「社会」、「経済」、「政治」とは何か?

ドラッカーの書籍には、よく「社会(的)」、「経済(的)」、「政治(的)」という言葉が登場します。

これらの言葉は、何となく分かるかもしれませんが、ドラッカーは複合的に使用することも多く、なるべく正確に理解したいところです。

例えば、『すでに起こった未来』には、次のような表現があります。

遅くとも1950年代初めのころだったと思うが、私はマネジメントが、企業であるなしにかかわらず、あらゆる組織に特有の機能であり、しかも、その機能は経済的なものではなく、社会的なものであることを認識した。

もちろん、この文章が何を意味するのかについては、その後の説明を読むことによって理解しなければなりませんが、少なくとも「経済的」と「社会的」の意味の違いは知っておかなければ、何のことか分かりません。

「社会」、「経済」および「政治」は、それぞれに専門化した学問領域があります。筆者は学者ではありませんので、学問的に正確な説明はできません。もちろん、歴史的にも様々な説やその変遷もあります。

ここでは、ドラッカーの書籍を理解できる程度に、この3つの言葉の意味を大まかに理解していただけることを目指したいと思います。

「社会」とは何か

「社会」とは、最も単純に言うと「人間の集まり」のことです。

人間が共同して生活し、活動している状態、あるいはその共同体を指します。

さらに漠然と、人間が生活している現実の世の中や世間のことを広く指す場合もあるようです。

「共同体」といっても、一つの共同体の中に別の共同体を包含するような場合もあれば、互いに分離された共同体もあります。

一つの共同体では、何らかの共通項(思考や感情、仲間意識など)が共有されており,それによって他の共同体と区別されます。

共同体は、複数の人びとが持続的に一つの共同空間に集まっている状態が一般的ですが、空間的にはバラバラであっても何らかの共通項によって括られるような概念的な集まりを指すこともできるでしょう。

例えば、世界も一つの社会と捉えることができ、その中に国や民族という社会があります。さらに、地域の社会、会社という社会、学校という社会、家族という社会などがあります。

こうした社会の中では、人と人との様々な関係の中で、様々な活動があり、様々な出来事が起こります。

社会学者のテニエス(テンニース)は、『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』において、「コミュニティ」(共同体)と「社会」を区別しました。

「コミュニティ」とは、地縁、血縁、友情などで深く結びついた自然発生的で運命的な集団です。通常、参加や離脱の自由はありません。活動の一部ではなく、全人格的な関わりが求められます。家族、村などがこれに当たります。

「社会」は、人為的につくられ、管理された集団です。利益や機能が重視されます。国家、都市、会社などがあります。

「経済」とは何か

「経済」という言葉は、元々は「経国済民」あるいは「経世済民」の略語であり、「国を治め民を救済すること」、すなわち「政治」そのものを意味しました。

その後、「政治」の分野から、特定のものが「経済」として分離されたと言えます。

「経済」とは、「人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動」あるいはそれらを通じて形成される「人間関係」の全体を指しています。狭い意味では、「金銭のやりくり」を指します。

物々交換も経済活動に含まれますが、通常は、財やサービスを金銭と交換します。金銭を払って財やサービスを購入すること、金銭を受け取って財やサービスを提供することの両方の活動が含まれます。

金銭との交換を伴いながら、財やサービスが流通していく状態も指します。

さらには、そのような過程で生じる人と人、人と組織、組織と組織の間の関係も指します。

「政治」とは何か

「政治」というと、一般的には、永田町で国会議員が行っている政策決定や法律の制定、外国との関係構築などをイメージすると思います。

狭い意味では、国家の主権者が、領土・人民を治めることです。国家とその権力の行使に関わる人間活動全般、主には政策決定の過程や制度制定のことです。国家をこえた国際社会での権力闘争(国際政治)も含みます。

広い意味では、国家以外の私的な集団や組織の中で行われる意思決定や政策決定の過程にも用いられます。それを特に「私的政治」と呼ぶこともあるようです。

なお、「政策決定」とは、一般的には、目標の決定、目標の達成方法の決定などを指します。それらの実行も含めた全ての過程のことを「政策決定過程」とも言います。

政策決定では、意思決定が行われます。共同体の中で意思決定を行うため、人と人との間で様々な利害関係が衝突する中で、それらを調整し、時には強権を用いて統一的に決定しなければなりません。共同体の構成員は、決定されたことに従う必要があります。

したがって、政治の背景には、一定のルールのもとに支配と服従の関係が存在します。

つまり、社会における権力、ルール、権威を含む関係全般のことを「政治」と言うことができます(政治学者 R.A.ダール)。

社会における人間関係には様々な関係が考えられますが、一般的には、私人同士の対等な関係が想定されます。そこに、一定のルールに基づいて、一方が他方に権威や権力を及ぼして、何かを行わせたり、従わせたりするような関係が生じる場合、その「社会」関係を特に「政治」と呼ぶわけです。

その意味では、会社の中での上司と部下の関係も「政治」に含まれます。発注者と下請との関係でも、親会社と子会社の関係でも生じるでしょう。

政治に関わる支配と従属の関係は、常に一方的であるとは限りません。例えば、夫婦の関係において、ある分野の意思決定では夫が支配し妻が従属するかもしれませんが、別の分野では妻が支配し夫が従属するかもしれません。

さらに言うと、ある場面において、支配と従属の関係が不確定であり、状況に応じて入れ替わったりすることもあります。典型的には、交渉といった場面です。

交渉では、特定の事実を知っていたり、ある条件を提示することによって、支配する側に立つことがあります。同じ交渉の中で、ある部分では支配的な結果を得る代わりに、別の部分では従属的な結果を得ることで、双方が一定の満足を得られるようにすることもあります。

このように、現実に即して駆け引きを行い、一定の決着をつけることを「政治的な決着」と言ったりします。

「権力」の根拠

「権力」の根拠には様々なものが考えられますが、アメリカの社会心理学者であるジョン・フレンチとバートラム・ラーベンは、次の5つをあげています。

  1. 正当性
  2. 報酬
  3. 強制
  4. 専門性
  5. 準拠

「正当性」は、会社の上司がもつ「権限」の主な根拠になります。職務分掌として正式に認められ、客観的に記述され、明らかにされたものです。上司が報酬を決めたり、従わない者に罰を与えることができるなら、「報酬」や「強制」も権力の背景にあります。

優れた専門知識や技術をもっているがゆえに、その分野のことはその人に従うという場合、その人の権力の背景には「専門性」があります。その人が尊敬に値するために、その人の要請には進んで応えるということであれば、その人の権力の背景には「準拠」があります。

特に「専門性」と「準拠」は、その人の権力を進んで受け入れるという状態が存在しますので、その権力を特に「権威」と言います。

「統治」との違い

「政治」と似たような言葉で「統治」というものがあります。

一般的には「まとめ治めること」、特に、「主権者がその国土・人民を支配し、治めること」を意味します。 特定の少数者が、権力を背景として集団に一定の秩序を与えようとすることです。

政治とほぼ同じ意味で使われることもありますが、厳密には違いがあります。

「統治」は、少数の治める側と多数の治められる側とが分けられていることを前提としています。

一方、「政治」は、対等者間の相互行為によって秩序が形成されることを理想としているようです。

「経済」や「政治」と「社会」との関係

「社会」は、人が共同で活動している状態として最も広い概念です。ある共同体において、人と人との関係の中で行われるあらゆる活動のことを「社会活動」と言うことができます。

一方、「経済」や「政治」は、「社会」の一部を構成していると考えられます。その意味で、社会学者のT.パーソンズは、経済や政治を、社会を構成するサブシステムに位置づけています。

つまり、社会活動の中に、経済活動や政治活動、その他の活動が含まれるという関係です。しかも、経済活動や政治活動がまったく独立して分離できるわけではなく、社会の中では、様々な活動が総合的に行われています。一つの活動に対しても、政治や経済その他が複合的に作用していると理解されます。

会社で働くということ

例えば、「会社で働く」ということには、どのような関係が生じるかを考えてみます。

雇用関係を結ぶということを前提とすると、「会社は人に報酬を支払い、人は会社に労務を提供する」という契約を交わすことを意味します。

金銭と労働サービスの交換が行われることから、「経済」の関係が存在します。

労務を提供する過程では、使用従属関係が前提とされ、働く人は上司の指示に従う義務が生じます。義務に従うかどうかや期待された成果をあげられたかどうかによって報酬の額が変動するかもしれません。そこには一定の権力関係が存在しますので、「政治」の関係も存在します。

会社の中では、人と人とが協力して仕事を進めていく必要があるため、好き嫌い、価値観の一致や不一致、信頼、思いやりや配慮といった関係も大きな影響を与えます。経済や政治によって、これらすべてに対処することは困難です。「経済」や「政治」とは別の「社会」関係が存在すると言えます。

マネジメントの社会性

冒頭で述べたドラッカーの主張、「マネジメントの機能は経済的なものではなく、社会的なものである」ということの意味を考えてみます。

この考え方の背景にある一つの大きな現実は、現代社会は多元的な組織社会であるということです。企業が組織の主流ではなく、公的組織をはじめ多くの非営利組織が存在し、社会問題の解決に取り組んでいます。

企業におけるマネジメントの機能は、顧客を創造し、満足を与え、経済的な対価を得ることですから、経済的な機能を有することは間違いありません。

しかし、非営利組織では、経済的対価を得られる場合もあれば得られない場合もあります。得られるとしても、一部である場合がほとんどです。資金の大半は寄付によらなければならないことも多く、寄付に対する経済的対価があるわけでもありません。そこには、社会問題の解決に貢献したいという奉仕の精神があります。

非営利組織でマネジメントの役割を担う人も、十分な経済的報酬が期待できるわけではありません。そこにも奉仕の精神があります。一緒に働く人たちも大半はボランティアであり、奉仕の精神に訴えることによって貢献を引き出さなければなりません。

非営利組織のマネジメントは、経済では機能しないことが明らかです。もちろん、政治でも機能しません。多くの協力者に、善意による動機づけが必要であり、自ら貢献したいとする意欲をもってもらわなければなりません。経済や政治とは別の「社会性」が求められることになります。

もちろん、企業のマネジメントだけは経済的機能であるということではありません。ドラッカーは、企業のマネジメントも含めて社会的機能であると言っています。

先にも述べましたが、企業と言えども人の集まりであり、政治や経済で人を思いのままに動かすことはできません。企業のマネジメントにも社会的機能が求められます。

特に、現代は知識社会であり、知識労働者が働く人の主流を占めつつあります。彼らは金銭や権力によって生産性を上げることはできません。自らを動機づけてやる気を出してもらわなければなりません。会社として、それをサポートしなければなりません。

また、会社で働く人の多くは、使用従属関係がある正社員ではなく、短時間労働者や派遣社員などの非正規社員、業務委託などになりつつあります。権力ではなく信頼による動機づけが一層重要になります。

さらに、企業はもはや社会的責任から逃れることはできません。本業の片手間で行うことは許されず、本業の一部として、社会問題の解決や生活の質の向上に取り組まなければならなくなっています。

しかも、企業の本分は経済活動であるという観点から、ドラッカーは、利益のあがる事業に転換することによって社会的責任を果たすことを企業のマネジメントに求めています。

マネジメントは統治ではない

「マネジメントは統治である」という考え方があるようですが、ドラッカーは厳しく否定します。

「統治」は、先に説明したとおり、「特定の少数者が、権力を背景として集団に一定の秩序を与えようとすること」であり、少数の治める側と多数の治められる側とが分けられていることを前提としています。

したがって、マネジメントを統治とみなす考え方の前提には、「マネジメントは特別な身分であり、特別な権力を有する」という考え方があります。いわゆる「経営特権」という考え方です。

ドラッカーは、『マネジメント』において、次のように批判しています。

アメリカでは、マネジメントがいまだに経営特権なる言葉を使っている。特に労組の要求に対応して使う。しかし特権とは呆れて貧しい言葉というべきである。特権とは身分による特別の権利である。マネジメントにそのような権利はない。

マネジメントとは、果たすべき役割を果たすための存在に過ぎない、その仕事は、寄託された資源を生産的なものにすることである。

さらに、『マネジメント』の中で、次のように指摘しています。

マネジメントはもともと権力をもたない。責任はもつ。その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限をもつ。それ以上の何ものでもない。

ドラッカーによると、マネジメントとは「組織の成果に責任を持つ者」です。マネジメントがもつのは「成果に対する責任」であり、仕事の内容は、「寄託された資源」、特に人材という資源を生産的なものにすることです。

政治的な権力によって強制するのではありません。もちろん、経済的な報酬によって釣るのでもありません。「人の強みを生かす」という社会的な責任を果たすことによって行うものでなければなりません。