教育の変化 ー 知識の時代 ー 断絶の時代④

今日の知識社会では、学校の教育と修了証書が、就職、生計、職業上の経歴を大きく左右するため、あらゆる人間にとって教育が必要不可欠です。

教育は教育者だけにまかせる問題ではなく、社会全体で取り組まなければなりません。 あらゆる社会的機関が携わる必要があります。

まず、知識社会の到来を踏まえて、教育の社会的な目的や責任について検討が行われなければなりません。教育には必ず価値観を伴うことが必要です。

教育制度は開放的であることが必要です。生まれや育ち、富やそれまでの教育にかかわらず、高度の教育を受け、社会の上層へ進む機会を与えられなければなりません。

知識社会において教育に終わりはありません。高等教育を受けた者が、何度でも学校へ帰ってくるようにしなければなりません。

教育の社会的責任は、実力主義が金権主義に変質することを防ぐことです。修了証書は、能力と勤勉に対して与えられるものであり、金に対して与えられるものであってはいけません。

裕福でなければ有名大学に進学できないのであれば、修了証書が金に対して与えられているのと同じことになってしまいます。そして、有名大学の修了証書がなければ、よい仕事と経歴を得ることができないのであれば、事実上の階級社会です。

教育科目はこれまでと大きく変わらなくても、社会の変化に対応して、教育内容には、コンピュータの初歩的な技術、技術に関する理解、町や国や国家がもはや境界ではなくなってしまった今日の複雑な世界についての理解、自らのルーツや地域社会に対する一層の理解、知識に伴う責任を教えなければなりません。

知識社会の知識は急速に変化していくため、学習の方法についても学ぶ必要があります。脱ビジネス社会としての知識社会とは、生涯教育や第二の職歴が当然のこととされる世界です。

学校教育の社会的役割の変遷

学校で教える科目はほとんど変わらなくても、国によって、時代によって、教育の社会的な役割は大きく異なります。教育がつくり上げようとする社会や、支配者や、指導者は大きく異なります。

中国はかつて儒者を支配者として育てました。

西洋においては、16世紀末から17世紀初めに、教育の社会的な役割に関する考えが形成され、当時のカトリックのイエズス会は、貴族や学者に対する支配権を握るために、最初の近代的な学校をつくりました。

その後、チェコのコメニウス(1592年~1670年)は、普通教育の必要性を初めて唱え、熱烈なカトリック教徒であったハプスブルグ家の政治的支配に対抗して、チェコのプロテスタント性を守ろうとしました。

18世紀に入り、当時イギリスの植民地であったアメリカが、コメニウスの影響を受けて、市民育成の場としての学校をつくり上げました。

同じ頃、オーストリアのヨーゼフ2世皇帝(在位:1765年~1790年)が、高等教育機関のギムナジウムを創設し、教育をカトリック教会の手から奪い取ること、宗教とは関係のない人たちを宗教は関係なく教育すること、平民の有能な若者に社会的な機会を与えることを目的としました。

日本では、士農工商という身分制度に対抗して、学者、書家、画家としての能力だけを重視する実力主義をとることによって、近代日本の基礎をつくりました。

ナポレオン(1769年~1821年)は、新しいエリート養成機関として国立専門大学(グランゼコール)をつくり、平民的、世俗的、愛国的な支配階級を育てました。

1809年には、ドイツでフンボルト(1767年~1835年)が、最初の近代的な大学を設立しました。エリートを教育するためのものでしたが、革命後の社会において、旧体制の維持を図ることが目的でした。社会に対し、知的な自由を与え、絶対君主制を支え、生き延びさせることを目的としました。

19世紀に入り、アメリカに大量移民が入ってくるようになると、学校は、彼らをアメリカ化するために、アメリカ的信条を教えるための教師になりました。

近代高等教育の生みの親として知られるイギリスのアーノルド(1795年~1842年)は、階級社会を維持し、ジェントルマンを教育するため、パブリックスクールをつくりました。他の教育制度の多くが、社会階層間の移動を容易にするための手段とされたのとは対象的です。

教育ある人間とは

教育は、経済にエネルギーを与え、社会を変えます。

教育を受けた人間は、充実した人生を送り、日々の生計の資を手に入れる手段を獲得します。特に、知識社会においては、教育によって習得した知識を用いて、組織に関わって仕事をすることが前提です。

したがって、教育は、社会に対して経済的な価値を生み、自らも生計の資を得ることができるよう、仕事に役立つ技術を教えなければなりません。

特に、組織において成果をあげられるよう、自分の考えを伝える能力、他人とともに働く能力、自らの仕事や貢献や経歴を方向づける能力を身につけさせるほか、組織を通じて自らの望みや価値観を実現する能力を身につけさせることが必要です。

社会の人びとに対してよき影響を与えるための徳を身につけさせるものであることも必要です。そのために、人文科学や一般教養を意味あるものとする必要があります。物事の理解、正しい行動の指針を与えるものでなければなりません。

継続教育の必要性

学校教育では、人生の初期において完結した教育を行わなければならないという考え方があります。これが詰め込み教育につながり、どの科目をどこまで教えるのかという問題に終始しがちです。

この考え方を根本的に変えなければなりません。

労働寿命が延びた知識社会においては、継続学習が必須です。成人し、就職した後、学校に再び戻ってくることを前提に教育を考えておかなければなりません。

この前提で、人生の初期に行う教育を考えるならば、特定の科目ではなく「学び方」を学ぶことの方が重要です。

経験を前提とした教育

科目には、それぞれ学ぶのに適した時期があると言われています。

経験を積んだ後のほうが効果的に勉強できる科目は多く、マネジメントはその一つです。法律、医学、教育学、建築学なども、経験が学びの助けになります。

あらゆる学問分野において、経験を要する科目があると言ってよいでしょう。

マネジメントなどでは、経験に代わるものとしてケーススタディなどが活用されますが、経験に勝るものではありません。新卒MBAが実務であまり役に立たないというのも、結局、経験に裏づけられていないからです。

ゼネラリストとは、いろいろなことを知っていたり、いろいろなことができる人ではなく、経験との関連において様々な専門知識を理解でき、様々な専門を一般に関連づける能力がある人です。

あらゆる専門分野に精通することは不可能ですから、一人で何でもやって成果をあげるのがゼネラリストではありません。ある目的に向かって、様々な専門職の仕事をを統合して成果をあげることが、ゼネラリストの役割です。

知識に裏づけられた経験が重要です。経験だけで試行錯誤する学びに比べて、格段に効率的で効果的だからです。知識が経験を体系化することができ、経験が知識をさらに強化することができます。

このような学びは、学校教育の延長によって対応することはできません。継続教育を重視し、それに必要な学校教育を考えるべきです。経験をもって学校に戻ってくる者のやる気と成績は、経験のない子どものそれらと比べて非常に高いと言えます。

青年期の問題への対応

ドラッカーによると、学校教育の延長は、青年期を延ばすことによる問題を生じさせていると言います。

人間には、実年齢と社会年齢があります。実年齢は、生まれてからの年数であり、生理的な成熟度に関わります。栄養状態の改善によって、生理的な成熟は実年齢に対して早まっていると言われています。

社会年齢は、行動と精神の成熟度に関わり、平均寿命あるいは労働寿命によって規定されます。同じ実年齢の場合、平均寿命が長い方が、一般的に社会年齢は若くなります。例えば、人生50年の場合と人生80年の場合を比較すると、同じ15歳の人は、人生50年の場合の方が社会年齢は高くなるります。

現代は、生理的な成熟は早まっているのに、行動と精神の成熟は遅くなっていることになります。

ドラッカーによると、生理的に成熟する15歳と、社会的に成熟する25歳の間の期間が「青年期」です。青年期は自然のプロセスにおける一段階というより、人工的、社会的状態によってつくり出されている時期です。自らの能力と、社会的に要求される行動とが食い違う曖昧な時期です。

昔は、元服のような大人になるための儀式がありました。あるいは、15歳ですぐに働きに出ることで、大人にならざるを得ませんでした。

現代は、学校教育の延長によって青年期が生まれ、長引いています。その間、同年齢の者だけで構成される不自然な社会に閉じ込められているため、学校でどのように教育を工夫しても大人になることができません。

やるべきことは、学校教育をさらに延長することではなく、経験の機会を与えることです。学校にいる間にも、大人と一緒に働かせ、経験させ、成果をあげさせることです。さらに必要なことは、大人として数年働いた後、学校に戻れるようにすることです。

大学院では、昼間に働きながら、夜間に学校に通う方法もとられていますが、負担が大きすぎます。意欲があり、優秀な学生であっても、学位をとれない者は多いと言います。

落ちこぼれによる中退への対応

学校教育の延長は、中退という問題も増やしています。中退は雇用に当たって著しい不利です。中退は「問題を起こした」と受け止められるため、雇用に不適とみなされるからです。

ドラッカーは、落ちこぼれによる中退は、本人ではなく学校の失敗であると言います。学校は、授業を面白く通いがいのあるものにしているかどうかで評価されるべきであると言います。

同じ成長過程を経る者などいないという事実に即して、一人ひとりの生徒のニーズと意欲を満たし、かつ、生徒のリズムに合わせるカリキュラムが必要です。

学校教育の延長は、学位の有無によって人を差別する学歴の壁をもたらしました。学歴が就職の必須条件となっている場合が多く、実力などで代替する余地がありません。それは階級制度と同じであり、機会の平等が失われています。

現在の卒業証書は、事実上、一定期間学校で過ごしたことの証明にしかなっておらず、学問的な能力さえ十分に証明するものではありません。

ですから、就職の条件とするなら、実力や意欲の方がよっぽど重要です。学歴を一切問うべきでないとは言わないまでも、実力や意欲など他の要件で代替できる余地は残すべきです。

実力や意欲がある者を採用して、継続教育を受けさせる方が、よほど学習効果が高いと言えます。

ドラッカーは、学校で、取得単位が不足していたとしても、能力のあることが明らかであれば、認定証書を出すべきであると言います。

教育の改善

生徒に対し、卒業後も継続して学習する能力と知識を与え、かつそのような欲求を植えつけることは、やさしくありません。

学校は、生徒がどの進路を選んでもよいように、基本的な技術だけは身につけさせておくことは必要です。ただ、成長の過程では、成果をあげることに伴う達成感を経験することも重要です。

学校は、あまりにも生徒の短所にばかり目を向け過ぎています。これでは、学習することに喜びを見出すことができず、卒業後に自ら学習を継続する意欲が身につくとは思えません。

また、退屈で刺激がなく、何ごとも達成することがないため、いかなる満足も与えません。その結果、人格を形成するどころか、歪めるものになっている面もあります。

生徒に何かを成し遂げさせ、達成感を味わわせるためには、長所や才能に焦点をあてなければなりません。他より優れているものを、さらに秀でたものとすることです。苦手なもので優れた成果をあげることはできないからです。

知覚と感性の訓練も重要です。

教育では、知識に伴う責任も教えなければなりません。知識労働者は、社会のリーダーとなるために、知性、価値観、道徳観が要求されるからです。

教育現場の問題と手法の改善

あらゆる組織は、急激に成長し、量的に拡大すると、どこかの時点で、これまでの基盤や構造では立ち行かないところまで至ります。こうなると、質的な転換を図らなければ、生き残ることはできません。

ドラッカーによると、今日の学校がそのような状態になっています。

生産性は低くなり、投資に見合う成果が得られなくなります。教育の場合、無制限に教師を増やすことはできないため、教育の内容で生産性を高めるしかありません。

メディアの発達により、学校や学習法が大きく変わりつつあります。コンピュータ、テレビ、ビデオなどの活用です。体験しつつ学べるようにすることが大切です。

その結果、教師は、監督や相談相手としての役割を強めていくといいます。助けること、導くこと、範を示すこと、励ますことが中心になっていきます。

かつて、印刷された教科書が、学習熱を引き起こしたといいます。それ以前の学習は、原本の書写であったり、講義を暗唱することでした。教科書によって、誰もが自分の好きな早さで、自分の家で、友達同士で、共に学習することができるようになりました。

現代は、テレビやコンピュータが同様の学習熱をもたらしています。学習意欲の向上こそが、学ぶ能力を高めることであり、教育を受けることの本質です。

ドラッカーは、テレビのコマーシャルが学習プログラムの手本であると言います。わかりやすい情報、明確なイメージ、完全な理解です。配列、反復、動機づけという学習の三大要素を完備しており、時間の長さが子どもたちの持続力にピッタリであると言います。

教育の世界は、いまだ優れた仕事ができるようにするための方法が開発されていない職業であると言います。評価測定の尺度もありません。

産業分野の仕事においては、知識の適用によって生産性が向上してきましたから、教育においても知識の適用が必要です。

子守の問題

授業の時間動作分析によると、教師は、ほとんどの時間を、教えることではなく、子守りに費やしていると言います。つまり、教師の生産性は決して悪いわけではなく、教えている時間そのものが僅かであるために、生産性が低くなっているわけです。

職業教育の重要性

キャリア、機会、昇進を得るために必要なものは、今や財産や才能よりも教育です。ですから、職業教育(職業訓練)の充実も重要です。

しかし、学校で教えられる技能は、常に時代遅れになりがちです。しかも、普通学校に進学できない生徒がやむを得ず通うところになっています。

職業教育として必要なことは、知識の裏づけをもった技能を教えることです。知識の裏づけで重要なことは、技能を習得し続けることができるようにすることです。知識の裏づけがなければ、技能は特定の使い道しかありません。

このような職業教育によって育成される技能者は、ドラッカーの言う「テクノロジスト」に該当します。純粋な理論家ではなく、知識のみを使う技術者でもありません。理論によって裏づけられ、肉体も使って仕事をする人です。

職業教育についても、個々の技能ではなく、普遍的な能力を身につけることが重要です。技能を習得したり、成果をあげたりすること、つまり、何事かを達成するための基盤としての知識を体系的に習得し、適用する方法です。

学びの理論

知識社会においては、学ぶ能力を身につけることが重視されるべきです。知識は陳腐化するため、継続学習が求められるからです。

ただし、ドラッカーは、価値観、洞察力、物事の意味については、教えなければならないといいます。また、子どもの長所をつかみ、才能を成果に方向づけるには、教師が必要です。

これからは、学校によって異なった学習環境を提供し、生徒は、自らに合った学校を選べるようにすることも必要です。生徒に相応しい上位の学校を示すことも、教師の仕事になります。

行動科学と認識科学

学ぶことについては、二つの理論があります。一つは行動科学であり、練習と反復による機械的プロセスによって知的な習慣を形成することです。もう一つは認識科学であり、理解、意味、洞察することです。

前者は学ぶことを行動することと捉え、後者は学ぶことを認識することと捉えています。どちらかが正しいののではなく、両者は補完関係にあり、両者が合わさって知識になります。

ここから「教えること」と「学ぶこと」の関係が分かります。「教えることで、学ぶことができる」という単純な仕組みではありません。教えたからといって、本当にその通りに学んでいるとは限りません。

教えても(行動)、本人が学ぼう(認識)としなければ学べません。しかし、まず教えなければ、学ぼうとも思えません。しかも、学ぼうと思えて初めて、教えることに意味が出てきます。

「行動」は、自ら学ぶことにおいても重要です。反復的な機械的プロセスが必要であるということです。学習における行動は情報のインプットですから、インプットの順番や組み合わせ、繰り返しが重要です。さらに、行動は、学習の習慣化という意味でも重要です。

機械的プロセスのなかには、一定の動機づけも組み込んでおかなければなりません。情報を組み合わせ、インプットし、確認し、評価し、達成感を味わうというプロセスです。教えるということは、このプロセスの構築と実行に関わることであり、模範を示すことでもあります。

教えることによって、子どもが自ら学び続けることができるようになることが大切です。学ぶためのプロセスには、適切で周到なプログラムが必要です。

学びにおける個人差

心理学によると、子どもの学ぶ能力にはほとんど差がありませんが、リズム、速度、持続性に個人差があるため、それらを理解しなければ、学ぶ効果は得られません。このため、集合教育では、できる子どもとできない子どもに分かれてしまいます。

ただし、集団教育の場合、合唱効果を利用できると言います。集団としてのリズム、速度、持続性をつくり出すことが可能であり、声を出しながら計算をしたり、大きな音を立てながらリズムを取ることで、個人差をある程度均すことができるようです。

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