企業が基盤となる産業社会 - 企業とは何か①

産業社会では企業が基盤となります。自由企業体制が機能することが、一国の安定だけでなく世界の平和にとって重要です。つまり、ドラッカーは、自由企業体制に、経済的な機能だけでなく、社会的、政治的な機能をも果たすことを求めているのです。

ドラッカーの言う「自由企業体制」とは、おおよそ次のようなことを意味します。

  • 企業のマネジメントは、政治的機関によって任命されることはなく、政治的機関に責任を負う必要もありません。生産のための資源は、原則すべて私有です。
  • 企業の製品の購入を決定するのは、企業の外部にいる消費者です。価格は、権力ではなく需給によって決定されます。私有企業は、競争市場で利益をあげつつ販売すべき製品を生産します。企業活動を動機づけ、規定するのは、「利益」です。
  • 政府の役割は、自ら企業活動を行うことではなく、企業活動のルールを定めることです。したがって、自由企業体制といっても、企業活動に対する規制を排除するわけではありません。
  • 防衛装備など国家が使用する製品の生産については、政府による所有とマネジメントが必要な場合もあります。しかし、企業の国有は当然のものではなく、正当化と歯止めを必要とする例外措置です。

社会の代表的組織としての「企業」

近代社会は、産業技術なくして存続できません。その産業技術は、大量生産を可能とする大規模事業体(企業)を必要とします。

大規模事業体は、産業技術によって必要とされるだけでなく、近代社会に不可欠の組織です。近代社会の中核に位置する存在であり、社会の代表的組織です。

ですから、大規模事業体の是非を問題にしても意味はありません。問題は、「大規模事業体に何を求めるか」、「どのような大規模事業体がわれわれの期待と欲求に応えるか」です。

なお、大規模事業体が代表的組織であり、支配的な存在になったという意味は、大規模事業体が統計的に多数になったという意味ではありません。

社会の構造を規定するものは、多数者ではなくリーダー的な地位にある者です。リーダーは、常に多数者ではなく少数者です。しかし、リーダーが人の生活と生き方を規定し、方向づけ、その社会観を定め、かつ問題を生み、問題を解決していきます。当時のアメリカでは、それが大規模事業体としての企業でした。

大規模事業体の政治的、社会的、経済的構造に関わる問題は、特定の国の問題ではなく、あらゆる国に共通する問題です。政治体制の違いにかかわらず、問題の一部は共通です。それは客観的な領域である社会工学上の問題です。

しかし、社会工学で扱えない問題もあります。「組織の目的は何か」という問題です。

社会に生きる人間は、所属する社会そのものが安定的に機能することを求めます。社会が安定的に機能するためには、社会の代表的組織である企業に求められるべきことが当然あるはずです。つまり、社会における人間が企業に対して求める「目的」がまずあり、企業はそれを果たすために機能しなければなりません。

ですから、最初の問題は「企業という組織の目的は何か」です。次に、「その目的をいかに達成するか」です。具体的には、「それらの組織が存続するには何が必要か」、「組織が機能するには何が必要か」、「適切なリーダーシップが確立されるには何が必要か」です。

ドラッカーは、それらの理論を検討し、それを現実に検証するための対象として、GMに焦点を合わせました。なぜなら、当時のGMは、アメリカ最大のメーカーであり、大量生産の草分けとして近代産業社会を代表する自動車産業の企業だったからです。しかも、社会的組織である企業として、マネジメントに関わる基本的な問題に正面から取り組んできた唯一の企業だったからです。

産業社会成立の条件

当時、企業と産業についての書籍はありましたが、企業を政治学的に分析しているもの、つまり、共通の目的に向けた人間活動のための社会的組織として企業をとらえているものはありませんでした。

本書は、企業の本質と目的が、経営的な業績や組織の構造そのものではなく、企業と社会との関係、および企業内の人間との関係にあるとし、次の三側面から、企業の政治学的分析を行っています。

第一に、事業体としての企業の分析です。つまり、それぞれに目的をもって存続していこうとする自立組織として分析します。この分析は、次の3つ問題を含みます。

  • 経営政策に関わる問題(状況の変化と問題の発生に対応する柔軟さをもつ経営政策の必要性)
  • リーダーシップに関わる問題(リーダーを確保・訓練・テストする方法、スペシャリストを経営政策策定可能なゼネラリストに変える方法)
  • 経営政策とリーダーの評価の客観的尺度に関わる問題

第二に、社会の代表的組織として、社会の信条と約束の観点から分析します。社会そのものを機能させるためには、その代表的組織が、社会の信条と約束の実現に貢献することによって、社会の一体性を深化させる必要があるからです。この分析では、次の4つの約束を満たしているかを分析します。

  • 機会の平等
  • 努力と能力に応じて報酬が与えられること
  • 人間としての尊厳、すなわち社会の一員としての位置と役割が与えられ、自己実現の機会が与えられること
  • 全員が対等のパートナーとして協力し合うこと

第三に、社会が存続しつつ安定的に機能するうえでの条件との関係において分析します。つまり、企業の目的と社会からの要求との整合性の分析です。中心的な問題は、次の2つです。

  • 企業からみた自らの成果である「利益」と、社会から見た企業の成果である「財・サービスの生産」は、対立するのか、調和し得るのか
  • 不況をもたらしかねない企業行動に弁解の余地はあるか

これら3つの分析の側面は、等しく重要であり、互いに関係します。一つの側面における失敗は、他の側面における成功を台無しにしますから、3つの側面に調和をもたらすことが重要です。そうであってこそ、社会が安定的に存続することができます。

したがって、企業の利益は、企業の存続にとって必要であることを認めなければなりません。社会の代表的組織である企業の存続が、社会に必要とされる目的の遂行に不可欠だからです。

また、企業に対し、社会的良心の名の下に、企業利益に反することを強要してはいけません。逆に、社会的ニーズによる社会政策や社会改革が、企業にとっての必要悪になってもいけません。

企業は、自らの利益の追求が、自動的に社会的責任の遂行を意味するように経営しなければなりません。企業を基盤とする産業社会が機能するということが、企業が社会の目的と安定の実現に貢献することを意味します。

3つの側面の調和は、社会が自らのニーズと目的を放棄して、企業活動の規制を全廃することを意味するものではありません。社会的組織と個人の行動に一定の枠を課すことは、政府の重要な役割の一つです。だからといって、社会の信条や安定を理由として、企業の存続と安定を損なうような措置を法制化していいわけではありません。

「調和」とはバランスをとることです。唱えれば自然に実現されるものではなく、政治上の努力が必要です。19世紀のレッセ・フェール(自由放任主義)は社会の調和を重視しましたが、自然に実現されるべきものとされたため、うまくいきませんでした。自然に実現できないならば間違いであるという主張に対抗することができなかったのです。

理想主義と実用主義の失敗

1850年以降に政治の世界を支配してきた2つの理念、すなわち「理想主義」と「実用主義」は、3つの側面における調和を欠く政治理論であると、ドラッカーは指摘します。

いずれの理念も、3つの側面の1つを中心に、他の2つを従属させたからです。

「理想主義」は、社会の目的と理念を政治のすべてとし、あらゆる人間と組織の自立を否定しました。理念のために個人を奴隷化し、破壊し、絶滅さえ許容し、賞賛すべきことにしたも同然でした。

現代の理想主義の典型は、気候変動問題でしょう。人間活動に起因する二酸化炭素を地球温暖化の主犯とし、それに対する科学的疑問は言論統制し、自然を守るためには人口を大幅に減らすべきとさえ主張します。

「実用主義」は、社会の目的と理念よりも「効率」を絶対とします。結果的に、社会が抗争の場となり、政治が利権争いの手段となり、統治の根拠は力のみとなりました。

結局のところ、理想主義も実用主義も、行き着くところは「全体主義」です。後者は純粋に力による統制であり、前者は理想による統制です。

ただし、最終的に力の行使によってそれを行うことは同じであり、行き着く先は「ファシズム全体主義」です。

必要なことは、それぞれの立場にある者が、調和するための努力を意識的に行い、社会に関わる諸々の問題に対する解決策を見出そうとすることです。