19世紀の商業社会 - 産業人の未来③

19世紀の西洋文明においては、すでに産業が中心となっていましたが、社会そのものは商業社会でした。あるいは、商業を中核にもつ田園社会でした。

イギリスは、1914年まで全ヨーロッパの理念と制度のモデルであり、もっとも発展し、もっとも強固な商業社会でした。イギリスでは、「紳士」が人間としての理想像でした。紳士は産業とは関係がなく、産業化前の秩序に生きる人びとでした。

従来、紳士になれるのは貴族だけでしたが、自由業と商人も、紳士たり得る階級として認められつつありました。しかし、あくまでも産業化前の田園的商業社会の理念と生き方を基盤としていました。

ヨーロッパ大陸に目を向けると、まずフランスでは、大戦までの理想像は農業主でした。18世紀末のフランス人にとって、田園的商業社会こそが時代の完成であり、進歩の頂点でした。

プロシアでは、調和ある商業社会自体が一度も成立したことがありませんでしたが、文化的、社会的には、人間の理想像や社会秩序は商業社会そのままでした。社会の代表的階層は、自由業、大学教授、官僚、商人、金融家などのブルジョア階級でしたが、政治的な権力を握っていたのは、ルター派の貧しい農場主であり職業軍人でもあったユンカーでした。

アメリカでも、当時の支配的な価値、理念、秩序は、産業化前のものでした。独立した責任ある土地持ち市民としての自由農民こそ、社会的にも政治的にも理想でした。

商業社会の理念

19世紀は、人間の本質を「経済人」と見ていました。すなわち、社会の目的を、経済発展による自由と平等の実現に置いていました。

その社会のことを、ドラッカーは「商業社会」と呼びました。

商業社会では、一人ひとりが自らの財産権を行使することによって社会に参画しました。「商業社会に参画する」とは、一人ひとりが自らの財産権を行使することによって市場に組み込まれることであり、これによって社会的な位置と役割を与えられました。

商業社会における決定的な支配力とは市場における権力のことであり、その権力の正統性の基盤は財産権でした。

財産の意味の変化

ドラッカーによると、商業社会は財産の意味を大きく変えたといいます。

商業社会になる前、財産は、社会秩序によってもたらされるべきものであり、社会的な位置と役割の付録でした。つまり、社会的な位置と役割に応じて、社会的に意義ある分野の業績をあげ、その業績に従って財産を得ていました。

ところが、商業社会では、財産が、社会的な位置と役割を得るための手段となりました。財産権をもち、それを行使することが、個人の社会的な機能そのものになりました。

こうして、経済が社会の中心に位置づけられました。経済的な報酬が社会的に最高の報酬となり、経済的な信用が社会的に決定的な信用となり、経済的な活動が社会的活動の主なるものとなりました。

統計的には、19世紀において、経済的な利得のために働く人の数や市場の外で働く人の数が大きく変わったわけではありませんでした。しかし、社会において重要なことは数ではなく、何を重視するかです。理念と信条が何を中心とするかです。

商業社会の性格を規定するのは、個人の財産権を基礎として、市場を舞台に展開される経済活動でした。財産は社会活動の手段であり、個人と社会の関わりが財産によって規定されるようになりました。

市場では、土地、労働、賃金など、あらゆるものが財産となり、商品として取引されます。市場を通して、財産間の関係として人間の関係を規定するものが契約です。互いの同等な財産を交換する契約です。例えば、雇用契約では、労働能力と賃金を交換します。売買契約では、製品と代金を交換します。

市場における権力

ドラッカーがもっとも重要でありながらもっとも理解されていないものとして挙げていることは、市場における決定的な権力の構造です。

教科書的には、商業社会にはいかなる制約も存在しないとされています。経済活動における規制の不在が、「レッセ・フェール」(自由放任主義)の特質とされてきました。この場合の「規制」とは、政治的権力による規制のことです。

つまり、レッセ・フェールは、政治的権力が経済的領域に介入することを否定するものです。政治的権力は、政治的領域の枠外では正統ではないから、政治的領域に限定すべきであることを主張しています。

ドラッカーは、経済的領域はあまりに重要なので、規制抜きに放置することはできず、何らかの統治が必要であるとする論のほうが正しいと指摘します。

現に、市場には、政治的権力ではない規制や権威が存在しました。政治的権力とは別の動機、目的、手段をもっていました。市場を機能させるために必要な規制です。むしろ、レッセ・フェールの理念に従って政治的な統治機関を市場から締め出すために、自らの制度を発展させていったというのが現実です。

ドラッカーによると、それらのうちもっとも重要で強力なものが、「国際金本位制」でした。金本位制によって、通貨と信用は、もっとも完全な市場である国際貿易の支配下に置かれたといいます。

金本位制によって、国内の信用創出や金利と貿易収支の間に直接的な結びつきができるため、産業組織の活動が制限されることはありました。その産業において、貿易が重要な位置を占めていない場合は、負担が大きいこともありました。

しかし、市場を産業の上位に位置づけ、政府と社会を並立させ、産業社会における政治的自由を守るための手段として、金本位制は有効でした。経済効率は必ずしも高くなかったものの、政治的な制度として意義があったということです。

ところが、1918年(第一次世界大戦終結)以降、特に1931年(イギリスを筆頭に各国が金本位制から離脱)以降、経済的領域に政治的な統治機構が進出し、ドラッカー曰く、市場が崩壊するに至りました。

ドラッカーは、アメリカの連邦準備制度を起源とする金融政策の機動的発動が、商業社会の基盤の崩壊に向けての決定的な一歩であったととらえました。

そして、あらゆる国の軍事経済に見られる通貨と信用の産業生産への従属化こそ、商業社会の基盤の崩壊に向けてゐのもっとも基本的かつ決定的な変化であったとみなしました。

非生産的、反産業的な伝統

西洋では、すでに産業が中心となっていた19世紀においても、社会そのものは商業社会でした。産業と無縁であり、産業の実体は、真に価値あるものからは遠ざけておくべきものとされていました。

そのような状況はイギリスにおいて顕著であったといいます。イギリスにおける理想像であった「紳士」は、産業化前の秩序に生きる人びとでした。

ヨーロッパ大陸では、社会秩序と政治制度は産業化前のものであっただけでなく、反産業的でもあったといいます。18世紀末のフランス人にとって、田園的商業社会こそが時代の完成であり、進歩の頂点でした。

ドラッカーによれば、この考え方こそ、19世紀ヨーロッパの社会的理念のなかで産業秩序の形成をもっとも妨げたものでした。産業を社会に組み込み、企業に働く労働者に社会的な位置と役割を与え、企業の内外の権力に正統性を与えることを不可能にしました。

フランスのブルジョア階級にとって、産業は嫌悪すべきものであり、自らの信奉するものを否定するものでした。産業労働者が嫌悪されただけでなく、産業界の雇用主も社会にほとんど組み込まれていませんでした。

この問題は、1914年以前には、フランス社会の実体が商業社会の前提と合致していたため、小さな問題に過ぎませんでした。しかし、1918年以降、近代産業が発展するに従い、商業社会の理念と産業の実体との相克は、耐え難いものになりました。

2つの大戦間のフランスでは、産業界の経営者が社会に組み込まれていなかったため、その権力に正統性がなく、専横を極めていました。

1918年以降の急速な産業発展の結果、社会的、政治的意思決定の実権は、ますます企業経営者の手に押しつけられましたが、彼らの権力には基盤がなく、当時の社会の価値観や信条に明らかに反するものとされていました。

このため、1930年代初めのフランスほど、現代社会に特有の社会的、精神的危機が明らかだった国はなく、ファシズム全体主義革命をもたらしたドイツ以上に、はるかに切羽詰まっていたといいます。

プロシアでは、社会の代表的階層は、自由業、大学教授、官僚、商人、金融家などのブルジョア階級でしたが、政治的な権力を握っていたのはユンカーでした。

ユンカーはルター派の貧しい農場主であり、拝金主義の危険を知っていたので、反商業的でした。彼らの多くは職業軍人でもあったため、商業社会における私益を行動基準として認めるわけにはいきませんでした。

その結果、ユンカーとリベラルな都市中流階級(商業社会)との対立が、ドイツの発展に深刻な影響を及ぼすことになりました。

ドイツが、反商業的なユンカーと、商業的なブルジョア階級の対立によって分裂し、混乱したままであったため、産業に携わる人びと(雇用主と労働者)に対して、イギリスやフランスとは比較にならないほどの地位と権力を与える結果となりました。

これによって、ドイツでは、表面的には産業社会に関わる問題の解決に近づいているように見えました。しかし、イギリスやフランスと違って、ドイツでは調和ある商業社会自体が一度も成立したことがなかったため、産業内の緊張に耐えることができず、社会そのものが崩壊しました。

アメリカでも、実際には、大量生産産業が社会的な現実でしたが、いつでも産業組織から離脱し、農民、店員、自由業として独立できるという根強い考えがありました。

大企業の大量生産のない社会、経営者が絶対的な権力をもっていない社会としての価値観であり理念をもっていましから、社会の機能分化を否定するという点において反産業的でした。

商業社会の限界

ドラッカーによると、市場を完全に発達させた国はイギリスでした。しかし、ロンドンのシティで国際金融の仕事に携わった経験から、その社会的、経済的領域には規制が現存しており、利益の追求による自動調整などまったくの作り話にすぎなかったといいます。

「市場の権威筋」と呼ばれる存在があり、その権力を、市場の代表的な機関であった中央銀行、証券売買市場、資本調達市場、商品市場、外為市場、通貨市場などを使って行使していました。

ただし、彼らは、自らの利益ではなく、市場の利益のために規制を行っており、商業社会の維持という政治的な目的のための規制でした。そのような姿勢があったからこそ、権威をもち、市場の保護者としての地位にあることができました。

市場における統治は、市場への参加の可否に関わる権力の行使を通じて行われ、その最高の権威筋がイングランド銀行でした。

商業社会におけるこのような統治のあり方は、少数独裁でした。かつての統治をそのまま引き継いだもので、法律によって支配者を決めているわけではありませんが、誰がその一員であり、重要であるかは、事業を行う者は皆知っていました。

しかし、そのような社会秩序も、産業社会においては十分に機能するものではありませんでした。それどころか、産業の興隆さえ見通すことができませんでした。

ワット(1736年~1819年)が最初の業務用動力機関を製作したのは1776年であり、イギリスの産業革命は1760年代に始まったとされています。それでも、産業組織が多少なりとも社会の新しい要素として認識されるようになったのは、1830年代の最初の産業不況のときでした。さらに、産業社会に特有の問題のあることが認識されたのは、19世紀末でした。

商業社会の制度と産業社会の実体との衝突は、商業社会において経済政策の基礎となっていた2つの理論の破綻に顕著に現れたといいます。一つは自由貿易理論として知られる「国際分業理論」であり、もう一つは「独占理論」でした。

いずれも、生産物の種類と品質が、土質や気候など人力の及ばない要因によって規定される経済を前提にしていました。それは産業化前の経済です。国際的に分業し、得意な分野に集中して、互いに交換し合うことがもっとも経済効率が高いとされます。また、供給に制約があるため、独占は非効率です。

ところが、産業組織による生産は、量的にも質的にも、極端な例は別として、自然条件によって規定されることはありません。そのため、補完的な国際分業理論は成り立たず、競争的で、非固定的で、変化します。このような状態で自由貿易理論を掲げると、常に産業が発展している国が優位で、発展していない国が劣位となり、前者がますます富み、後者がますます貧しくなります。

また、産業組織では、自然条件に制約されていた商業社会に比較して、生産システムにおける技術的な制約が事実上ないのと同じでした。当時は、需要の制約もないに等しいため、生産量をできるだけ増大させることによってコストを削減し、価格を引き下げることが、最大の利益をもたらす経済行動でした。したがって、独占がもっとも経済効率が高くなります。