少数派の横暴 ー 多元化の時代 ー 断絶の時代③

多元社会は、非政治的な機能をもつ機関だけでなく、政治的な機能をもつ多様な機関をも生み出しています。

非政治的な機関には、富の創造、宗教、教育、医療、介護、生活支援、就業支援、社会復帰支援、精神的支援などがあります。古くは家庭で行われていたような活動を組織で担うようになっています。

政治的な機関には、いわゆる政党があります。また、それ以外にも、いわゆる大衆運動に関わるものがあります。多数決や説得によって手に入れられないものを、力によって手に入れようとする存在です。

このような環境で活動しなければならない企業の経営者には、政治活動家としての面が必要です。

政治的な機関の大義

近代国家の理論は、一つの「多数派」と一つの「少数派」とを想定し、両者の相互作用によって国民の「一般的意思」が形成されるとするものです。

両派とも、社会的・政治的意思決定のすべての断面に関わりをもっていることが前提です。これ以外のすべてのものは「分派的」であり、邪悪なものであるとされました。

さまざまな課題に対して意見の異なる複数の集団が形成されることはありますが、ある特定の課題に関しては、多数派と少数派の2つに概ね分かれて相互作用し、意見を収束させます。

政党が、まさにそのように利害関係を統合して、多数派の連合をつくり出そうとします。

多元主義における社会的機関は、原則として、一つの機能に焦点を合わせます。

これに対し、政治的機関である大衆運動は、一つの目的に焦点を合わせ、そのために必要なことをします。その目的は、多くの場合、中止であり、阻止であり、動きが取れないようにすることです。

典型的な例が、1920年にアメリカで禁酒法を成立させたものです。

大衆運動は、通常きわめて小さな集団から始まります。ドラッカーは、小さいからこそ力を発揮すると指摘します。

問題は数ではなく、その大義とする単一目的です。これが力の源泉です。小さい集団だからこそ、単一目的で強力にまとまることができます。組織され、方向づけされ、一つの目的に固執して行動するために、他を威圧し、支配する存在になることができます。

一般国民は、そのように組織されておらず、その単一目的が重大関心事ではないため、散漫で受動的になってしまいます。だからこそ、思いのほか容易に影響力を行使できます。

ヒトラーもムッソリーニもレーニンも、大衆運動からスタートしています。

ドラッカーによると、大衆運動の発明者は、ジョゼフ・ピュリッツアーとウィリアム・ランドルフ・ハーストという2人の新聞王です。自分たちの大衆紙を利用して、統制のとれた影響力の絶大な圧力集団を生み出せることに気づきました。

大衆運動の手法

彼らは、国民の支持を広く得ようとする気はありません。それは妥協につながり、力を失う原因となるからです。

彼らの手法は、彼らへの指示を公約する候補者には投票し、そうでない候補者は拒否することです。たとえ少数派であっても、有権者の3~5%を結集できれば十分な力を発揮します。

このような方法が成功するのは、大多数の選挙民が無関心だからです。

内心ではそのグループの意見に反対する人たちが一定数いたとしても、そのグループの攻撃性があまりに強いため、無関心を装わざるを得ないと考えてしまいます。

そのグループに真っ向から反対するのは、正義感の強い少数の保守派であることがほとんどです。

両者の論戦を見守る大多数の人たちは、自ら声をあげることをしませんから、攻撃的なグループのほうが声が大きく、優勢に見えます。

その単一目的に執着していない政治家であれば、票のために妥協することを余儀なくさせる力をもちます。事実上、脅迫と同等の力です。

誰かを当選させることはできない場合でも、落選させる力にはなり得ます。また、何かを実現する力はなくても、何かを中止させる力はもち得ます。社会の一定の機能を麻痺させる力をもち得ます。

2021年の衆議院議員選挙でも、この手法が使われました。夫婦別姓に反対している議員に対して落選運動が行われ、現職議員が何名か落選しました。同時に行われた最高裁判事の国民審査でも、同様の趣旨で不信任投票が増加しました。

極左の手口

政党は、利害を乗り越え、合意を形成し、何ごとかを建設しようとします。

ところが、狂信的少数派は、妥協を許さない拒否権、手段を選ばない邪悪性によって妨害し、破壊しようとします。大抵の場合、「○○反対」という活動の形態を取っていることからも分かります。

日本の極左集団がよく行っています。特定の問題に結集して声をあげ、行動します。まるで世論の大勢を占めているかのように行動を集中させます。

別の問題が起こると、イナゴの群れのようにそちらに移動して、同じことを繰り返します。

人権に関わるようなさまざま問題に飛び移りながら、例外を一般論のように吹聴し、被害を声高に叫び、悪人をつくり出し、対立を煽り、分断を助長し、敵対の手法によって、妨害と破壊を推し進めようとしています。

それらの活動家に「リベラル」という美名を冠されることがありますが、本来の「liberal」は「自由な」や「偏見にとらわれない」という意味であり、多くの場合、真逆の意味で使われています。

マイノリティの権利を主張すれば「自由」や「解放」をイメージさせますが、裏にある真の目的は、マジョリティの権利の剥奪に重点があります。

行き着くところは、偏見の正当化、自由の破壊、混沌、「平等」という名の「全体主義」です。彼らの行動こそ人権侵害であり、力のある者、一定の権力や影響力をもつ者を貶めることによる自己満足です。

そのような活動によって自らが一定の権力をもったときには、最大の圧制者になります。それは歴史が証明しています。

このような活動に対して、マスコミは同調的です。元々マスコミは権力の監視者ですから、左翼に親和性があり、行為的に取り上げることが多くなりがちです。

そうなれば、元々関心がなく受動的な多くの国民は、それを世論だと勘違いし、いつのまにか流されていきます。

このような少数派の横暴を防ぐために、言論を統制することはできませんから、一人ひとりが、一つひとつの問題に対して主体的に関心をもち、情報を収集し、自分の意見を確立させることです。

政治活動家としての経営者

このような少数派の横暴が跋扈する社会環境のなかにあっては、経営者は、自らの組織の目的に専心する「特殊な利益」の代表者であってはいけません。

自分たちの目的以外のことや社会全体のことは政治家に任せればよいと考えるだけではすみません。

自ら公共の福祉の代表として、「大衆の意思」のスポークスマンとして、自らを確立しなければなりません。

常に、社会全体のなかの財やサービスの生産者を代表する者として、社会全体のなかでの自らの位置づけを考え、自らの行うことを社会全体の利益につなげる方向で考え、発言し、行動しなければなりません。

経営者団体や業界団体なども、そのような機能を積極的に果たす必要があります。