リチャード・ルメルト(Richard P. Rumelt)は、戦略論と経営理論の世界的権威で、ストラテジストの中のストラテジストと評されています。
この記事では、『良い戦略、悪い戦略』(GOOD STRATEGY, BAD STRATEGY)および『戦略の要諦』(The Crux: How Leaders Become Strategists)を基に、ルメルトの戦略論を概説します。
企業が状況の変化に適応できない、あるいは適応しようとしない性質を「慣性」と呼びます。
変化に賢く対応できた企業は、その後に更なる変化が押し寄せて来ない限り安泰でいられるでしょう。
ところが、ここにエントロピーというもうひとつの力が働きます。エントロピーとは、不確定性や無秩序の度合いを表し、熱の移動などの変化に伴って増大します。
熱力学の第二法則によれば、孤立した系のエントロピーは必ず増大します。これを企業経営に当てはめると、組織は長い間に必ず秩序が緩み、焦点がぼやけてきます。
したがって、経営者はエントロピーを念頭に置き、戦略や競争環境に変化がない場合でも、目標や組織や行動が本来の方向に向かっているか、注意を払わなければなりません。
慣性とエントロピーは、戦略にとって重要な意味を持ちます。
戦略がうまく機能するときには、ライバルの慣性と非効率に助けられる場合が少なくありません。ライバルの慣性を理解しておくことは、自社の強みを理解するのと同じくらい重要です。
組織にとって最大の問題は、外からやってくる脅威ではなく、内にあるエントロピーと慣性です。エントロピーが増大していると感じたら、組織の刷新に手を付けるべきです。
リーダーはエントロピーと慣性の実態をよく調査したうえで、業務慣行や企業文化、上下関係や勢力図を変えるような一連の改革を設計すべきです。
慣性
組織の慣性は、大きく3種類に分類できます。
業務の慣性
ある程度大きく、かつある程度の年月を経た企業では、あらゆる業務で標準的な手続きが決まっていき、それらが一定のリズムでこなされていきます。
知識や経験が何層にも積み上げられ、「これがウチのやり方だ」というものが出来上がっています。それはマネジャーのものの見方や考え方にも及びます。
一般に、組織の標準的な業務手続きは、古いやり方を守ろうとする方向に作用します。
普段は業務上の慣性に気づきませんが、外から突然ショックが襲ってきたときに、その存在が明らかになります。ショックは競争基盤を覆し、新しいやり方を要求することが多いので、古いやり方との間にギャップができることになります。
陳腐化した業務慣行がもたらす慣性は、退治することができます。最大の障害は経営陣の意識ですから、そこが変われば、あとは敏感に対応できるでしょう。
そのためには、進取の気性に富んだ人材を外部から登用する、より良く対応している企業を買収する、コンサルタントを雇うなどが考えられます。
どの方法を採るにせよ、旧来の慣行が染みついている人や変化に抵抗する人には退場してもらわなければなりません。それと並行して、新しい流れに沿って組織を再編することが必要になります。
文化の慣性
どんなによくできた戦略も、組織に根を下ろした文化に阻まれたら役に立ちません。実行不能な戦略を立てても意味がありません。
「文化」という言葉はどっしりと根を下ろした社会的行動や価値観を意味し、それは変化に強く抵抗すると考えられます。
企業文化の慣性を打ち破る第一のステップは、単純化です。ややこしい業務手続きを簡素化し、部門間の隠れた力関係を明るみに出し、埋もれていた無駄や非効率を排除します。何層にも及ぶ序列を整理し、不要な業務は廃止します。
部門によっては売却、分離、閉鎖もあり得ます。サービスはアウトソーシングすることもできます。連絡会議や調整委員会の類は解散し、不要不急のプロジェクトは打ち切ります。
組織構造が単純になれば、それまで官僚的組織に覆い隠されていた陳腐化した業務慣行や非効率や私欲優先の行為が一段と露わになります。
単純化が完了したら、組織単位の分割が必要になるかもしれません。とくに協力や調整を必要としない部署同士は、本来別個に活動すべきものと考えられます。
そうした組織を分割すれば、政治的結託や予算の二重取りなどを排除できます。小さな単位になればリーダーの目も行き届き、一層の効率化を図ることができます。
次に、適切な優先順位づけや取捨選択が必要です。必要に応じて、閉鎖、修復、再編を行います。このとき、業績だけでなく文化に注目することが大切です。いくら高業績の部門であっても、好ましくない文化が根づいていたら、対策を講じなければなりません。
文化を変えるというのは漠然としていますが、企業の場合には業務行動規範を変え、職場の価値観を変えることだと考えればよいでしょう。
規範は、上層部の意向に沿って少人数の集団が日々監督・指導し、強制することによって定着します。したがって、規範を変えるには上層部を変える必要があります。
しっかりした目標が定まっているときは、こうした一連の対策はスムーズに進みます。
文化の慣性の重しがとれたと判断できたら、分割した組織を必要に応じて連携させ、協力体制を整えることも考えるとよいでしょう。
委任による慣性
あえて変化に対応しない、あるいは変化に抵抗することを選ぶことがあります。それは、既存の利益の源泉がまだ安泰だと見込めるときです。これは顧客の側に働く慣性であり、顧客から委任された慣性ということができます。
委任による慣性は、既存企業が古い収益源にしがみつくのをやめ、競争環境に対応しようと決意した瞬間に消滅します。
過去の栄光に浸っていた伝統企業を出し抜いたように見える新参企業は、そのときを境に利益が途絶えます。
この動きの当初にスイッチする顧客は、価格にもサービスのクオリティにも敏感なタイプであるため、すぐさま元の企業に戻ろうとし、新参企業の凋落に拍車がかかります。
ただし、新参企業が価格優位に加えて品質の面でも顧客の信頼を勝ち取ることに成功していれば、既存大手が遅ればせながら目を覚まして競争に復帰しても、顧客を取り戻すことはできません。
エントロピー
長らく緩んだ経営をしてきた企業では、製品群が無秩序に乱立し、無節操な値引きが行われ、納期は守られず、経営幹部が利益を懐に入れる、などが起こりがちです。これらはエントロピーの増大です。
企業に作用するエントロピーの明白な証拠は、売上が次第に減っていくことです。大抵の人はこのような事態に直面して初めて「経営がまずい」ことを実感します。
人間は、余程うまく動機づけられていないと次第に緩み、散漫になり、目的意識が低下するものです。そうなっていない組織は経営が優れていると理解すべきです。