キュロスの晩年と死後 − キュロスのリーダーシップ⑯

バビュロンが安定すると、キュロスは、一旦ペルシアに戻りました。

ペルシアでは、カンビュセス王のもと、ペルシアの長老たち、最も重要な政務を司る行政官たち、そしてキュロスの間で、協定を結びました。

キュロスは、メディア王キュアクサレスの娘を妻とし、再びバビュロンに戻りました。バビュロンに到着後、直ちに諸領地を治める太守を任命し、派遣しました。

キュロスの人生は成功裡に過ぎていきましたが、7度目にペルシアに戻った折、死期を悟ったキュロスは、子どもたちや関係者を呼び、遺言ともなる最後の教育を行いました。

キュロスの王国は、東に向かってはインド洋を、北に向かっては黒海を、西に向かってはキュプロスとエジプトを、南に向かってはエチオピアを境にしていました。

キュロスは、これほど広範囲の王国を自分の意思一つで統治していたのですが、残念ながら、その偉大な王国は一代をもって衰退していくことになりました。

部下は上司に倣いますから、王の徳が失われれば、王国は腐敗するしかありませんでした。

ペルシアとの協定の締結

すでにバビュロンの状況もよくなったので、キュロスは、そこを離れてペルシアに向かって行軍することにしました。

王が陣営を設置する場所ならどこへでも、王の従者すべてが夏でも冬でも天幕を持ってついて行きました。キュロスは、天幕を張る場所を定め、どの役割の者がどの場所に位置すべきかを細かく決めました。

各人には役割に応じて自分が使用する荷物が割り当てられ、撤収時にはそれをまとめて駄獣に乗せること、荷物を解くことも同様に行うことが定められていました。

キュロスは、軍隊の規律として整頓を重視しました。何かが必要になる場合、どこへ行って手に入れるとよいかが分かるからです。

戦いを有利に導く機会は実に速く過ぎ、この機会に遅れる者たちの損害が非常に大きいだけに、軍隊の規律がよく守られるのはそれだけ重要でした。機会を的確にとらえることは、戦における有利さにとって非常に価値がありました。

キュロスは、途中、メディアに着くと、キュアクサレスのもとを訪れ、バビュロンにキュアクサレスの邸宅と公邸が選ばれていることを告げ、多くの贈り物を与えました。キュアクサレスは、キュロスに自分の娘を引き合わせ、キュロスの妻として与えたいと申し出ました。

キュロスがペルシアに到着すると、父、母、友人たち、行政官たち、長老たち、すべての貴族たちに相応しい贈り物を届けました。ペルシャのすべての人々にも贈り物を与えました。

キュロスの父であるペルシア王カンビュセスは、ペルシアの長老たち、最も重要な政務を司る行政官たちを集め、キュロスも呼んで、キュロスの成果を改めて確認した後、重要なことを語りました。

一方でキュロスが、現在の幸運に増長して権力欲から他の国々を支配したのと同じようにペルシアも支配しようと企てること、他方で国民が、キュロスの権力を妬んで彼を政権から追放しようと試みること、このようなことを互いに行うならば、多くのよい成果をあげるのを互いに妨げ合うことになると心得よ。


よい状況が生じるには、一緒に犠牲を捧げたうえで、キュロスは、ペルシアの領土に攻め寄せたり、ペルシア法の廃止を企てたりする者に対して全力をあげてペルシアを救援すると約束し、ペルシア人たちは、キュロスを権力の座から追い落とそうと意図する者や離反を企てる臣下たちがいる場合にキュロスの命に従ってキュロスを援助すると約束する協定を、神々を証人として結ぶのがよい。


カンビュセスの死後は、キュロスが王位を継ぐから、キュロスがペルシアに帰国する度に、カンビュセスのようにペルシア人のために神々への犠牲を捧げること、キュロスが国を離れているときにはキュロスの一族で最も優れていると信じられる者が神々への義務を遂行することが、ペルシア人にとってよいことである。

以上のような内容を、協定として結びました。

諸領地の統治

キュロスはペルシアを去ってメディアに到着し、キュアクサレスの娘と結婚し、再びバビュロンに向かいました。

バビュロンに到着すると、すぐに太守を支配下の諸領地に派遣し、住民の統治と税の徴収をさせることにしました。

太守が自分たちの所有物の豊かさと自分の支配下にある人の多さに増長して、キュロスへの服従を拒否した場合に、任地内で直ちに攻撃を受けるようにしようと考え、城砦の守備隊長や国中に配置されている守備大隊長たちに、彼自身の命令以外にはいかなる者の命令にも従わせないようにしようと考えました。

しかし、太守たちが任じられた後でそのようなことを知ると、不快であろうから、あらかじめ太守として任地に赴く条件として知らせておき、承知したうえで赴かせることにしました。

守備隊長や守備大隊長は、普段、城砦などの守備以外の任務には一切関わらないよう命じられていました。ただし、太守の部下ではなく、キュロス直属の部下となります。

太守は住民の統治が役目であり、集めた税のうちから守備兵たちに給料を支払いました。そのようにして、守備兵と太守は互いに依存しつつ、牽制し合う関係でした。

キュロスは、派遣される太守のすべてに、キュロスが行ってきたすべてのことを模倣させました。

まず、ペルシア軍と同盟軍から騎兵隊と戦車隊を編成することです。キュロスは、兵力に比して、もっとも多くの戦車や優れた騎兵を提示する者を、有益な同盟者であり、ペルシア人とキュロスの主権を見張ってくれる優れた監視者だと評価すると宣言しました。

次に、土地と公邸を得る者たちは太守の宮廷に伺候し、節制に励み、太守が必要とするなら役立ててもらうべく己の身を太守に捧げなければならないようにすることです。さらに、生まれてくる子どもたちを太守の宮廷で、キュロスの宮廷におけるように教育しなければならないことです。

最後に、太守は従者たちを宮廷から狩猟に連れ出し、太守自身と彼に従う者たちが軍事訓練に励むことです。そのために、猟場を確保し、動物を育てるように命じました。

キュロスがしてきたように、もっとも優秀な部下たちを食事の席によって栄誉を与えられるようにするよう命じました。

キュロスが太守たちに命じたことは、キュロス自身も実行するように努力すると約束しました。そして、キュロスが太守たちに模倣を命じたように、太守たちも自分の部下たちが真似できるように教えよと言いました。

キュロスは、毎年太守の一人が必ず軍隊を率いて巡察する仕組みを構築しました。太守たちのうち救援を必要とする者を救援し、傲慢な振る舞いをする太守には節度を持たせ、税の納入や住民たちの警備、土地の耕作を等閑にし、その他の命令を無視する太守がいるなら、それらをすべて元に戻させ、正しい秩序を保たせるためです。それができない場合は、巡察者が王に報告し、協議しました。

王国の領土は巨大でしたので、その土地の状況をいち早く知る工夫として、馬が一日に持続し得るだけ疾走して勧める道程を調べ、駅停をそれだけの距離を置いて設置しました。

駅停には、馬と馬の世話をする者たちを配備し、さらに各駅停に有能な役人を置き、その者に運ばれた手紙を受け取って先へ引き渡し、疲れた馬と乗り手たちを引き取って別の元気な馬と乗り手たちを送り出す役割を与えました。

年が巡ると、キュロスは軍隊をバビュロンに集め、遠征を開始し、シリアの国境外からインド洋までの間に住むすべての種族を征服しました。その後、エジプトを征服しました。

東に向かってはインド洋が、北に向かっては黒海が、西に向かってはキュプロスとエジプトが、南に向かってはエチオピアが彼の王国の境界となりました。

キュロス自身は王国の中央に居を定め、冬の季節にはバビュロンで7ヶ月を過ごし、春の季節にはスサで3ヶ月を暮らしました。真夏には2ヶ月をエクバタナ(メディアの首都)で過ごしました。

すべての種族が、自分の土地で実った素晴らしい果実、飼育された立派な動物、作られた美しい工芸品をキュロスに贈らなければ、不利な状況に置かれると信じたほど、人々は彼に忠実な態度をしましました。

私人のすべてもキュロスに喜ばれることをすれば、豊かになれると信じていました。キュロスは各人が多量に所有している物から与えてくれる物を受け取る時、彼らにも必要な物があるのを知ると、その必要な物を代わりに与えていたからです。

キュロスの最期

キュロスの人生は成功裡に過ぎ、年を重ねていきました。7度目にペルシアに戻った折、宮殿で眠っていると夢を見ました。とてつもなく大きな姿をした者が彼に近づき、「キュロスよ、準備せよ、お前はもう神々のもとに行くのだから」と言ったといいます。これにより、彼は死期が近づいていることを知りました。

彼は、ペルシアのしきたりに従い、神々に犠牲を捧げ、これまでの多くの立派な成果への感謝を捧げました。神々のご配慮を認識していたこと、自分の成功が人間の能力を超えると自慢することなど決してなかったことに感謝し、子どもたちや妻や友人たちに幸運を与えてくださるよう、そして自分の生涯に相応しい人生の週末を与えてくださるよう、神々に祈りました。

その後、キュロスは入浴もせず、食欲もなくなってきたので、息子たち、友人たち、行政官たちを呼び、2人の息子のうち、兄のカンビュセス(キュロスの父と同名)を王位につけ、弟のタナオクサレスをメディアとアルメニアとカドゥシオイの太守にすることを宣言しました。

最後に、2人の兄弟が協力して王国を維持していくための教育を行い、皆に別れを告げました。

自分が死ねば、自分の身体は黄金の棺にも、白銀の棺にも、その他の棺にも横たえず、できるだけ早く大地に返して欲しいと願いました。

すべての美しいもの、すべての良いものを生み出し、育てる大地と一体になることこそ、キュロスにとっての幸せでした。

王国の劣化

キュロスの王国は、東に向かってはインド洋を、北に向かっては黒海を、西に向かってはキュプロスとエジプトを、南に向かってはエチオピアを境にしていました。キュロスは、これほど広範囲の王国を自分の意思一つで統治していたのです。

キュロスは、自分の臣下たちを自分の子供たちと同じように大切にし、面倒を見ており、臣下たちもキュロスを父親のように敬っていました。

しかし、キュロスが亡くなると、彼の子供たちはすぐに争い、諸都城も諸種族も直ちに離反し、すべてが悪くなっていきました。

キュロスとその臣下たちが誓言し、右手を出して約束したことであれば、最も非道な罪を犯した者でさえもそれを信じたといいます。彼らの人格は、それほどまでに名声を得ており、信頼されていました。

同盟軍としてキュロスやペルシア人と共に戦った種族の司令官たちは、キュロスの死後も、その名声を信じ、身を任せました。ところが、司令官たちがカンビュセス王(キュロスの息子で跡継ぎ)の前に連れて来られると、首を刎ねられることになりました。キュロスと遠征した種族の兵士たちも、多くはそれぞれの約束を信じて裏切られ、滅んでいきました。

信頼すべきはずの王が、裏切りを公然と働くようになれば、属国の王たちは互いに裏切り合い、家族さえ裏切るようになりました。互いの誓約を破ってでも、ペルシア王のために有利な計らいをしたとみなされれば、最大の栄誉で報われたからです。

支配者がどのような者であれ、支配される者たちの人格は、支配者の人格のようになっていくのです。ですから、ペルシアが支配する王国は無法になってしまいました。

彼らは多くの罪を犯した者たちだけでなく、不正な行為を全くしていない者たちをも捕縛し、財貨の支払いを不当に強要しました。その結果、多くの財貨を所有している者は、そう思われるだけで、多くの罪を犯している者たちに劣らず恐怖を抱き、権力者たちと密接な関係を持とうとはしませんでした。王の軍隊に参加する危険など冒しませんでした。

ですから、ペルシアと戦う者たちは、ペルシアの領地内で思い通りに行動することができるのでした。もとはと言えば、ペルシアの権力者たちの神々に対する不敬と人々に対する不正から帰結することであったのです。

権力者たちの食事に対する節度は失われ、身体を鍛えることも怠るようになりました。王たちは酒に溺れ、狩猟による鍛錬も行わなくなりました。ところが、鍛錬のために狩猟に出かける者たちにはあからさまに嫉妬し、彼らを憎んだのでした。

引き続き少年たちが宮廷で教育されることも続けられましたが、かつてのように馬術を学んで習熟しても評価を得る機会がなくなったため、馬術の習得は消滅しました。

少年たちは、かつては宮廷で裁定が正しく下されるのを聞いて正義を学んでいましたが、多くの金銭を与えたほうが裁判に勝つのを明確に見るようになったため、むしろ不正を学ぶようになりました。

少年たちは、かつては有益な物を使用し、有害な物を避けるために、大地から生え出る物の特性を学んでいましたが、後にはできるだけ多くの悪事を行うために学んでいるように思えました。多くの人が毒薬で死んだり、殺されたりするようになったからです。

結局、ペルシア人たちとその従属者たちは、以前より神々に不敬に、同族の者たちに冷酷に、他の者たちに非道に、戦争に臆病になってしまいました。