リーダーとリーダーシップ − 「人間関係論」とは何か?㉔

産業心理学の本で「リーダーシップ」について語られるとき、多くの場合、リーダーシップの性質一覧表が示されます。

しかし、歴史上の成功したリーダーについて考えるならば、そのような性質一覧表を満たすことが必要でないことが分かります。むしろ、性格に問題があったり、神経症的、てんかん症的、偏狭的、専制的な人さえいました。

要するに、「リーダーシップ」とは、特定の個人が持ったり持たなかったりするような性格あるいは心理的特性を指す言葉ではありません。

集団が置かれている状況や集団の目的、そこで期待される行動が明らかにされたとき、必要とされる「リーダーシップ」もまた明らかになります。

リーダーシップの研究成果

リーダーシップは、方法的に3つの大きな類型に従って研究されてきました。

第一は、過去または現在において優れたリーダーと認められている人々の間の共通点を見出すために、特性を分析することでした。

第二は、実験集団が組織され、その成員の中からリーダーにふさわしい人を指名するように各成員に要求し、指名された者を、第一の場合と同様に研究するものでした。

第三は、リーダーは何から構成されるかを示すため、リーダーシップの性質一覧表がつくられました。

リーダーシップについての文献を包括的に調査したW・ジェンキンスは、次の結論に至りました。

  1. リーダーシップは、研究の対象となった特定の状況に対して特有の内容を示している。
  2. にもかかわらず、類似している状況のもとで、リーダーになる人々の性格には大幅な相違がある。
  3. 異なった状況におけるリーダーシップには、一層大幅な相違がある。
  4. リーダーは、集団の成員に比べ、少なくとも一つの能力において優れている。
  5. 特定の分野におけるリーダーは、その分野における優れた技術上の能力または知識をもつ傾向がある。その点が、リーダーの唯一の共通因子である。

ラ・ピエールも同様の結論に達しました。ある状況で優れたリーダーシップとなる性質が、他の状況ではそれを阻むことを示しました。

リーダーシップには多くの分類法がありますが、産業界において重要とされるのは、キンボール・ヤングが提唱した「リーダーシップ」と「ヘッドシップ」を区別する考え方です。

「リーダーシップ」は、魅力的な人格、集団側の積極的な受け入れ、特殊な知識など、その時の状況に基礎を置いた支配の形式です。本来的にインフォーマルであり、特定の場所や時における集団のニーズと関係しています。

「ヘッドシップ」は、文化的に伝えられたフォーマルな権力を指す言葉です。王、候、種族の首長は、個人の性格とは無関係な一定の権力をもっています。経営者の権力も一般的には同様の性質をもっていると認められます。パーソナリティとは関係しない制度的なものと仮定されています。

この両者を区別する観点から見ると、これまでに論じられてきたリーダーシップに関する多くの研究には、次のような欠点がありました。

  1. リーダーシップとヘッドシップが混同された。
  2. 集団によって選出され、権力を与えられたリーダーを、その状況にもっとも適したリーダーであると誤認した。

集団が選ぶのは、当面の問題を処理するのにもっとも適しているように「見える」リーダーです。その人のパーソナリティが、その時の集団の態度の縮図であるような人を選ぶため、病的な集団は病的なリーダーを選びます。

健康な集団のみが、特定の状況の下で最上級のタイプのリーダーを選出することができます。

健康な集団のリーダーは、知性が高く、円満でなければなりません。集団の感情に無感覚で、頑なで、自己中心のパーソナリティ型であってはなりません。

つまり、リーダーは、命令や指図を与えるだけでなく、命令や指図に影響を及ぼす環境からいろいろな情報を受け取ることもできなければなりません。

調整する能力、共通の目標を表現する能力、集団の進歩をもたらす能力等の性質は、リーダーの位置にある個人自身の性質というよりも、集団が置かれている全状況の中で導かれる性質です。

つまり、リーダーは受容的で、集団の感情的風土の変化を絶えず知らせる情報によって統制されなければならないということです。状況に対して受身であるということではなく、状況をよく把握したうえで、集団の風土を健全な水準に保つための必要な働きかけができるということです。

リーダーシップの型

リーダーシップには、専制型、民主型、放任型の3つの型があります。

これらのうち、いずれがもっとも優れているかについて、これまでも数多くの実験が繰り返され、仕事の質と量のいずれにおいても民主型の優越性が確認されています。

専制型

第一は「専制型」です。集団から超然としており、集団に相談することなく集団の方針を決定します。

部下はリーダーの命令に服従します。将来の計画について詳しい情報を与えられず、現在差し迫ってとるべき処置のみを命令されます。

リーダーは、自ら先んじて個人的な非難や賞讃を部下に加えます。

専制型は、さらに3つに分けられます。

一つは「厳格な専制型」です。頑固で、自分の主義に厳格です。権限を委譲せず、一人芝居のようです。従業員が身のほどを知っている限り、従業員には丁寧です。会社の忠実な召使いには寛容です。

もう一つは「寛大な専制型」です。多くの点で「厳格な専制型」と似ていますが、従業員に対して道徳的責任をもつと思うことによって、自らの負担を重くしています。それは従業員の立場からではなく、従業員はこうしてほしいのだと自ら思う立場からの責任です。

最後は「無能な専制型」です。権勢を振るうのが好きで、移りげです。賞讃や非難は、そのときの感情次第です。節操がなく、目的に達するのに役立つと思うならば、嘘をつく、賄賂を使う、脅しをかけるなど、いかなる手練手管も辞さない人です。

民主型

第二は「民主型」です。自らその一員として集団に参加し、集団と相談したうえで命令を出します。

方針が集団討議の中から生み出され、かつ集団から受け入れられるように取り計らいます。長期の計画の輪郭を必ず示したうえで仕事をしてもらうようにします。

賞罰は、集団のためのものであることをはっきりさせます。

民主型は、さらに2つに分けることができます。

一つは「真の民主型」です。自らの任務は、従業員の自発的な仕事を調整することであると理解しています。

会社は、個々人のパーソナリティを超えたもので、たとえ自分が一時いなくなっても万事が円滑に運ぶのはよいリーダーシップの表れであると理解しています。

部下は、自分たちが何をしており、なぜそうしているかを知っていて、出世するためによりよく見せる必要はありません。

もう一つは「偽の民主型」です。「真の民主型」になることを切望していますが、そこまで至らず、結果として「無能な専制型」と変わらないものになっています。

ただし、悪かったと思う時、感傷的なとき、浮かれたときには、「われわれはみんな仲間だ」といった態度を部下に示しがちです。

放任型

第三は「放任型」です。集団に任せきりにし、集団に参加しません。

産業民主主義とは

「産業民主主義」、すなわち経営における民主型については、経営とは相容れないという誤解が少なくありません。規律をおろそかにし、労働者に好き勝手にさせるイメージがあるからです。しかし、その理解は正しくありません。

リーダーは特権階級ではなく、集団の一員として振る舞います。どの部下も必要不可欠な協力者として扱い、部下に権限を委譲します。

なぜ必要であるかを説明せずに命令することはなく、集団と問題を討議します。部下に将来の計画を知らせ、部下が何をするか、なぜそれをするかを分からせます。

正直者が損をすることのないように、部下が感情的に安心して働ける雰囲気をつくります。

民主制では、リーダーの権力が失われるどころか、背後に集団の厳正な規律があるがゆえに、権力は一層強力になります。

民主政は単なる多数決を意味しません。この点にリーダーの重要な役割があります。有能なリーダーは、思考を具体化させ、多数意見に安易に流れないように機能するからです。

民主制では、個々の成員を不可欠な協力者とみなすため、一人ひとりが自分の職務について多くの知識を持つ専門家であることを期待され、問題に応じて相応しい専門家による解決を拒みません。

ところが、多くの経営者は、部下の正直、能力、常識を不当に低く評価します。それゆえに、労働者は気が滅入っているといいます。

労働者は怠惰で無責任であるがゆえに滅入っているのではなく、そのような社会的環境に置かれているだけです。社外では善良な市民であり、無責任でも怠惰でもありません。

経営者は、自分のことを棚に上げて労働者を批判することがありますが、実際のところ、労働者の行動は、経営者の行動と平行しています。

労働者は自らの地位に拘ると言いますが、経営者もそうです。労働者は怠業して生産制限をすると言いますが、経営者も労働者の勤務中に怠業します。労働者は会社の物を盗むと言いますが、経営者も会社を私物化します。労働者は高賃金を要求すると言いますが、経営者も高給を望みます。

現代産業のもとでは、「強制」は「協力」に取って代わられなければなりません。このことは、ドラッカーが述べているとおり、知識労働者やテクノロジスト(高度な知識と技能によって仕事をする人)が中核となる組織において、ますます重要になっています。

経営者は、知識労働者に命令することはできません。協力以外に、知識労働者に働いてもらう手段はありません。

バーナードは、組織において、経営者がもつ公式の権能よりも、労働者がもつ非公式の権能のほうが根本的であり、また実際に組織を管理していると指摘しました。非公式の権能は、労働者の従属しようとする意欲と能力によって成立します。

経営者が「自分が指導するのだ」と考えても、「経営者は実際に指導できるか」が重要であり、「労働者がそれに従う意志があるか」がさらに重要です。

専制的リーダーシップの危険性

会社はオーナー(資本家)の所有物であると考えるならば、専制的リーダーシップを当然のこととして受け入れてしまいがちです。従業員を含めた経営資源はすべてオーナーの所有物であり、自由に利用し、交換し、廃棄できるものと考えがちです。

しかし、従業員はオーナーとは独立した個性であり、感情をもっています。従業員といえども自らの意志によってしか、自らを動かすことはありません。いかなる権力や外的刺戟をもってしても、従業員の感情を支配することはできません。

会社は人の集団であり、いかに力のあるリーダーであっても、指導する集団に既存するもの、または集団が与えようとするものしか用いることができません。

煽動家は不安を利用することができますが、不安そのものを創出することはできません。不安の原因は、集団の中の既存の欲求阻止(フラストレーション)です。

同様に、どんなリーダーも、他人の協力がなければ、生産を上げ、集団の士気を高め、会社内の社会的条件を改良することはできません。

リーダーに特定のパーソナリティを求めることは危険です。それが自己中心的な権勢欲の現れである場合があるからです。権勢欲は、他人を管理することによって自己の不完全さを補償しようとする病的な傾向です。

このような人は、自分が他人を考慮することなく行動する権利をもっていると考えていますので、このような人を権力の座に就けることは非行を容認することと同じです。

アドラーによると、人は自分の欠点を補償するために、その欠点の分野で優秀になろうと努力しつつ、一層その欠点を明るみに出し、欠点による害が一層生じることになりがちです。欠点の補償自体は健全であっても、その劣等感が深刻であるほど、過剰な補償行為になりがちです。

競争社会では、人を押しのけて成功する人をリーダーに据えることが妥当であるかのように主張されがちですが、リーダーに相応しいのは、他人を活かし、協力を得ることができる人です。