養でした。

その後、最初の段階として、知識は仕事の「道具」、「工程」、「製品」に適用され、産業革命をもたらしました。その結果、新しい階級と階級闘争が生まれ、共産主義が唱えられました。

次に、テイラーの科学的管理法により、知識は「仕事」のやり方に適用され、生産性革命が起こりました。プロレタリアは急激に所得を増やし、階級闘争と共産主義は打破されました。

さらに、知識は「知識」そのものに適用されるようになりました。多様な専門知識を効果的に組み合わせ、活用し、成果をあげるための「知識」の重要性です。ドラッカーはそれを「マネジメント革命」と呼びます。

知識は、教育を通して人が身につけ、使える状態になっているものです。人の外にあるもの、例えば教科書に記述された状態にあるものは、情報であって知識ではありません。

教育の発達の結果、知識労働者が社会の中心を占めるようになってきました。

知識労働者は、正規の教育によって仕事と職と社会的地位を得ます。知識労働は、経験中心の仕事ではなく学習中心の仕事です。学校教育によって習得した知識とその適用の能力が必要となります。

経験中心の仕事を行ってきたブルーカラー労働者は、基本的な態度、価値、考え方を変えなければ、知識労働の仕事につくことはできません。仕事に対する新しいアプローチと思考方法が必要となります。

様々な生産手段のうち、知識がもっとも高価で貴重な生産手段です。その他の生産手段は、知識を適用することによってしか生産的になり得ません。

(参考:「『データ』、『情報』、『知識』、『知恵』の違い」

継続学習の必要性

知識は人が身につけ、仕事に適用するものですから、知識労働者は自らの生産手段としての知識を独占的に所有することになります。資本家が知識そのものを取り出して保管・移転することはできません。

したがって、知識への投資は、知識労働者に対して直接行うことによってしか、生産性を高めることができません。したがって、教育が社会の中心的な位置を占めるようになり、学校が枢要な社会的機関になりまです。

知識は、個人が独占的に所有するとはいっても、元は学校教育によって手に入れたものであり、誰もが手に入れることができるものです。その意味で、どの国の専有物ともなりません。

知識は、その人とともに自由に移動でき、いかなる場所においても、教えることや学ぶことを通して、新たに生み出すことができます。

その意味で、知識は本質的にグローバルであり、知識社会は自ずとグローバル経済を生み出すことになります。

人が相互に影響し合い、学び合い、新たな情報との結合によって、知識は変化することが本質です。常に学習によって刷新されなければ、急速に陳腐化します。

よって、知識労働者には「生涯学習」が付随すると考えなければなりません。学校は組織のパートナーとして生涯学習の場になり、組織自身も学習の場とならなければなりません。

ですから、知識が競争的な仕事に適用されていく社会では、若い頃の一定期間のみを学校教育に費やした者を「教育ある人間」と呼ぶことはできません。いかに学ぶかを学んだ者、一生を通じて学び続ける者、とくに正規の教育によっていかに継続して学ぶかを学んだ者が「教育ある人間」です。

ただし、学校教育が社会的機関としての地位を高めていくに従い、学位偏重に傾く危険性を戒めなければなりません。知識は仕事に適用するこによって成果をあげることが重要であって、「学位」そのものに価値はありません。

逆に、直ちに利用できる実務的知識を過大評価し、人間としての基礎的な知識や英知を過小評価する危険性を孕んでいることにも注意する必要があります。

「知識労働」の特徴

知識労働では、現実の仕事に適用できる知識が必要ですから、高度に個別的な知識が求められます。専門分化すればするほど成果をあげることができますから、労働力の中心は、高度に専門化した人たちになります。

一度に多くの仕事を担当できる者としてのゼネラリストは、もはや存在することが不可能になってきます。

知識社会におけるゼネラリストは、一つの職種から他の職種に移るうえで必要な知識を速く習得することのできる人たちを意味するようになります。

高度に専門化した人たちが成果をあげていくということは、他方で、専門化した仕事を全体の目的に向かって統合できなければなりません。専門知識は統合されて初めて社会にとって有用な成果を生むからです。

したがって、専門知識を有する者は、同じ知識をもたない者に対して自らを理解させる責任を負うことになります。逆に、他の分野、他の領域の専門知識を自らの仕事に取り込むことを学ぶことを要求されるようにもなります。

このことは、近年、あらゆる知識分野のイノベーションが他の分野からもたらされる傾向にあるため、特に重要です。製品やその生産プロセスに限らず、産業や学問体系といった大きな分野においても、同様のことが起こっています。

専門分野に特化すればするほど盲目になりがちですから、なおさら他の分野にも関心をもつようにならなければなりません。

組織の重要性

知識労働が専門化するほど成果をあげられるということは、専門化した仕事を全体の目的に向かって統合しなければならないということであり、組織として働くことが前提となります。

人が働くということは、それ自体が成果を生み出すというよりも、むしろコストを生み出します。専門分野の仕事は、目的の達成に統合されて初めて成果をもたらしますから、真に成果をあげるのは、専門分野の統合を実現する組織です。

ですから、知識労働者は組織全体の成果に貢献することによってのみ、生産的になることができます。知識労働者は、たとえ組織から独立しているという言い方をしても、組織と関わりながら働かなければなりません。

したがって、知識社会は組織社会であり、従業員社会でもあります。かつてのように主人に仕え、主人のために働く社会ではありません。

組織には、主人に代わって上司が存在しますが、上司の多くもまたその上司をもつ従業員です。部下もまた、多くは上司として部下をもちます。これが組織の特徴です。

なお、組織は、参加も離脱も自由で、生まれは関係ありませんので、コミュニティとは違います。全人格を包摂する存在ではなく、特定の目的達成のための手段に過ぎないため、社会そのもでもありません。

(参考:「『社会』、『経済』、『政治』とは何か?」

組織で仕事をするとは言っても、実際の仕事の単位はチームです。チームにはいろいろな種類があり、目的に応じて使いこなさなければなりません。そのため、各チームの成果をあげる能力や強みと限界、各チーム間の代替関係を理解することが、人のマネジメントにかかわる中心的な課題となります。

ある種類のチームから他の種類のチームに転換する方法、チームの一員として一体化する方法、チームに期待すること、チームに貢献する方法などを学ばなければなりません。

(参考:「チーム型組織の種類と使い方」

企業統治の変容

知識労働者の多くは組織に雇用されますが、集合的には資本家です。年金基金や貯蓄、投資信託を通して、株式に投資しているからです。その意味で、生産手段を所有する資本家なのです。

加えて、知識労働者は、組織にとって最も貴重な生産手段である知識を直接的かつ独占的に所有しています。それがなければ、その他の生産手段を生産的にすることができません。

ですから、組織は、知識労働者が組織を必要とする以上に、知識労働者を必要とします。卓越した知識労働者を必要な数だけ確保するには、組織が、知識労働についてマーケティングを行わなければなりません。

(参考:「なぜ社員満足のために社員を顧客として扱わなければならないのか?」

組織と知識労働者は、互いのニーズと要求と期待を学び合わなければなりません。ですから、知識を基盤とする組織は、一般的な上司や部下といった上下関係ではなく、「同僚」関係でなければなりません。

知識は道具であり、元々上下などありませんが、取り組むべき課題によって、重要度や位置づけは変わります。それに伴い、チームの中心となる人が変わっていくことになります。

マネジメントの役割

組織社会では、マネジメントが中心的な機関となります。専門的な知識労働者が中心となる組織では、目的に向けて仕事を統合する機能こそが中心であり、それがマネジメントの本質です。

マネジメントは、まず求められる成果を明らかにし、次に目標を明確にしなければなりません。さらに、事業定義を考え抜き、判断や行動の基準(前提)を明らかにしなければなりません。

そのうえで、異なる専門知識をもつ者たちが共同で成果をあげられるように協力させなければなりません。

「協力」とは、それぞれの強みを生産的なものとし、弱みを意味のないものとすることです。戦略、組織の価値、報酬と罰、成果中心の気風と文化の確立が必要です。

社会問題の解決

知識社会が社会問題を増幅させる

知識社会は組織社会であり、いかなる組織にも参加は任意です。組織は、社会にとっても働く者にとっても、手段や道具でしかありません。

働く者自身が、貴重な生産手段である知識を所有したまま移動できるため、自分がより大きな成果に貢献できるところ、より大きな自己実現を行えるところへ移動するようになり、自ずと流動的な社会になります。

かつてのコミュニティのように、移動の自由がない状態で全人格的に関わる必要はないため、そこにとどまって社会の問題をじっくり解決していくという動機が働きづらくなります。

一方で、全人格的な関わりがなく自由に移動できる社会は、自らが根無し草になり、拠るべき場所がなくなってしまうことも意味します。

知識には誰もがアクセス可能であり、誰もが教育を通じて自らを向上させることができるため、大志を抱き、実現させていく人たちが現れます。それは高度に競争的な社会であり、多くの勝者と敗者が出現する社会でもあります。

以上のような状況は、知識社会の出現によって、多くの社会問題もまた生じてくることを意味します。

社会セクタの必要性

かつて、社会問題を解決すべきは政府であるという考え方が世界の主流となり、多くの先進国政府が福祉国家を標榜して巨大化しました。ところが、今では、社会問題を解決するどころか、増幅さえしてきたことが明らかになっています。

組織社会では、特定の機能のみに特化した専門組織によって様々な役割が分担されます。組織も専門特化した高度の役割を果たすことによって成果をあげることができます。

よって、組織社会は多元的社会であり、自らの狭い目的や機能にしか関心を示さない社会ともなっていきます。

そうであれば、組織社会において社会問題に取り組むべき機関は、その社会問題に特化した機能を有する組織、すなわち社会セクタでなければなりません。

かくして、組織社会には、公的セクタ(政府)、民間セクタ(企業)のほかに、第三セクタとしての社会セクタ(非営利セクタ)が必要になります。

公的セクタは、ルールを定め、守らせることを役割とします。民間セクタは、支払いを期待して何かを供給します。社会セクタは、人間そのものを変えること、人間生活の改善を目的とします。

さらに、社会セクタに期待される重要な役割が、コミュニティを失って根無し草となった人々に、新たなコミュニティの場を提供することです。市民として社会参加する機会を与えることです。社会セクタから与えられる立場ではなく、社会セクタの一員として与える立場に立つことに価値が見出されるのです。

価値観を共有する者同士が、共通の善を実現するためにボランティアとして働くことを喜びとできれば、全人格的なコミットメント、自分の存在意義や価値を見出すことができるようになり、コミュニティの創造が期待できます。

社会セクタは、その役割において、政府のパートナーになることができます。

社会全体の責任

ただし、社会的責任は、社会セクタのみに任せることができるわけではありません。

民間セクタであっても、公共の利益に貢献することが当然のこととして要求されています。社会に共通の問題について面倒を見るように求められています。

そうなれば、組織がそれぞれの機能を発揮しつつ、社会共通の問題解決にも関わりながら、いかにして社会全体の一体性を保つかという問題が新たに生じます。

それら共通の問題に対して全体としての責任をもち、社会の一体性を保つ役割は、本来、政府が担うべきものです。

「政府だけが遂行することができ、遂行しなければならない機能は何か」、「そのためにいかに政府を組織するか」が大きな問題となります。