「データ」、「情報」、「知識」は、意味を調べても互いに包含されています。歴史的にも学問的にも様々に探求されており、分野によって定義も異なるため、特に「情報」については一般的に定義できないという意見もあります。
このような用語の区別をしようとすると、「区別が曖昧で分かりにくい」、「別の人の説明と違う」などと批判をする人がいます。元々、意味が重複した用語ですから、厳密な区分は、その用語を使い分けようとする人が便宜上行っているに過ぎません。
そのような前提を踏まえ、あまり深みにはまり込みすぎない程度に、相互の違いや関係を理解してみたいと思います。
大まかには、次のように違いを説明できると思います。
- 「データ」とは、素材としての客観的・個別的な事実
- 「情報」とは、「データ」を処理、分析して一定の意味を与え、人に伝達するためにまとめられた表現
- 「知識」とは、「情報」を人間が取り入れ、一定の判断作用などが働いた結果、「認識」や「理解」のレベルにまで高まって蓄積されたもの
- 「知恵」とは、人生経験の過程で「知識」が篩いに掛けられ、人生観を高める方向に再構成されたもの、またはそれを使って物事の物事の道理や筋道などを正しく判断する心の働き
「データ」とは何か
「データ」とは、英語では「data」です。複数形の単語で、単数形では「datum」(デイタム)です。ただ、単数形で使われることはほとんどなく、今では「data」を単数形としても使うことがあるようです。
辞書で調べると、単語としては、「結果」、「事実」、「知識」、「情報」、「材料」、「資料」といった意味が出てきます。この時点で、「情報」や「知識」という意味が出てきており、相互に包含されていそうです。
さらに詳しく調べると、様々な意味づけがされています。筆者の理解で整理すると、大きく3つに分けられるようです。
客観的事実
現にそこにある事実を表すものです。
その形は、
- 資料:数字や文字を書面に書き表したもの
- デジタル・データ:コンピュータ上の記録
の2種類があります。元々資料としてまとめられていたものもあれば、実験、調査、観察などによって新たに得られたものもあります。
価値判断や考察といったものを施していない、ありのままのものです。
材料
「情報」(しばらく「知識」とは区別せずに使用します。)を組み立てるための「材料」という意味です。それ自体に意味を求めるのではなく、当初から、何らかの発見、判断、知見などを得る目的で集められたものです。
例えば、ある目的をもって、調査、観察、実験などを行い、得られたものが材料としてのデータです。これらを集め、整理、分類、処理、推論、立論、考察などを行い、「情報」を生成します。
「データ」と「情報」の境界は曖昧です。データを集めてある情報を得て、さらに別のデータを加えて、新たな情報を得る、といったことが行われるからです。
材料として使えば「データ」、処理を施して得られたものは「情報」という区別になるようです。
伝達のための表現形式
「情報」を人に伝え、理解してもらうために、形式化され、客観的に表現された状態のものです。
文字や数字として書面に表現された状態であれば「資料」、コンピュータに保存されて処理・伝達できる状態であれば「デジタル・データ」となります。音声での記録もあるでしょう。
「データ」を「材料」と見る場合、「データ」から「情報」を得るという筋道になりますが、ここでは逆に「情報」を「データ」として表現するということになります。
データを受け取った人は、それを読んだり、聞いたり、コンピュータで視覚的に表示したりして、自らの頭の中で全体を再構成して情報として取り込みます。
例えば、「私は人間です。」という表現は、文字として表示されたデータです。それを日本語が分かる人が読めば、意味を理解します。その時点で「情報」として取得されるわけです。
「情報」とは何か
「情報」が最も多義的です。様々な学問分野で独自の定義が使われているからです。
英語の「information」を辞書で調べると、単語としては、「知識」、「通知」、「伝達」、「案内」、「報告」、「資料」といった意味が出てきます。「知識」の意味もあり、「データ」と重複する意味もあります。
「情報」という言葉は、明治の初期に酒井忠恕(1850-1897)という方が造られ、「『事情』を『報告』する」の2つの単語から一字ずつ抜き出したそうです(図書館情報学用語辞典、大辞林)。
伝達
言葉の成り立ちからすると、意味のある内容を「知らせる」、「伝達する」ところに主眼があるようです。上記のデータとの関連ですでに述べた点でもありますが、
- データを収集、分類、加工、考察等を行った結果、得られた意味ある内容
- ある意味をもつ内容について、人間を離れて客観的に伝達・処理ができるように、文字、数字などの記号やシンボルの形で表現されたもの
の2つの側面が、主として認められます。情報を受け取った人が、自分の中で受け止め、再構成して適切な判断をしようとするものです。
このような内容に関連すると考えられるものとして、さらに2つの特徴的な意味を紹介します。
指令・信号
機械系や生体系が機能するために与えられる指令や信号という意味です。
サイバネティクス(人口頭脳学)の分野では、人間が環境に対して自己を調節し、かつその調節行動によって環境に影響を及ぼしていくために、環境との間で交換されるものが「情報」です。
つまり、環境に適応するために、環境との間で「情報」をやり取りしているわけです。
五感から入ってくるものはすべて情報と言えるでしょうし、第六感も関係しているかもしれません。
なお、機械を動かすために必要な信号も「情報」に分類されるようです。中身としてはデータと言えるかもしれませんが、特定のデータを組み合わせ、順序立てて送ることで、機械を動かすための意味をもった信号、すなわち「情報」が伝達されるということになります。
変化
「information」の語源には、「formal(定型的)」の否定(「informal」)の意味があるそうです。つまり、定型的な状態から逸脱した状態(変化)が起こったこと、あるいは起こった可能性があることを知らせる信号ということです。
データは、それ自体が事実そのものですが、何を意味するかは、それだけでは分かりません。しかし、これを他のデータと組み合わせて分析したり、考察したりした結果、これまでとは違う何らかの変化(の兆候)を示すことがあります。この時点で得られたものが「情報」であるというわけです。
この考え方と似ていますが、少し違うものとして、図書館情報学における考え方があります。ブルックス(Bertram Claude Brookes 1910-1991)という方が定義したもので、「受け手の知識の構造に変化を与えるもの」です。
それ事態が変化を示すものではなくても、相手が受け取ることによって、相手の中に変化を起こすものが「情報」であるという考え方です。
さらには、「受け手の内部に形成される新しい構造」を「情報」と呼ぶ立場と、作用の過程そのものを情報と呼ぶ立場があるようです。
「知識」とは何か
「知識」は、英語で言うと「knowledge」が一般的だと思います。意味を調べると、「知っていること」、「認識」、「情報」、「熟知」、「精通」、「学識」、「見聞」、「学問」といった単語が出てきます。
「情報」という意味もあり、「知識」と「情報」を事実上同一視する考え方があるということは知っておいた方がよいと思います。
「情報」との違い
「知識」は、広い意味で「知る」といわれる人間のすべての活動とその内容を指します。
狭い意味では「認識」や「理解」といった意味になります。単に「知っている」というだけでなく、その原因や理由をも把握したうえで、確実に認識することを意味します。
要するに、人間の中に「情報」を取り入れて保持されている状態になっているものが「知識」です。「情報」を取り入れ、判断などの作用が働いた結果、「認識」や「理解」といった主観的な意味合いが加わります。
「知識」は受け手と一体化しているため、人とは切り離して捉えることはできない状態になっていると言えます。その人の経験や教育が影響を与え、独自性をもつに至るわけです。
「知識」を蓄積と捉え、「情報」を流れと捉える見方もあります。
ドラッカーの考え方
ドラッカーは、人間に体化され、仕事に適用できる状態になっているものを「知識」と考えているようです。人間から切り離すことはできないものと捉えています。
人間の中で「知識」とその使い方が一体化していると考えられ、そこに本人の経験や教育の成果が独自に結晶化していると言えるわけです。
その意味で、「知識」は、人がもち、もったまま移動できる独自の資本であると言えます。組織は、知識を人から客観的に取り出して保存したり、そのまま他の人に移したりすることはできません。
例えば、ドラッカーは、「技術」を知識の一つとしています。「技術」とは、広い意味では、物事を取り扱ったり処理したりする方法や手段、狭い意味では、 科学の理論を実際に応用して自然を人間生活に役立つように利用する手段です。
「あの人には〇〇の技術がある」という場合、単に知っているだけではなく、それが使えるというニュアンスが含まれるでしょう。
「学問」とは知識の体系と理解されますが、それを人間が学び、理解し、使えるような状態で人間の中に体化されてはじめて「知識」となります。教科書に記述された状態では「情報」にしか過ぎません。
なお、「知識」と「情報」の区別については、ドラッカーの場合、書籍によって表現が異なっています。
『創造する経営者』では、本の中にあるものは「情報」であり、情報を仕事や成果に結びつける能力を「知識」としています。また、「知識」は人間の頭脳と技能のうちにのみ存在するとしています。
『新しい現実』では、印刷されたものは生の「データ」にすぎないと言っています。「知識」とは「情報」であり、「何かを、あるいは誰かを変えることのできる情報」、「行動の基礎となり、個人や社会的機関をして何らかの成果をもたらす行動を可能にし、何かを、あるいは誰かを変えることのできるもの」であるとしています。
後者では、「知識」とは「情報」であるとしていますが、その後の記述から分かるように、単なる情報ではなく、条件付きの情報であることは分かります。「知識」の意味は、両者とも本質的に同じだと思います。
さらに、『マネジメント(中)』では、「情報」は形式であってそれ自体に意味はないと言い、「情報は非属人的である」とも言っています。
「知識」は属人的ですから、単なる「情報」は「知識」とは言えず、「人間のなかに取り込まれて使える状態になった情報」のことを「知識」と考える点では、どの書籍も同じだと考えてよいと思います。
「知恵」とは何か
「知恵」には、「智恵」、「智慧」などいろんな漢字があり、厳密にはそれぞれの漢字で意味が違うようですが、ここでは同じ意味として大枠で理解したいと思います。統一して「知恵」と記述します。
「知恵」と「知識」も、同じような意味で使われることがあります。どちらも人の内部に保持され、経験や教育などの影響も加わって、その人独自のものとなっている状態であることは同じだと思われます。
違いを理解するとすれば、「知識」はどちらかというと価値中立的であり、そこに何らかの価値判断が加わっているものが「知恵」であると言えそうです。
つまり、「知恵」とは、生き方、価値、善悪などの判断を加え、自分や他の人に対して、社会に対して益する方向に「知識」を使っていこうとする方向性を伴ったものです。
人生経験の過程で知識が篩いに掛けられ、練られ、熟成された結果、人生観を高める方向に再構成されたものと言えるでしょう。
「悪知恵」という言葉もありますが、人を陥れたり、自分の利益を不当に得たりするために「知恵」を悪用する側面ですから、本来「知恵」はよい方向に使うということが前提だと言ってよいと思います。
以上の説明は、人間の中に蓄えられたもの自体を指す場合ですが、そうではなく、蓄えられたものを活用する「心の働き」を指す場合もあります。
「心の働き」とは、物事の本質を理解すること、物事の道理や筋道、是非、善悪などを正しく判断すること、物事を適切に判断して処置することなどです。この働きの中で、知識を正しく取捨選択し、使用できる実践的な能力です。