機能する社会とは何か - 産業人の未来②

ドラッカーの当時の問題意識は、技術者や科学者、熟練の機械工によって動かされる産業生産のための組織や、商業流通のための優れた組織を手にしている一方で、産業社会としての秩序を未だ手にしていないということでした。

産業としては機能していても、社会的、政治的には、文明、コミュニティとして機能していませんでした。つまり、人間が人間らしく存在し、役割や位置を得られるような「社会」と呼べる状態にはなっていなかったということです。

社会として機能するためには、価値、規律、正統な権力、組織を備えていることが必要であるとしました。社会的動物としての人間の生活は、そのような社会なくしてはあり得ません。

社会が産業化前の段階にとどまっている状態でしたから、産業化に相応しい社会に発展しなければなりませんでした。そうでなければ、いつかまた人びとが自由を放棄し、ファシズム全体主義を選択しかねませんでした。

ドラッカーによると、当時の産業社会の現実は、かつての商業社会とその市場から生まれたものでありながら、初めから、商業社会が基盤としていた基本的な前提とは相容れないものでした。

19世紀末になると、商業社会が分解し、産業組織が社会的に独立した動きを見せるようになりました。1918年なるいは1929年までに商業社会は崩壊し、社会として機能することができなくなりました。

社会が機能するために必要なもの

社会が機能するためには、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、重要な社会権力が「正統性」をもたなければなりません。

人間に対して位置と役割を与えることは、社会の目的と意味、基本的枠組みに関わります。権力の正統性は、その枠組みのなかで働くべき制度や機関を生み出します。

人間の位置と役割がなければ、そこにあるのは烏合の衆であり、社会としての秩序がありません。また、権力に正統性がなければ、そこに生まれるのは奴隷的な支配であり、惰性の支配です。人間同士の絆を備えた社会ではありません。

目的と制度は、どちらが優先されるというものではなく、どちらも等しく重要です。政治にはどちらも必要です。

集団において個人の位置と役割があるということは、個人にとって集団の存在意義があることです。同時に、集団にとっても、個人の存在意義があるということです。

個人の目的、目標、行動、動機が、社会のそれと調和しない限り、社会は一人ひとりの人間を理解することも、自らの一員とすることもできません。

過去の歴史においては、アメリカにおける黒人、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人などが、位置と役割を与えられることなく社会から押し出され、迫害の根拠となりました。

社会的な価値や制度がなければ、人間に位置と役割は与えられず、社会への参画が不可能になります。そうなると、人は無関心となり、しらけや絶望に至ります。そこに、ファシズム全体主義が台頭する危険性が生まれます。

なお、「位置が明確である」という意味は、「地位が固定している」という意味と同じではありません。

インドのカースト制は明確ですが、生涯にわたる固定的な地位です。しかし、アメリカにおいて、生まれや人種にかかわらず大統領になることができるということも、個人の明確な位置ですが、固定的な地位ではありません。いずれも明確な位置ですが、そのあり方はまったく違います。

基本的な理念と正統な権力

個人と社会の関係のあり方は、人間の本質と目的についての基本的な理念によって変わります。理念が社会の目的を定め、その目的を追求すべき領域を定め、社会の性格を定め、個人と社会との基本的な関係を定めます。

権力の正統性も、基本的な理念によって規定されます。

ドラッカーによる「正統な権力」の定義は、「社会の基本的なエトスによって正当化される支配権」です。「エトス」(エートス)とは、習慣的で持続的な性状、行為の習慣によって獲得した資質などの意味があります。

もちろん、一つの社会にも、さまざまな考えをもった数多くの人たちがいますから、基本的な理念とは関わりのない権力や組織が同時に数多く存在しています。ですから、その社会を規定する基本的な理念に基づく正統な権力は、制度的な構造をもたなければ、十分な効力を発揮することができません。権力が効力をもって初めて、その元にある基本的な理念を維持することもできます。

社会の基本的な理念に著しく反する組織や権力については、社会はそれを脅威とみなし、場合によっては、正統な権力によって排除されることもあります。自由を基本的理念とするアメリカ社会が、奴隷制度を最後は武力によって排除したようにです。

正統でない権力とは、社会的な理念、目的が伴っていない権力です。それは同時に、責任も伴わないため、制御することができない権力です。元より限界がないからです。

権力の限界は、基本的な理念に基づく社会的な目的の達成に寄与する範囲として設けられるものですから、正統でない権力には最初から限界がありません。限界がなければ、責任を負うべき対象も範囲もありません。そのような無責任で無制限な権力は、専制や専横であり、腐敗するしかありません。

ただし、ドラッカーによれば、社会における決定的に重要な理念に規定される権力、すなわち「決定的権力」は、政府と同義ではありません。政府の権力とは法的な権力ですが、決定的権力とは社会的権力です。政府の権力が、社会的権力と一致せず、基本的な理念(基本的人権)を弾圧する可能性があることは、ファシズム全体主義などを見れば歴史的に明らかです。

決定的権力といっても、社会の基本的な理念との関連において正統であり得るに過ぎません。ですから、正統だから絶対であるということはありません。

かつて、フランス革命とナポレオン戦争の後、以前の王政に戻そうとする考え方が出てきました。それは「正統主義」と呼ばれました。正統主義者は、自らの価値観と信条だけが絶対であり、王の権力こそ社会に受け入れられるべき正統な権力であると主張しましたが、特定の権力を絶対とする主張は適切ではありません。

たとえ少数派であったとしても、よりよい社会のために望ましい権力が他にあり得るという主張を、絶対権力の名のもとに弾圧してはいけません。

権力が効力を発揮するためには、腕力(武力)は最後の拠り所ですが、機能する社会においては、社会の病の治療にやむを得ず使われるだけです。あくまでも最後の手段です。

機能する社会においては、権力は「権威」として現れます。「権威」とは、腕力をもって強制されなくても、「正義」として受け入れられるものです。社会において正統と認められているからこそ、腕力を拠り所としなくても機能するはずだからです。権威をもって、機能する社会の前提である「自己規律」を実現することが重要です。