改革の原理 - 産業人の未来⑨

政治に理念は必要ですが、その理念を現実の制度に移すことができなければ機能する社会をつくることはできません。そのための道具が権力です。

本書執筆当時、すでにアメリカが、世界における戦略的、政治的、経済的な重心でした。世界でもっとも発展し、進化し、強力となった大量生産体制を手にしていました。そのため、ドラッカーは、アメリカが産業社会を機能させるための理念と制度を生み出すことを期待しました。

ドラッカーは、機能する産業社会が成立するための条件として、次の3つを挙げます。

  • 産業組織である企業で働く一人ひとりに人間に対し、社会的な位置と役割を与え、彼らを社会の目的の実現のために参画させること
  • 企業内の権力の正統性を確実なものにすること
  • その権力が現実化される組織そのものを、社会の基本的な目的に合致したものにすること

また、自由を成立させるための条件として、次の4つを挙げます。

  • 政治的な自由を確保すること
  • 社会の中心領域において、市民一人ひとりが責任ある意思決定に参画すること
  • 自治を実現すること
  • 政治的な統治と社会的な支配を分離し、併置し、互いに独立したものにすること

ドラッカーは、政治的権力に対置される社会的権力として、企業を想定しました。どちらの権力においても成員の自由が基盤であり、成員が意思決定に責任ある参画をすることが条件です。そして、企業もコミュニティとして、成員に位置と役割を与えることが必要であるとしました。

保守主義による新しい社会の創造

ドラッカーは、機能する産業社会が成立するための条件を次のように述べています。

第一に、産業組織である企業で働く一人ひとりに人間に対し、社会的な位置と役割を与えることです。そして、彼らを社会の目的の実現のために参画させることです。

つまり、彼ら一人ひとりの目標、行為、欲求、理念に対し、社会的な意味づけを与えることです。同時に、働く組織とその目標に、一人ひとりの人間にとっての意味づけを与えなければなりません。

第二に、企業内の権力の正統性を確実なものにすることです。その権力は、社会的、政治的権力のための正統な基盤として認められる倫理的理念から導き出されなければなりません。

第三に、その権力が現実化される組織そのものを、社会の基本的な目的に合致したものにすることです。

また、自由を成立させるための条件を次のように述べています。

第一に、自由な社会を成立させるためには、政治的な自由を確保することです。つまり、政府の権力を制御し、制限し、責任あるものとしなければなりません。

第二に、社会の中心領域において、市民一人ひとりの責任ある意思決定をあらゆることの基盤とすることです。

第三に、自治を実現することです。政府とその意思決定に市民一人ひとりの責任ある参画を実現しなければなりません。

第四に、政治的な統治と社会的な支配を分離し、併置し、互いに独立したものにすることです。しかも、互いに制限し合い、均衡し合い、制御し合うようにしなければなりません。それを可能にするために、権力の基盤を別のものに置かなければなりませんが、いずれも究極的には同一の社会目的に仕えるようにしなければなりません。

政治的な統治の基盤は、正義の理念です。政治制度とは、法的な枠組みだからです。社会的な支配の基盤は、実体的な社会目的の実現を約束するものでなければなりません。

両者が併置され、均衡し、制御し合うとき、初めて無政府主義と専制の双方に対する自由の究極の防護が図られます。

ただし、保守反動を保守主義と誤解してはいけません。保守反動は、過去の歴史上のある時点を絶対視し、その時点以降の変化を否定するものです。それは歴史の発展の否定、変化した現代における自由の否定であり、全体主義にしかなりません。商業社会から発展した産業社会の破壊にしかなりません。

産業社会は、破壊するのではなく、発展させなければなりません。その過程で、産業が社会的に意味ある存在になる社会をつくらなければなりません。そのような社会を自由で機能する社会にしていかなければなりません。

しかし、ドラッカーは、産業社会の目的については、何ら言うことができないとしました。

一方では、経済活動がなくなることも縮小することもなく、経済的な成功や報酬が重要なものとして残ること、技術進歩が終わらないことは確実であるとしました。

他方、経済活動がいつまでも社会の中心領域であり続け、経済的目的が社会の中心的な目的であり続けることはないだろうと予想しました。それは、経済的な目的を最高のものとし、先進国において成功してきたからこそです。だからこそ、あらゆる社会生活を経済活動に従属させるべき理由がなくなってきたということです。

経済発展のために犠牲にされる社会的代償が納得できるものであるかどうか、正当なものであるかどうかを考えることができるようになりました。もはや、経済的な成果が最高の価値ではなく、数多くの価値の一つの価値に過ぎず、経済活動をあらゆる社会的活動の基盤として扱うことをやめるということです。

つまり、人間を「経済人」(人間の自己実現は経済的な成功と経済的な報酬によってのみ図られる)とみなす信条を捨てるということです。ドラッカーが『「経済人」の終わり』で記したように、経済的な領域において人間の自由と平等を実現することはできないことが明らかになり、「経済人」の概念が人間の本性とその完成を示す概念ではなくなり、経済的な目的が社会的に決定的な意味をもつ目的ではなくなったからです。

その新しい理念が何であるかは分からないし、知り得るところまでも至っていませんが、そのような理念が、すでにわれわれの社会に存在しているものであることは確実であると考えました。

しかし、新しい理念がなければ、いかなる政治行動も制度化も可能とはなりません。理念は政治や制度の基盤であって、政治や制度によってつくり出されるものではないからです。

ですから、直面する問題の核心は、産業社会の目的についての新しい理念が見当たらないことです。それがない限り、理性主義と革命主義という2つのファシズム全体主義の教義を魅力あるものにする余地があるからです。したがって、自由で機能する商業社会から自由で機能する産業社会への、革命によることのないスムーズな移行をますます緊急のものとします。

その移行は保守主義以外の方法では不可能です。正統保守主義とは、明日のために、すでに存在するものを基盤とし、すでに知られている方法を使い、自由で機能する社会をもつための必要条件に反しない形で具体的な問題を解決していくという原理です。

「計画」の要件

産業社会の目的を知らない以上、産業社会の青写真を描くことはできませんが、産業社会を自由で機能するものにするために、直ちに行動しなければなりません。

できることは、既存の制度の一つひとつについて、役立つものにするための見直しを行っていくことです。新しい社会的制度に関わる提案のすべてについて、必要最小限度の基準を満たしているかを判断するために、厳格な審査を行っていかなければなりません。

このことは、思いつきに頼るということではありません。包括的かつ大胆なビジョンと準備は必要です。しかし、計画万能主義とは逆のアプローチによるものです。

いわゆる政府の「計画」という場合、無制限の政府権力を指します。完全官僚主義による専制の決定版です。計画主義者は、「計画」による支配が善意の啓蒙専制であるとしますが、専制はすべて制限されることも制御されることもないため、最悪の圧政に転落せざるを得ないことを認めようとはしません。

人類は、かつての商業社会においても、意図した目的のものとに、数々の周到な準備をしてきました。金本位制などの金融政策の研究、アメリカにおける西部開拓、イギリスの議会制度における相互牽制の仕組みなどです。

それらは、目的達成のための多様な方法を試すための、長い年月をかけた徹底的かつ慎重な準備と実験の結果生まれました。

ところが、近代的な「計画」は、あらゆる問題を自動的に解くべき魔法とみなされています。専門家の予測能力を信頼することを求め、彼らの固定観念に従うことを求め、彼らの教義に合わない事態については準備さえしようとしません。

絶対的に優れた者による唯一万能の計画ですから、最初からあらゆる選択肢を捨てるべきことを求めるものです。準備を伴ったり、実用の観点からのテストを行う必要などなく、そのつもりもありません。しかし、それは博打に頼ることと同じです。

計画とは、絶対主義であってはなりません。そもそも、どこに最終的な問題解決への道があるかさえ知らないという前提ですから、不統一、多様性、妥協、矛盾を受け入れなければなりません。絶対主義的二者択一からもたらされるものは専制しかありません。専制であるため、失敗しても認めようとはせず、むしろさらに強化すべき理由にさえします。

また、計画においては、起こると予期するもの、期待するものだけではなく、あらゆる可能性を考慮して選択肢を用意しておかなければなりません。しかも、解決策のすべてが、自由な社会の実現のための必要条件を満たしていなければなりません。

それだの準備をするからこそ、予期せぬことへの対応に必要な能力を手にすることができるようになっていきます。

このようなアプローチにおいてもっとも重要なことは、計画と準備に一貫すべき原理を理解しておくことです。そして、その原理に従って取り組むべき現実について、可能な限り多くを理解しておくことです。その中心はわれわれの日常の社会ですが、世界の現実に関わる問題もあります。国際関係と国際経済体制は変化しているからです。

未来を語る前には、今の現実を知り、現実からスタートしなければなりません。すでに手にしているものによって初めて必要とするものをつくりあげることができます。

ドラッカーは、「分析においては革新的、理念においては理想的、方法においては保守的、行動においては現実的でなければならない」と言います。何よりも、産業における自治を実現することによって、中央集権的官僚専制を防がなければなりません。

自由な企業社会を実現する

本書執筆当時は第二次世界大戦中でしたが、まさにそのときに、ドラッカーは、自由で機能する社会の建設を始めるべきとしました。なぜなら、戦後世界は、戦後政策によってではなく、戦時政策、戦時社会、戦時体制、戦時経済、戦時政治によって規定されるからです。

戦時における臨時応急の措置そのものが、戦後社会の構造を決めます。特に長期の戦争においてはそうです。戦時社会における現実、制度、信条が、戦後における平時の基盤となるといいます。現実に、戦時の臨時措置の廃止には、その導入に要したと同じ労力を要することが常です。

ドラッカーは、戦争は望ましいことではないけれども、現に今戦争が起こっている以上、建設的な政治行動にとって絶好の機会であると受け止めます。なぜなら、一人ひとりの人間にとっての社会的な位置と役割、社会にとっての共通の目的をもたらすからです。国家の総力戦においては、国民の全員の生活と仕事が、社会のあり方やなすべき仕事と一致します。

戦時よりも戦後における精神の荒廃こそ、自由にとって最大の脅威です。これを防ぐための唯一の方法が、戦時の社会組織、戦時の個人と集団の一体感、戦時の目的意識と信念を、戦後の産業社会のための社会制度の発展、平時において自由で機能する社会をもたらす制度の発展に役立たせることです。

当時の戦争は産業生産に依存していたことから、自由で機能する産業社会の形成に役立たせなければならないとしました。具体的には、企業をコミュニティとし、社会の領域における自律的自治とすべきと考えました。これが政治の領域における統治から分離され、対置されるものになることを期待しました。

当時から進行しつつあった官僚統制の中央集権化を制御するためにも、生産現場における自治による新しい組織と制度を発展させる必要があると考えました。また、自律的なものとしての社会的領域を育てることによって、戦後の平時において政府を制限するための核をつくっておく必要があるとしました。

一時的な戦時統制の名目で新たに設立された中央集権的官僚主義の行政機関は、戦後もそのまま居座り続けることは常です。このような統制の増殖を可能な限り制御するため、自治による組織に可能な限り多くの仕事を任せるべく、それらの組織を育てる必要がありました。

さらに、新たな中央集権化を抑制し、自由な領域を増大させるために、諸々の活動のための自治による組織を新たに生み出していく必要もあるとしました。

中央において行うべきことは、問題の解決につながる枠組、例えば、かつての金利政策や信用政策に相当するものをつくることだけです。問題解決のために行動するのは、自律的な自治による組織です。分権、自治、自主こそ、戦時の産業社会にとっても不可欠です。それが戦時社会を効率的にするものでもあります。

産業社会では、企業内の権力および企業に対する権力が、社会における支配と権力の基盤です。ですから、自由で機能する社会を可能とするには、企業をコミュニティへと発展させ、自らの成員に対して社会的な位置と役割を与えなければなりません。

企業内の権力が、その成員による責任と意思決定を基盤とするとき、産業社会も初めて自由な社会となります。分権と自治を基盤とする産業現場の組織化こそ必要です。