戦略としての「戦争計画」 − 本来の「戦略」と「戦術」③

この記事では、経営に関する戦略の参考とすべく、戦略としての戦争計画について説明してみたいと思います。

軍事分野における「戦争計画」については、様々な意見や議論があると思いますが、ここでは、その才能と努力をもって戦争の本質の解明に終始努力し、それに最も成功していると称されるカール・フォン・クラウゼヴィッツの著書『戦争論』に基づく説明となります。

戦争計画は、戦争に関する最も総合的で重要な問題、すなわち戦略そのものに関わるもので、あらゆる軍事行動を総合し、一つの最終目的を有する作戦に合一します。個別の目標は、この最終目的に合わせて調整されます。

戦争計画という基本構想が、すべての方針を律し、戦争における手段と投入される力の大きさを決定し、作戦の最も細部に至るまでを規制します。

計画の前提 − 絶対的戦争と現実の戦争

戦争計画の議論に当たり、戦争を2の概念に分けます。極端な概念を想定した戦争と現実の戦争です。

戦争の極端な概念には、更に2つあります。一つは、絶対的な形態をとる戦争(絶対的戦争)の概念であり、いわば戦争の理想形です。

絶対的戦争では、戦争に内在する無数の要素が見事に相互作用し、連続して行われる戦闘の全系列が厳密に相互関連します。

「勝利の限界点」(すべての勝利に必ず生起し、これを越えれば損失と敗北がもたらされる転換点)の存在によって、また戦争におけるすべての自然な関係によって、ただ一つの結果である最終的な決着に至ります。

絶対的戦争は、分割不可能な全体としてのみ存在し、個々の構成要素(個別の戦闘の結果)は、全体との関係においてのみ価値を有します。

これに対して、もう一つの極端な概念があり、これに従えば、戦争における結果は、それぞれ別々に達成された戦闘の成果の総和として与えられます。

この場合、一つの戦闘の結果は次の戦闘に影響を与えません。独立した個々の戦闘を戦い、成果の得点を積み重ね、合計点で決着がつくと考えます。

第一の概念(絶対的戦争)をとるとすれば、ある戦争を最初から一つの全体とみなし、最初の一歩から目標を明確に掲げ、すべての努力をこれに向けなければなりません。

第二の概念をとるとすれば、わずかな利益でも、それだけのために追求され得るし、その後は成り行きに任せられます。相互関連はないと考えるからです。

しかし、現実の戦争では、純粋で極端な概念を想定することはできません。戦争を構成するあらゆる異質な要素には自然な重みや摩擦が伴い、人間の精神が様々な矛盾や愚かさや臆病さを持つことなどを正当に認めなければなりません。

人間が引き起こす戦争とその形態は、その時の支配的な思想や感情や諸関係に大きな影響を受け、可能性、蓋然性、幸運や不運によっても左右されるので、厳密な理論的考察はほとんど役に立ちません。

戦争の理論では、これら現実に起こり得る問題のすべてを受け入れることができなければなりません。そのために、戦争における2つの極端な概念が、いずれも理論には必要です。

ただし、2つの概念は異なる方法で適用されます。第一の概念は根本概念として、第二の概念は状況に応じた修正として適用されます。

第一の概念が標準的な指標となり、基本的な尺度となることによって、何をなし得るか、何をなすべきかの準拠を理論に求めることができます。ただし、戦争を遂行する国家は、最後の結末を考えて最初の第一歩を踏み出すことが緊要になります。

戦争の理論の特性

戦争の理論においては、いかなる戦争であっても、まずそのあり得る性格と概略の規模を把握することが要求され、これらは政治的な意図と当時の状況によって変化します。

したがって、戦争のためにどれ程の資源を投入すべきかを明らかにするには、まず、彼我の両側に立って戦争の政治的目的について考察しなければなりません。また、敵国と自国における力と関係、政治と国民の性格ならびにその能力を考察しなければなりません。

これらの判断において、互いに相手を見誤る要因が少なからず存在します。まず、敵に対して加えるべき強制力は彼我の政治的な要求の大小によって決定されますが、政治的な要求が明らかであることは稀です。また、対立する国家間の状況や関係が同一ではありません。さらに、各国政府の意志の強さ、性格や能力が異なっています。

これらの要因が、直面するであろう相手の抵抗を推し量る場合の不確実性となるため、採用すべき手段と設定すべき目標を誤る可能性が出てきます。

両者とも、戦争において努力が不十分であると成果が得られず、重大な損害の原因ともなり得ることを承知しているので、お互いに相手を圧倒しようとします。

このような場合に極端な目標が設定されると、これを達成しようとする努力も極端なものとなり、政治的要求に対する配慮は忘れ去られ、手段と目的との調和が失われ、多くの場合、それによってもたらされる国内の状況のために挫折することになります。

これらの多様な、複雑に絡み合った対象を比較検討して正しい結論を見い出すに当たって、純粋に客観的であることは不可能であるため、純粋な科学や論理や数学の世界を離れる必要があります。

広い意味での芸術、すなわち無数の対象と関係の中から最も重要で決定的なものだけを高度な判断力によって見つけ出す熟練の技が求められます。

このような判断力は、漠然とした観察によって全ての要因とその相互関係を把握し、素早く当面の事態に関係の低い些細なことを排除し、関係の深い重要なことを見つけ出す能力から成り立っています。

それぞれの時代には独特な戦争理論があり、それぞれの時代の事象は、その時代の特殊性を考慮して判断されなければなりません。その時の君主や政治家と将軍の知的、情緒的な特性によって規定されたことも認めざるを得ません。

しかし、そうは言っても、その中には普遍的なものが含まれているはずであり、それこそ戦争の理論が特別に対象とすべきものです。

戦争の理論は、現実の状況における教えでなければなりませんから、理論の中に、考察の対象を批判し、分別し、整頓する視点を持ち、戦争が生起した多様な状況を常に把握する必要があります。

それによって、戦争の理論は、ある時代と現在の戦争を適切に解釈できるように、戦争の概要を示すことができます。

要するに、戦争を計画する者が設定する目標と投入すべき手段は、その時代の全く独特な一連の状況に基づいて決定されなければならない一方で、これらの独特な状況は普遍的な性格を内在しているはずですから、戦争の本質から導き出されれた普遍的な結論に従う必要もあるのです。

戦争の目標としての敵の撃破

戦争の目標は、常に敵の撃破でなければなりません。ただし、敵国の完全な占領が常に必要であるとは限りません。逆に、国土の完全な占領によっても、講和に達するのに不十分なことがあります。

戦争における成果は、一般的な要因によって決定されるものではなく、ある特定の、その場に居合わせなければ見過ごしてしまうような、また口にされることもない多くの精神的な要因によって決定されます。些細な事件や偶然でさえ、決定的な要因になり得ます。

理論としては、戦争の当事者間の主要な関係に注目すべきであるとしか言い得ません。この主要な関係によって、すべてがこの点から発するような一つの重心が形成されます。

したがって、戦争においては、あらゆる力をもって敵の重心を打撃しなければなりません。

多数の小党派に分裂した国家の場合は、通常その重心は首都にあります。大国との同盟に頼る小国の場合は、重心は小国の保護に任ずる同盟国の軍隊にあります。同盟関係においては、重心は利害の一致する点にあります。国民の武装蜂起においては、重心はその指導者個人と世論にあります。

攻撃は、この重心に対して指向される必要があります。常に敵戦力の中核を捜し求め、全体的な勝利を得るために全力を投入することによって初めて、敵を打倒することができます。

敵がそれによって均衡を失ったなら、均衡を回復する時間の余裕を与えてはいけません。戦力が優勢にもかかわらず、安易な気持ちで敵の一地方を攻略し、この僅かな成果に満足してもっと大きな成果を逃すようなことがあってはいけません。

目標とすべき敵の重心がどのようなものであるにしても、敵戦闘力の撃破は最も確実な方法であり、いかなる場合においても作戦の非常に重要な段階です。

2カ国以上の国々が同盟して別の国と戦争する場合、政治的には、これを一つの戦争とみなすことができます。

問題は、各国が独自の利害関係と、これを追及するための独自の力を持っているか、あるいは他の国々の利害と力が単にその内の一国の利害と力に依存しているだけなのかです。後者に近いほど、多数の敵を単一の敵とみなし、主要な活動を単一の主攻撃に統一することができます。

一個の敵を撃破することによって同時に数個の敵を撃破できるとすれば、その一個の敵が重心とみなし得るので、その敵を撃破することが戦争の目標でなければなりません。

このような目標が可能であり、有利であるとみなすことができるためには、自軍の戦力が十分に強力でなければなりません。敵の軍隊に対して決定的な勝利を獲得でき、獲得した勝利をさらに拡大して、もはや均衡を回復できなくなるまで敵を追い込むために必要な戦力を投入できなければなりません。

このような勝利によって他の敵が立ち上がり、最初の敵に対する勝利を放棄させるように強いることがないほどに、自国の政治的立場を強固なものにしなければなりません。

このような前提が適用できない、すなわち多数の重心を一個の重心に集約できない場合は、複数の戦争を想定し、それぞれに独自の目標を設定するほかありません。この場合、多数の敵が独立的に存在し、その全体戦力は著しく優勢となりますので、敵の撃破を目標にすることはできません。

制限された目標

敵を撃破するための条件として、物理的または精神的に大きく優勢であるか、大きな企図心または危険を恐れない精神が必要です。

これらのすべてが欠けていたら、軍事行動の目標は制限され、若干の敵の領土を占領するか、状況が変化するまで自ら保有するものを維持するかのいずれかになります。

後者は、一般に防衛戦争の目的です。防衛戦争では、状況が有利になる時点まで待つことになりますので、将来における状況の好転を期待できることが前提です。

これに対して、攻勢戦争は、現在の有利を利用するものであり、攻勢しなければ将来敵に有利な状況が予想される場合にとられます。

いずれの側も将来特に有利な状況を期待できず、したがって決定するたけの根拠がない場合は、より政治的に攻撃的な側、すなわち積極的な目的を有する側によって攻勢戦争がとられるでしょう。

戦争目標に対する政治的目的の影響

政治とは、内政における、あるいは人間の、さらには哲学的な考察によって追加されるであろうすべての利害関係をその中に統一し、調整するものであると前提されます。

戦争を始めさせる政治的目的によって、戦争指導は著しく影響を受けます。戦争は政治的交渉の一部に過ぎず、政府や国民の間の政治的交渉によって引き起こされることはよく知られているからです。

ところが、戦争が起こると政治的交渉は中断され、それとは全く違った状態が出現し、この状態はそれ自身の法則に従うと考えられがちです。

しかし、実際は、戦争によって、対立する国民や政府の間の全ての政治的関係が断絶することはありません。

戦争は、国民や政府の考えを別の手段で表現する政治的交渉の継続です。政治的交渉の方針は、戦争におけるあらゆる事象を支配し、結びつけ、戦争から講和に至るまで一貫して維持されます。

したがって、戦争は、政治の一部です。戦争を構成し、その主要な方向を決定する要素(彼我の戦力、同盟関係、国民や政府の性格など)は全て政治的性格を有し、政治的交渉の全体と密接に関係しているので、政治的交渉から決して切り離すことはできません。

このようにして、政治は、戦争の圧倒的に破壊的な要素を単なる道具に変えてしまいます。政治が戦争の性格を決定するので、政治が野心的で壮大になってしまうと、戦争もこれに従い、ついにはその絶対的な形態にまで達します。

しかし、政治と戦争の関係を理解すれば、絶対的な形態をとる戦争を見失う心配はありません。このような考えによってのみ、判断のための正しい立場と視点が得られ、このような立場と視点から、戦争計画の大綱が策定され、評価されなければなりません。

今日の軍事機構が非常に巨大で複雑なものになったとしても、戦争の大綱は常に政治機構によって決定されるべきです。政治情勢を考慮せずに、戦争計画の大綱を立案することはできません。

戦争は、政治そのものの表現にほかなりませんから、政治的な視点を軍事的な視点に従属させてはいけません。政治が戦争を生み出す知性であり、戦争はその手段です。

軍事的な視点を政治的な視点に従属させなければなりません。あらゆる戦争は、その取り得る性格と主要な外見に関して、まずこれを生み出した政治的要因と状況から把握されなければなりません。

それによって、戦争指導における最高の立場、すなわち全ての指針の生み出される原点は政治以外にあり得ないことが完全に理解され、明白になります。

このような立場からのみ、戦争計画は、首尾一貫したものとして生み出されます。それによって、状況の把握と判断がより容易で自然なものになり、確信がより強固になり、行動の動機がより確信に満ちたものになり、戦史がより理解しやすいものになります。

戦争は有機的な全体としてみなされなければならず、個々の部分を全体から切り離して考察してはいけません。全ての個別の活動は全体と合致し、全体を貫く思想から発していなければなりません。

政治が戦争間の事象の推移を正しく判断する限り、どんな事象と状況の変化の方向が戦争の目的に適合しているかを判断し、方針を決定することが、政治のなすべきことです。

時に、戦争の指導に対する政治の有害な影響について非難されますが、非難されるべきは政治の影響ではなく、影響を与える政治の中身です。政策が政治の目的に適合していれば、政治の意図を帯して行われる戦争に有利な影響のみを及ぼします。

政治家が、特定の戦争手段や方法に対して、それらの本質に適合しない誤った効果を要求する場合、政治的な決定が戦争に有害な影響を及ぼします。政治家も自らの意図に反することを指示することがあるので、政治的交渉を指導すべき政治家にも軍事に対する一定の理解が不可欠です。

政治と軍事の最高指導者が同一人物に統一されていない場合に、戦争を政治の意図する目的に完全に適合させ、戦争手段を政策に完全に調和させるための適当な方法は、最高司令官を内閣の一員に加えることです。それによって、内閣は、最高司令官による最も重要な決定に関与することができます。

しかし、これは、内閣が戦場の近傍に位置する場合にのみ可能です。そうでなければ、重大な時間の遅れなしに決定することができないからです。

最も危険なのは、最高司令官以外の軍人の内閣における影響です。これが、健全で有効な対応をもたらすことはほとんどありません。